「すべてはタスク管理である」という仮説
確かに今の自分は「すべてはタスク管理である」という仮説を持って生きている(ちなみに自分の中では仮説を持って生きている=「(仮の)行動基準」と言っています)節があり、今のところ、それでなんとか問題解決に役立っていて、まだこれからも伸び代があるとも思っています。
それをうまく表現する(主に書き表す)ことで、誰かの役に立つのであればという思いから様々なアウトプットをしているのですが、そこ(「すべてはタスク管理である」)だけ取り出しても聞いている人からしたらついていけない話になりがちなのですね。
確かに抽象度が高すぎる(本質論?本質主義?)ような他にも「すべては情報である」「すべての物質は原子でできている」と聞かされて、まあ確かにそうなんだけど、対象が持つ構造や現象をどう扱うのかまでが示されていない場合にはついていけないということなのかなと思いました。
つまりそれは何も言っていないに等しい?
rashita.icon個人的な視点では、初心者はまず「区別」を必要とします。あれとこれってどう違うの?という。でもって、その段階を過ぎると(中級者以上になると)「関係」が必要になります(あるいは、関係性に興味を持ち始めます)。この辺になると「すべては〜〜である」みたいなコンテンツが面白くなってきます。
rashita.iconなので自分の思索を掘り下げるときと、初心者向けコンテンツ(ようするに、他の人にわかりやすく、というような文脈)で提示するときで、「見せ方」みたいなものはかえた方がいいだろうな、ということを常々考えながら、今の仕事をしています。
玄武.iconなるほど、たしかに物の伝え方という点からみたときに違いをつける必要はありますね。
rashita.iconつまり、私は「すべてはタスク管理である」という話は面白いです。ただ、その面白さは哲学書を読んでいるときの面白さに近い、という印象。
仮説
すべての対象にタスク管理の一面があるからといって、それで対象のすべてを解き切ることはできない
休みたい、楽したいという単純な欲求から発生するやりたいことのタスクにやるべきことのタスクを割り込ませる
ぷーあるちゃ.icon同名のブログ記事があったので、後で比較してみたいと思います。
ぷーあるちゃ.iconしまった、似ていますが、同名ではないですね
玄武.icon先走って書いてしまいますが「すべてはタスクです。そしてリピートタスクです」の文脈をたどると、記事中の「すべて」とは「プロジェクト」を指していると思いました。つまり、「プロジェクトといえども(粒度の違いこそあれ、すべてリピート)タスクです」といったところだと思います。翻って、このScrapboxの当ページでいう「すべてはタスク管理である」との「すべて」は万物、森羅万象のことを指していますので「すべて」の示す範囲が違っているのだと思います。
ぷーあるちゃ.icon後で書きます