自分で「試論: デジタル・アジールの模索」を再読
自分も、自分に映っている井戸端にかんして何か書こうかなと思ったけど上で書いたことで特段変更はなかった。
一点補足が今日の文脈であるとするなら: 上はコミュニケーション的行為が強調されて読めるかもしれないが、「質が高い」あるいは「ネタ」(あるいはその他)なページを、共同で作ったり修正したりすることにも(國分のいうところの)アジール性を帯びていると考える ただ國分が指摘したアジールは、教室という閉じた空間のことを指しているから、パブリックな場にはそのまま適用できない。閉じていること自体がアジールなのだろうし。だからパブリックな空間でのアジールをどう取り出せるかを考えたのが上だが、なかなかうまくいっているか不安定なので「試論」は外せないでいる
元来クローズでやるべきことが公然となされようとする点でなかなかに困難。
cf.
自室はプライベート空間として近代機能した一方僕らは電子端末を通じこの空間に「穴(鈴木謙介は〝孔〟と)」を開ける時間が増えた。例えば私的な利害を超える大勢のボランタリー精神が完成させたLinuxの物語は美しいけど情報の全てをオープンにすべきかといえば要保留。 隠さないこととの境界を考える。
関連