あらゆることはタスク管理に脈づられる
たとえば、/taskmanagement/お金にまつわるタスクを管理するについて考えてみる。そこで展開されている思考は、「お金のことについて考える」という思索と、その結果に基づく行動の励起であろう。私の中では、そうした思考活動は「タスク管理」ではないので、「すべてはタスク管理」であるとは思えないのだが、逆に言えば、玄武さんにとって、「xについて考え、そこから行動を起こす」という思考活動が「タスク管理」的であり、であるからこそ「すべてはタスク管理である」という仮説が立ち上がってくるのだろうと推測する。(この段落だけで、非常に楽しい)。 なぜならは、私の意識は、必ず意識の流れの上にあり(定義から言ってそうなる)、意識の流れは時間の流れと相似であり、それはすなわち私の意識にとってあらゆることが「行動」足り得るからだ。
私は先ほど思考活動という特殊な用語を用いたが、それは一般的に「思考」と呼ばれている抽象的な活動であっても、それは必ず現実の時間軸の上に載せることが可能である、というニュアンスを含んでいる。思考と行動(活動)は、二項対立するものではない、ということだ。そして、思考すらも行動であるならば、すべては行動であり、行動を管理するタスク管理の範疇に収めることに、理論的矛盾は存在しない。よって、「すべてはタスク管理である」という理屈は(説得されるかどうかはさておき)一応筋が通っている。
そのような論理の包括性の検討は言葉遊びでしかないが、「xについて考え、そこから行動を起こす」という思考活動こそが大切なのだ、という視点はこの分野について検討していく上で極めて重要なものになるのではないか、とは感じた。ある人はそれをタスク管理と呼ぶかもしれないし、別のある人は情報整理と呼ぶかもしれない(人間の行動だって情報だと言えば情報であり、「すべては情報整理である」とも言えるわけだ)。あるいはアウトライン・プロセッシングとも呼び得るだろう。