あらゆることをタスク管理に脈づける
このScrapboxプロジェクトのオーナーである玄武さんは、「すべてはタスク管理である」という仮説を持っておられる。私は「すべてはタスク管理」であるとは考えていないが、しかし、その視点には惹きつけられる部分も少なくない。少なくとも「すべては幻想である」のような、それ以上どこにも進む道しるべがない極端な言説に比べると、ロッククライミング的な楽しさが感じられる。 たとえば、お金にまつわるタスクを管理するということについて考えてみる。そこで展開されている思考は、「お金のことについて考える」という思索と、その結果に基づく行動の励起であろう。私の中では、そうした思考活動は「タスク管理」ではないので、「すべてはタスク管理」であるとは思えないのだが、逆に言えば、玄武さんにとって、「xについて考え、そこから行動を起こす」という思考活動が「タスク管理」的であり、であるからこそ「すべてはタスク管理である」という仮説が立ち上がってくるのだろうと推測する。(この段落だけで、非常に楽しい)。 なぜならは、私の意識は、必ず意識の流れの上にあり(定義から言ってそうなる)、意識の流れは時間の流れと相似であり、それはすなわち私の意識にとってあらゆることが「行動」足り得るからだ。
私は先ほど思考活動という特殊な用語を用いたが、それは一般的に「思考」と呼ばれている抽象的な活動であっても、それは必ず現実の時間軸の上に載せることが可能である、というニュアンスを含んでいる。思考と行動(活動)は、二項対立するものではない、ということだ。そして、思考すらも行動であるならば、すべては行動であり、行動を管理するタスク管理の範疇に収めることに、理論的矛盾は存在しない。よって、「すべてはタスク管理である」という理屈は(説得されるかどうかはさておき)一応筋が通っている。
そのような論理の包括性の検討は言葉遊びでしかないが、「xについて考え、そこから行動を起こす」という思考活動こそが大切なのだ、という視点はこの分野について検討していく上で極めて重要なものになるのではないか、とは感じた。ある人はそれをタスク管理と呼ぶかもしれないし、別のある人は情報整理と呼ぶかもしれない(人間の行動だって情報だと言えば情報であり、「すべては情報整理である」とも言えるわけだ)。あるいはアウトライン・プロセッシングとも呼び得るだろう。
私はどちらかと言えば、「すべてはnである」という言説よりも、むしろさまざまなnの中にあるコアとも呼べる共通性をすくい上げる方が好きなのであるが、それは脱線なのでさておくとして、「xについて考え、そこから行動を起こす(あるいは起こさない判断を下す)」ということが、私たちが普遍的に必要としている所作ではないのか、という問題提起をして、一応終えておく。
玄武.icon『あらゆることをタスク管理に脈づける』読む
「すべてはnである」という言説よりも、むしろさまざまなnの中にあるコアとも呼べる共通性をすくい上げる
さまざまな事象・対象の中にあるタスク管理性(?)を見出したうえで、「すべてはタスク管理である」という仮説を持ったので、このコアと呼べるものを私は「タスク管理」だと思ったのですが、「すべてはタスク管理である」という仮説のページでは、いきなり大上段に「すべてはタスク管理である」と構えたような書き出しになってしまっていますね。 別の視点からは、対象の中にタスク管理(タスク管理性?)を見つけることが楽しい(見つけることで自分の舵をとりやすくなる)から、そういうものの見方・考え方をしているだけであって、以前に書いたタスク管理やGTDから効率化を引いてなお残るもののとおり、そこには必ずしも効率性や人間を機械か何かののように扱うようなことはなくてよいと思っています rashita.iconタスク管理性、という言葉はとても良いですね。実にしっくりきます。
例文.「私はモンスターハンターの中にもタスク管理性を見出すんです」
これが「私はモンスターハンターでもタスク管理しているんです」だと、僕にはしっくりさが薄れます。
rashita.iconタスク管理は、すべてに通じている
1. あらゆる行為・活動・営為の中にタスク管理性を見出すことができる
2. つまり、「タスク管理」を学べば、あらゆる行為・活動・営為を「よりよくおこなうことができる」(鍵括弧内は暫定版です)。
3. だから、「タスク管理は、すべてに通じている」
タスク管理は万事に通じる
4. こういう論旨は、僕ならすごく楽しく読めそうです。
残された問題は「2」の中にどんな文を置くのか。
「よりよくおこなうことができる」
「よりうまくおこなうことができる」
えとせとら、えとせとら
言い換えれば、ここに何を入れるかがタスク管理の定義と重なります。