書ける場があるだけでは十分ではない
rashita.iconは、昔からHTML日記やらブログやらをやってきた。書くことが好きだからだが、やはりHTML直書き日記のときよりも、ブログをスタートさせてからの方がずっと面白く、有益になったと感じる。それはやっぱり「やりとり」があったからだろう。
かつてのDoblogは (mixi + blog)/2 のような、コミュニティー志向のブログサービスで、そこでは「うるさくならない程度」のソーシャル要素があった。そこで、倉下は「読み手と出会った」感覚があった。単にカウンターの数字が上がるのではなく、そこにリアルな読む人間がいる、という実感を得た、ということ。実際にコメントでのやりとりも(ちょっとした論争も)経験した。
文章を通したやりとりがあると、自分の書き方のまずさによって言いたいことが伝わっていない感覚が味わえる。それを解消しようとする意欲も湧く。「自分の素の書き方」が一旦傷つけられ、そこから超再生が始まる。
そのような変化は、単に文章力が向上するだけでなく、自分の考えの組み立て方そのものを変えていく。頭の中で勝手に拵えた「論敵」ではなく、リアルな声として生成されるようになり、その声に応えるように論を組み立てるようになっていく。
思考において何が健全なのかを判断するのはきわめて難しいが、少なくともそうした思考の組み立て方の「独りよがり度」は低いといえるのではないか。
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昔に比べれば、もっとずっと情報発信はしやすくなった。書ける場は増えた。でも、それだけでは十分ではないのだろうという感覚がここ二、三年でずっとつきまとっている。何かしらの場が必要で、しかもその場は「一緒に集まって、ニコニコ仲良くやりましょう」というお題目を達成するために、他の人に何もコメントをしない(傷つける可能性のあることは1mmも言わない)のではなく、互いに敬意を持った率直さで意見交換できる(少なくとも、相手を人間だと思って物を言う)場である必要がある。
でもって、そのような場は、フルにオープンなものではなく、ある程度のクローズドさが必要なのだろうとも感じる。
nora.icon
互いに敬意を持った率直さで意見交換できる(少なくとも、相手を人間だと思って物を言う)場である必要
「敬意」+「率直さ」の両輪が必要だなと私も思います。
敬意を遠慮、率直さを不躾さと混同していると、敬意と率直さを対立するものとして捉えてしまう可能性がありますが…。
努力は必要ですが、両立するものだと思います。
匿名掲示板を思い出してみると(nora.icon個人は最近見ていないので昔の記憶ですが)
匿名なので大抵まず「率直さ」がフルに発動している
板・スレの住人の数や「民度」、話題の質によって、住人全体に「敬意」を持って書き込むか、「敬意」を捨てて殴り合うかの違いが現れる
穏やかなスレに居場所を見出した人は確実にいて、それは「敬意」+「率直さ」があったからではないか
ある程度のクローズドさが必要
これもそう思います。
そしてこれって、「人間関係を構築する努力」が求められることでもあると思います。
それは別にものすごく大変な努力を強いられることではないと思いますが、何の気遣いもなしに思うがままに振る舞うことはあまり許されないような気がします。
得手不得手の差はあり得ます。不得手な人を締め出しては本末転倒であり、得意な人が不得意な人を補う気遣いが必要になってくると思われます。
rashita.iconこの感覚は大切ですね。その意味で「平等」という感じではない。ある種のケアが働いている。
「書く」とか「発信する」といった切り口から考えると表現が少し遠回りになる感がありますが、私の印象としては結局のところ「自然で敵意のない『会話』が生まれる場」というのが、たとえ対面でなくとも人間同士である以上は必要なのだろうと感じました。
発信の場、議論の場すべてがそうなるべきというのではなく、人それぞれどこかにはある程度安心できる(対立が致命的なものにならないような)会話の場が必要なのかもと。
発信をする人ならば、自分の発信の場のうちのどれかが会話を伴う場だと良いだろうとは思います。
個人的には、会話的要件を満たさずに敢えて敬意を捨てて言い争うということにどのようなメリットがあるのかはよくわかりません。でも必要だと感じる人はいるようなので、じゃあ必要なのだろうなと思っています。
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