自分がやっているタスク管理(手法)と違うと人種が違うように思えていた
玄武.icon自分のタスク管理(手法)と違うことをやっているのを見たり、読んだりすると「自分とは関係ないかなあ」と意識から排除する働きがあります。
逆に「GTD」といった単語を見たり、読んだりすると「自分に関係あるかも」という意識が生まれます。
とはいえ、最近はGTD一つとっても自分はGTDを参考にしてタスク管理しているだけで、他の人がGTDだと思っているものと認識が違う部分がありそうだという意識を以下のコメントを頂いてから持つようにもなりました。
まったく個人的な意見ですが、そのリストはタスクリストを逸脱していますし、なんならもうGTDを逸脱していると思います。
GTDではないことをしているというよりは、GTDをはみ出ている、という感触。
そうそう、確かに自分のリストは主観的には「タスクリスト」ですが、客観的にみたらタスクリストからも逸脱しているようでした。
ですが、タスク管理・GTDのひとつ上の階層を考えると、そこには「書き、考え、集め、並べ、読み返す」などの共通の行動があることに気付かされます。
強く言えば、自分がやっているタスク管理(手法)と違うと人種が違うように思える。
一人ひとりの考え方が違うので、違って当たり前とも思える。
DoMA式は、一人ひとりが注意を向けている対象を扱えるのでこの点が素晴らしい。
rashita.iconDoMAってすごい!(自画自賛
DoMA式を知ったから、タスク管理・GTDのひとつ上の階層を考えられ、そこには「書き、考え、集め、並べ、読み返す」などの共通の行動があることに気付かされたのかもしれない。
rashita.icon「自分とは関係ない」と感じる気持ちと「自分とは違う」と感じる気持ちについて、検討したい。
多様性を認めること
断絶がおきること
自我(自他)の境界線を引くこと
よいことと、そうでないことが含まれているはず。
sta.icon抱える物量や難易度の違いから人種の違いを感じることはよくあります
僕は独身かつ毎日定時退社という楽な生き方を心がけているので、そもそもタスクが少ない
一方で
既婚者で残業前提で働いてる人は、タスクも多い
のでこの人達向けのタスク管理を見ても「ふーん」くらいにしか思えない
(しかしタスク管理は趣味でもあるので、適当に咀嚼して取り入れようとしてみたりはする)
「自分のできる範囲で頑張るマン」と「そんなの知らんですやりたいことがあるのでとにかくそれに向かって盲信するですマン」の違いも大きそう
僕は前者なので、後者のタスク管理を見ると「うっ」となる
(タスク管理界隈のネタになりますが)佐々木さんは前者で、jMatsuzakiさんは後者だったという対談?をどこかで読んだ覚えがあって、だから僕は佐々木さんのネタが参考になりやすいのかなと思ったりもした
人種の違い、の捉え方
私はこっちですねsta.icon
言われてみればたしかに当たり前のことですね
少し振り返ってみたのですが、以下の心理がありそう
僕はタスク管理を「誰にでも通用する銀の弾丸」と捉えている なのに通じる人と通じない人がいる
通じない人 is 何?
こっちが信じられない or (僕の持論が壊れてしまうがゆえに)信じたくない or こっちの人達も包含したタスク管理を扱う・考えるのはだるいから、「違う人達」という拒絶的な(差別的な)くくりでくくって自己防衛したのかもしれない
加えて、「"ぼくのタスク管理" を適用できない人達」に対する優越感を得る目的もありそう
「人種」というワードがたぶん誤解を招くので「タイプ」くらいが良いのかもしれない
似た表現として「宇宙人」もありそう
nora.icon「人種が違う」という表現が気になるのですが
タスク管理はタスクの質や量が違っていれば違って当然であって、タスクの質や量が異なる間でタスク管理の状態が違うのは「違う生活をしている」ということしか意味しないような気がする
SNSとかでは、違う生活をしている人のことを「人種が違う」と呼んでいることも確かにある
強く言えば、自分がやっているタスク管理(手法)と違うと人種が違うように思える。
ここでの「人種が違う」ということは、タスクの質と量がほぼ同様であるにも関わらず、全く違う管理をしているということに「人として根本的な違い」を感じているということでしょうか
rashita.icon
一つの推測というかイメージとして、他の国の人(日本人にとってだいたい人種が違う=他の国の人というイメージが強いのでとりあえずこう書きます)には注意や関心を同じ国の人と同程度には向けない、というのがあって、そういう注意の差(あるいは関心のなさ)の具合を表現すると、上のような表現になるのだと思います。
「人として根本的な違い」を感じているというよりは、全然別の国(≒人種)の話を聞いているみたいに、現実感(というか、当事者意識というか)が出てこない、という感じなのかな、と。
興味の薄さの表現。
nora.iconそういうことならば、主語が「自分」というひとつしかないことに気がついた、ということを意味しているのかなと思いました。
nora.icon自分を含む、自分と似た集団を基準にして、それ以外に対して「人種が違う」「自分とは関係ない」と考えるのは、自分が他の集団へと変化していくことが想定されていない(現在他人事のものは永久に他人事であると解釈している)という点でなんとなく危ない香りがするのですが、そもそも自分ひとりだけ(集団ではなくひとり)を主語にしているのだとすれば、それはそれで「これは自分には適用できないだろうな」と判断するのは妥当とも言えます。最初からピンと来ないような相性の合わない手法を取り入れようとしてもあまり良いことはないかなと。