「好き」という言葉を用いる資格にかんしてためらっている
「好き」という言葉を用いる資格にかんしてためらっている 久住哲.icon
好きなVTuberにアイコン付けてたときに気づいたが、対象に触れはじめてから1〜数ヶ月くらい経たないと好きかどうかは分からないと、自分は思っているっぽい これは、〈自分はAを好きな状態である〉という事実の認識のために期間を要するという話ではない
そんな事実は生のままでは存在しない
日々Aに繰り返し触れているという事実やことあるごとにAのことを考えてしまうという事実はある
これは、自分が「好き」という言葉を使うときに自分自身にたいして勝手に設けているルールの話だ このルールの存在を認めた他人は、久住哲.iconが「これこれが好きなんだよね」と言ったときに、「じゃあ、それに触れはじめてから数ヶ月経ったんだね」という適切な推論ができるだろう(こんな会話は不自然だが)
他人とのやり取りを考慮してのことではなく、自分の中での勝手なこだわりの範疇 このルールは固定されていない
例えば、はじめて行ったお好み焼き屋でお好み焼きを一口食べて、久住哲.iconが「これ好き!」と言ったからといって、それは必ずしも「ルール違反」ではない
この考えを他人に当てはめるとおかしくなる
他人は久住哲.iconの内的な言葉のルールを知らないし、「知ったこっちゃない」ので、その内的ルールとは異なるルールが支配していると思っているだろう
例えば、『好きなVTuber』というページの上には「よく見る」くらいと書かれている。ここから読み手は、そのページで推奨されているであろう振る舞い方についてヒントを得ることができる。 より厳密には、それはcFQ2f7LRuLYP.iconさんの発言なので、そこから読みとるべきはそのページ全体の当為ではなく、cFQ2f7LRuLYP.iconさんのアイコンの意味である なので、思っているっぽいのでもない。久住哲.iconは或るルールを明確に意識的に自分の記述にたいして適用していた
わかる基素.icon
久住哲.icon
名前の無い状態に名前を付けないまま、その状態を自足的に肯定することは可能だ
久住哲.icon
押さえておくべきだと思う原則
〈好きであることと、「好き」と言うことは違う〉
こう思いがち
何かが好きだと言うという行為は、自分の内なる好きという感情を言語化して外に出すことだ
これが元凶久住哲.icon
こう考えると、好きであることと「好き」と言うこととの間の違いは、前者が内的なものに留まっているのに対して、後者は外的なものにもなっているという点に存する……ということになる
好き発言と好き状態は違う
【「〜が好き」と言う】ならば、社会的評価に巻き込まれざるをえない。これは本質的なことだ。
しかし、【〜が好きであるという状態】にとって社会的評価は本質的なことではない。
すなわち、好きであることと好きだと言うこととは、単に内的か外的かという違いにとどまるものではないいはずだ
ここでいう「社会的評価」とは
以下ではない
ある発言が善か悪かを決める道徳的評価
ある発言が優れているか劣っているかを決める美的評価
以下である
意味が分かることを言っているかどうか・意味あることをしているかどうかを評価する
「変なことを言っていないか?」「意味不明なことを言っていないか?」「悪いことを言っていないか?」「筋が通っているか?」など
評価者についていくつかのバリエーションがある
1. 評価者がお互いに対等な場合
2. 評価者が上位に立っている場合
3.
「好きならば詳しいはずだ」という推論は適切である。ただし、「好きならば必ず詳しくなければならない」という推論は不適切である
who.icon「好きなら詳しいはずだ」
who2.icon「たしかに好きな人が詳しくなることはよくあるけど、好きだけどそこまで詳しくない人だっているよ」
「好きだけど、そこまで詳しくないかもしれない」というのも適切な推論であり、これを、「好きならば詳しいはずだ」というこれまた適切な推論と両立させるべきだ久住哲.icon
ところで、これは適切な推論だろうか?
不適切な振る舞いを繰り返している人は、周りから「この人は(本当は)何がしたいのだろう?」と疑われる。それが行くところまで行くと、正気を疑われる
不適切な発言(的外れな発言)をつうじて、相手の言い間違いに気づいたりすることがある。だが、どうして気づくことができるのだろうか?