匂いの哲学
人間はしばしば第六感を夢見るが、そのくせ第四感までに甘んじているようである。耳が聴こえない場合や目が見えない場合、一般的にこれらは障がいとして理解されているが、無嗅症はその例ではなく、嗅覚の問題としてのその名前まで忘れられている。鼻を失い、サンクトベテルブルクの道々を探しさまようコワリョーフ少佐の災難は、隣憫よりも嘲笑をかうのだ。半倍半疑、好奇心で寄り集まる人々は、何がおこっているかを見ても、もらい泣きはしない。味覚と触覚にしても、視覚と覚に比べれば感覚としての地位は低いが、それでも嗅覚よりは高い。従来、真ん中の位置を与えられてはいるが、嗅覚は一般的には、五感中で間違いなく最下位のものなのである。
哲学者にしても例外はあるものの、一般的となっているこの価値基準に反論はしない。嗅覚は大した重要性を認められておらず、視覚と臨覚が認識の主なモデルであり、それらは精神の働きを解明するのに使われている。このように、古典的な哲学では、理性は「自然の光」と呼ばれ、啓示からくる「超自然の光」と対比して使われる。真の認識とは、「直観」の対象となったり、「明証性」に基づいていたり、あるいは観念の観想に向けられた「知解可能な視覚」だったりする。反対に無知とは、盲目と反啓蒙主義の治める闇の帝国である。この意味では、プラトンが『国家』の第七巻で語る有名な洞窟の比喩は、意見とその矛盾から発して真の認識に至るまでの道のりが一から十まで視覚の観点から描かれているゆえに、その一例にあたる。
味覚が喚起されることは稀であり、芸術作品の見事さを伝えるための基準として美術の分野で使われる程度だが(訳注:フランス語では、味という言葉goat
が、趣味の程度を表すためにも使われる)、嗅覚に至ってはまるで存在しないかのようだ。
その証拠に、この能力に重点を置いた哲学の著書は見当たらない。
テオプラストスは古代に『匂い論』を書いたが、これは例外にあたり、そもそも現在読まれているのだろうか。嗅覚と嗅覚の器官に多少触れる哲学論は、せいぜい幾つか見られる程度である。パスカルがクレオパトラの身を引き合いに出したのは有名な話であるし、コンディヤックの彫像の覚醒を導くバラの香りもよく知られている。が、これくらいが一般的に知られた哲学命題である。多くの場合、哲学においてこれ以外は参照されず、また、そこでの考えは大して展開されない。
匂いの哲学の勃興
しかし今日、何かが変わってきているように見える。というのも、物理学、生物学、そして人文学でも、嗅覚、匂い、香りについての研究が次々と進められているのだ。歴史学者のアラン・コルバンは、一九八二年発行の『においの歴史ー嗅覚と社会的想像力』(Le miasme et la jonquille)(訳注:邦訳は「新版においの歴史嗅覚と社会的想像力』
山田登世子・鹿島茂訳、藤原書店、一九九〇年、が有名である)という著作によって、嗅覚の沈黙を破るのに大いに貢献したと自負している。一八世紀と一九世紀の嗅覚と社会の想像力についての研究の中で、彼は現在の環境の無菌化につながった大規模な消臭事業の軌跡を辿っている。この、汚臭に対する嫌悪そして浄化の歴史には、良い香りのするブルジョワと、垢を落として消毒する必要のあるプロレタリアとの社会の軋轢とその表象がよく描かれている。コルバンはこうして新規の研究分野の道を拓き、新しい学問の対象を正当化した。
二〇〇四年に二人のアメリカ人が、嗅覚に関する研究で生理学と医学分野でノーベル賞を受賞したばかりである。心理学と微生物学を修めたリンダ・R・バック(Linda R. Buck)と、同僚の生化学のリチャード・アクセル(RichardAxel)は、遺伝子及び分子の段階での匂いにおける知覚、識別と記憶の仕組みを解明し、それによって、それまでほとんど知られていなかった嗅覚系の働きを明らかにした。長い間忘れられ、または無視されてきた嗅覚は今や一躍、思いもかけなかった人気の的となっているの> だ。
芸術家と調香師も遅れをとっていない。ディオールとロッシャの有名な香水のクリエーターであるエドモン・ルドニツカ(Eamond
Roudnitska)が、著書の『問われる美学』(Esthetique en question)において、真実の嗅覚美を造ろうと果敢な挑戦をしているのがよい例である。この本で彼が試みているのは、カントのモデルを嗅覚に移行し、それに基づいた美の哲学を香水の制作者に教えるのと、哲学者たちに香水の成分とその特有の問題について気づかせて、その考察がより深く、知識に裏付けられたものになるようにすることである。 どうして哲学が一つの感覚にこだわるのかは確かに理解しがたいが、この種の研究が何の役にも立たないと結論づけるのにはまだ早い。
ディドロは『盲人に関する手紙』の中で、幾何学者の鼻を想像しているではないか。それなら、哲学者の鼻、もしくは哲学的な異があってもいいでのはないか。「哲学者の鼻」とは、無意味だとか、現実感にまるで知ける矛盾した言葉だとかいう一言で表されてしまう恐れはあるにせよ、実際のところ言い得て妙である。もしそれでも嗅覚哲学が存在しないなら、それが無意味なものなのか、それとも正当性のあるものなのかを知るために、作り出す努力をするべきである。不可能だと前もって決めつけることは、知識が滞る原因の一つであり、それを非難するベーコンの言葉を借りれば、「存在意義のあるものは全て学問においても意義がある。学問は存在するものの鏡だからだ。それだけではなく、麝香と香猫のように腐臭のする物質から芳しい香りが放たれうるように、無価値で嫌悪すべき匂いから知性の光と希少な知識がわき出すことがある(と付け加えている)」。
この比喩は雄弁で非常に的確な選択である。というのも、哲学的対象を嗅覚の領域に置き換えてみれば、哲学の対象はそれ自体は価値が高いとか低いとかは言えず、これによって匂いが認識のモデルを提供しうる、ということが分かる。それなら、突拍子もないパルメニデスの言葉を真似るならば、泥、汚物、悪臭に対する思考の存在についての問いから、今まで嗅がれたこともないような真実の香りが生まれないとも限らないではない
か。
匂いの哲学の提起
比喩を越えて、問題はまさに哲学が匂いと嗅覚を思考の対象として築き上げられるか、また伝統的な探求の範囲を広げ深めるような合理的な嗅覚学を推奨することができるか、これに尽きる。したがって嗅覚哲学の定義には、認識体系、かつ人間の実際の生活における匂いと香りの役割と可能な用途を調べることが含まれる。すなわち、この定義は嗅覚の世界の固有性を証明し、その哲学的な真髄を現す、思考と行動形態の研究につながるのである。
この試みにあたっては、前もって邪魔な障害を取り除く必要がある。
支配的な思考と型にはまった考え方が堆積すると、盲目になり、麻陣してしまうものだ。視覚に関してであろうと、聴覚であろうと、身であろうと、認識が問題提起の対象となるためには、自明のものであることをやめなければならない。
二年後、一九八九年にはグラースに国際香水博物館が落成したが、これは香水、石けん、白粉、化粧品の四〇〇〇年に渡る歴史を辿るのみでなく、原材料の収穫から最終的な香水の製造と製品の売り出しに至るまでの全ての段階を披露している。 カント
美の芸術もしくは快の芸術
感性に関するものは全てそうであるように、匂いと香りもある種の美学を生むことができる。問題はどの範疇の美学であるか、ということである。美の美学であるのか、快の美学であるのか。カントの体系によれば、香りの美学はむしろ、美の範疇よりは快の範疇に入れられるであろう。実際、『判断力批判』の著者であるカントは、美に関連した満足感と快から生まれる満足感とを区別している。カントによれば、「官にとって感覚的に使いものか、即お使適である。」を示し、主観性と、喜びと苦の感情に関連させている。快はある対象を知覚させる全感覚と同じように、客観的な表象を包み込むことが可能である。
しかしながら、対象が目指すのはこの次元ではなく、対象が与える満足感である。対象は認識の対象としてはみなされず、快楽の対象として考えられているのだ。カントにとっては、快に関連している満足感は関心に結びつき、感覚の喜びは物の存在に結びついている。だからといってこの物がよい性質のものとは限らない。なぜなら、そのためにはさらに理性がそれはこういうものだと判断する必要があるからだ。確かに、往々にして快と善は同じである。というのも、感覚に喜びを与える物は理性にも喜ばれるからである。しかし感覚と理性の決定の原理は違うものだ。感覚に直接に喜びを与える物と、理性が事柄の結果を考慮した上で、間接的に喜びを与えられる物を区別しなければならない。しかしながら快と善、そしてそれらが生む満足感は利己的なものである、という共通項がある。というのも、この満足感は対象の表象だけによって定義されるわけではなく、対象の存在にもよるからだ。
それゆえ快は、善と同じで無私の満足感の対象となる美と区別されるのだ。カントによれば、趣味判断には主観的にある対象の美を決定する役割があり、私はその存在を気にかけずにその対象にある評価を与える、ということを意味する。「趣味判断は、単なる観想的判断である、一換言すれば、対象の現実的存在にかかわりなく、対象の性質を快・不快の感情に引き当てるだけの判断である。しかしこの観想そのものも、概念に向けられているのではない、趣味判断は認識判断ではない(理論的認識判断でもなければ実践的認識判断でもない)からである。従ってまたこの判断は概念に基づいているのでもなければ、概念に達することを目的とするものでもない」。したがって、美、善、快の三つのの範疇は共通して欲求する能力との関係を確立し、満足感をもたらす。が、この満足感の性質は特に異なっている。快の場合では、満足感は病理学的に対象の存在によって決定づけられており、感覚の関心に関連している。快は感覚に快楽を与えるもので、個人々によって異なる喜びをもたらす。善の場合では、満足感は実用性の範囲にある。満足感は、物か行動に対する、理性の関心に結びついている。
ある物がよいと思うには、私はその対象が何であるのか知り、その結果この対象についての一つの概念を持っていなければならない。それゆえ、善とは、理性のおかげで、単なる概念だけで喜びをもたらすものなのだ。したがって、理性の概念に基づき、善は普遍的かつ客観的な価値を受けるであろう。その代り美の場合では、満足感は無関心性のものであり、そのことより、理性の客観的な概念に従うことなく、全ての人間によって分たれることができる。このようにカントにとうては「趣味判断は、すべての人がこの感覚に普遍的に関与し得ることを要請するわけである」。
ここから、香りの美術は美の範疇ではなく快の範疇に入るということが明らかとなる。香りが我々の気分を悪くしなければ、の話であるが。一つには、嗅覚はその近似性と類似性のために殆ど味覚と区別されない。嗅覚は、鼻孔と口に広がっている化学分子を認めて分類できる細胞に依存している。このように感覚を定義し区別するのは容易ではない。要するに、嗅覚は味覚に混ざった不純な感覚なのである。我々が既に見てきたように、カントは嗅覚を一種の距離のある味覚と定義している。同時に、味覚と嗅覚を切り離す困難さは、嗅覚の純粋に観想的な取り組みへの障害となる。なぜなら、味覚は常に美というよりは快と有用性に属する関心的満足感を意味するものであるからだ。とすると、香りの制作は、料理と同じように、存在と消費に関連した快楽の仲間に入れるのが適当である。もう一方では、はっきりと人間によって創られた香りについて暗示はしていないにしても、カントは『判断力批判』の中で、花の香りは快いと言えるかもしれないが、花の美しさの定義には入らないと考えている。というのも、花の香りは普遍的に喜ばれるものとは限らず、まるでこの香りが客観的であるかのように各自が同意すべきとする趣味判断にもつながらないからだ。「「この花は美しい」と言うのを、「この花自身がすべての人の適意を要求している」と言い換えても、まったく同じ意味になる。ところが「この花の匂いは快適である」と言うのでは、まるきり要求にならない。
この匂いは、或る人を喜ばせもするが、しかしまた他の人の頭をしびもする」。さらに、香りに関する判断の場合、満足感は大部分においてその用法に関連し、対象の存在によっている。するとカントと同じように、美しい香りは存在し得ないと結論しなければならないであろうか。
対象の存在に関心をもつものとそうでないものの区別をつけるのは常に簡単だとは限らないという意味で美と快の区別が、問題となるのは言うに及ばず、なぜ絶対的には香りが、対象の存在への思考が純粋にそのためのものであるような無私の観想の対象になれないのかは理解し難いものだ。この観点から言えば、欲望と快楽の分離がよりはっきりしているゆえ、嗅覚美学の存在を正当化するほうが味覚美学の存在を正当化するよりは簡単である。一般的に、厳格すぎる二項対立は避けるべきである。なぜなら、ある物が有用か快であるかということは、この物が美しくあることの妨げにはならないからだ。有用か快である対象を、その実用性とは切り離した美学見地の下に考察することは可能である。ポール・ヴァレリーの言うように、美は眼差しにあって見られる物にはあらず、この場合、美はその英知を示す鼻にあり、嗅がれる物の中にはない。このように、何故嗅覚は視覚と聴覚とは反対に、趣味判断をできないのであろうかという問題提起ができる。これについて、「普遍的に、概念のない嗅覚に喜ばれる物は嗅覚的に美しい」と言うことはできないものか。
したがって、香りの作品を美術作品のように、嗅覚的観想を芸術的展開として考えるような、真実なる嗅覚美学を構築することが可能であるか知ることが問題となる。嗅覚の美学的範疇を作り上げ、偉大なデザイナーで香水のクリエーターであるケンゾーが言うように、「い
「人の分体は、表情のが愛が動気のような間で未意的な形でも
い匂いがする」という台詞を「美しい匂いがする」に換えることはできるであろうか。エドモン・ルドニツカは断固として肯定を支持し、その著書『問題の美学』の中で、美しい香りの存在を主張している。
彼は「素晴らしい香りの聴衆は美しい音楽の聴衆のように普遍的なものであり」、また、嗅覚に内在する所与は嗅覚美学を築くことを可能にすると考えている。少しでも教育され、開発されさえすれば、この感覚は真の趣味判断を生むことができる。よって、香水生産者の団体は、香りの創造を独自の芸術品として認めさせるために、声明文を執筆した。署名者は「新しい嗅覚的概念の発明と実験とを役割とする、芸術かつ試みである香水業界の出現、発明の豊かさで香水業界全体を上昇の動きに乗せるような試験的香水業界」を熱望している。
香りの構成とその地位
香りに芸術作品の地位を与えようとする計画は、幾つかの認識論的な障害と困難に打ちあたっているが、これは嗅覚創造とその主要な特徴を研究することで解決すべきものである。
真実の香りの美学を構築するにあたって、
最初の反論の一つは、芸術作品に固有の永続性には不向きであるような、儚く揮発性である匂いの性質についてである。
それがとりわけアンリ・ドラクロワがその著書『芸術の心理学』の中で強調していることである。
「嗅覚も味覚も、旋律か形のように、堅固、かつ永続的な纏まりを形成するには不向きである。
嗅覚と味覚は美学的な印象を強め、それ自体のために瞬間的な印象を作ることさえもできる。が、それ自体だけでは、視覚と聴覚が構成しているような広く持続する纏まりを構築することはできない」。
この分析は、芸術作品が絵か彫刻のような堅固で永続的な形であるという前提によっている。
しかしこの前提には反論の余地がある。というのも、これは、他の芸術の特殊性を無視して、絵画か彫刻のモデルをその規範とし、理想美の基準を永続性といった、頑なな定義に押し込めているからだ。しかし彫刻家クリストの梱包や、観客の目の前で作品を描くか即興するかし、それから色を塗るか破壊するかする芸術家のパフォーマンス等の「儚い」といわれる芸術、たちまちにして創られ、一回しか行われない運命のハプニング等によって芸術作品のこの狭義すぎる定義は否定される。絵画にも儚く、一度限りの出来事を構成し、つかの間に存在するであるような芸術が存在するのだから、香りもこの範疇の一環をなしてもいいではないか。
芸術の永続性と香り
さらに、香りは飛散して消えてしまい、堅固で永続的な形を構築することができないという考えもまた、反論可能である。実際、一つには、香りによっては頭にまでのぼり、持続するエッセンスを備えているということがある。これはマルメゾンのジョゼフィーヌの、その死後長くたってもなお空気に染み込んでいる閨房の香りを考えれば分かる。もう一つには、香りが霧散してしまえばもう後には何もないと思うのは間違いである。この視点から言えば、次第に消えていく瞬時性に運命づけられている嗅覚を、旋律によって広く持続する一つのまりを形成することができる聴覚に対比させるのは、大して説得力のあるものではない。音にしたって、飛散し消えるのだ。音楽は全般的に時間性の刻印を受けているが、曲が終わってしまえば、もう後には何も残らないと言えるであろうか。曲は記憶に残り、再び演奏され再現することができる。この観点から言えば、作品の跡を構築し実現することを可能にする楽譜と香りの処方の間には類似性がある。それが、エドモン・ルドニッカが指摘することである。「旋律の音が飛び去ってしまった後、何が残るであろうか。聞いた者の記憶に残る思い出と、この旋律を永続的なものとする楽譜である。しかしこれは香水と非常に類似している。香水もまた嗅いでその形に衝撃を受けた者の記憶に残り、この者はその後、この形のお陰で香りを容易く認めることであろう。そして、楽譜によって旋律がディスクか肉声で再生されるように、香りもまた再び吹きつけることで、新しい瓶で、特には香水の復元の台本であるその処方のお陰で再生することができるのだ(これで分かるでしょうが、香水は形(訳注:フランス語では処方をformuleといい、その語の中に形formeを認めることができる。が、日本語では処方という言葉の方が、形式より相応しい。)なのです)」。エドモン・ルドニツカによれば、このように明らかなことが大部分の哲学者と美術評論家に分からないのは、楽譜は再現可能であるのに香りの復元は剽窃になってしまうという商業上の理由である。こうした香水の創造における、嫉妬深く秘密めいた性質が、香水を複合的な構造を含む作品として考える上での障害となっている。今日これはおそらくそれほど致命的な陥ではなくなっているが、それというのもガスクロマトグラフィーの存在によって香水の成分に入っている分子を探知することが可能になり、成分は公然の秘密と化してしまうからだ。この点から、著作権とか模倣の禁止とかいった保護策により香水の発明がその経済的かつ社会的利害から解き放たれれば、容易に音楽の作曲と同じ地位をもてるであろうということに注意しよう。
Miyabi.icon料理がアートにならない・なれる理由
ヘーゲルによる批判
ちなみにそれはヘーゲルが嗅覚芸術に対して唱える主な異議の一つである。彼にとって匂いはその物理的かつ生理学的領域に狭められており、感覚でとらえられるものという段階を越えて精神を表すための能力に欠けるのである。どの感覚が芸術作品を知覚し美的な享楽を与える能力があり、どの感覚がその能力に欠けているか見極めるにあたって、ヘーゲルは視覚と聴覚を最初の範疇にいれ、嗅覚は味覚と触覚とともに、二番目の範疇にまわす。嗅覚はこうして美術の領域から排除されるのである。
「嗅覚であるが、それも芸術的快楽に適した器官ではありえない。何故かと言うに、対象は化学的分解の効果によってだけ、また、空気に溶けるということでしか嗅覚には訴えられないからだ。それはまた、全くもって物理的作用である」。触覚と味覚と同じように、嗅覚は美的享受には向いていない。
なぜなら、嗅覚は対象との間に、唯一物理的かつ感覚的な関係をしか保っていないからだ。ヘーゲルによれば、触覚的美学はあり得ない。
それというのも映覚は知性で把握できる対象を知覚させず、感覚で捕えられるものだけにそれを許し、重さ、堅さ、抵抗といった物質的特徴と接触させ、知的観想は生まないからだ。
味覚は対象との消費と破壊の関係を保ち、自由に存続することがない。味覚は食物の化学的性質に関心をもち、観想的ではなく実用的に考察をする。嗅覚もまた対象を破壊することを前提としており、これを空気中で分解し、溶かす。嗅覚は物理的作用のみを問題にし、感覚でとらえられるものの中において、知的に把握できるものの表現は許さない。観想に適した聴覚と視覚とは反対に、嗅覚は純粋なる感覚の美学に運命づけられるというところであろう。
Miyabi.iconヘーゲルのこの見方こそが現代アートの見方 美しい
匂い
味
触覚
これが思い浮かばないということが、いかに我々の美学がヘーゲル的に歪められているか
旅行
酒
リレーショナルアートとの差異
干渉
干渉の中にある感覚
何を持って干渉が起き、関係が生じるか?
触覚
触れるということ
シャンタルジャケの解答
嗅覚の観想的な役割をすべて拒むこの説は、二つの理由で極度に単純化されたものであるといえる。まずは、芸術が感覚でとらえられるものの中における精神の現れだとしても、それに全面的に帰されるものではない。感覚でとらえられる芸術はあり得るのであり、それは精神ではなく物体を表現する役割があるか、または、創造者の行為において表現力にとんだ性質や意図的な性質全てを拒むものである。美的な快楽は必ずしも精神にとって表現に富んだものではない。このように例えば、現代舞踊でマース・カニンガムはバレーが精神状態の表現であることを拒否している。彼は精神的な日常の繰り返しから逃れようとし、精神によっては考えられない新しい動きを見つけようとして、偶然性によるシークエンスかくじで決められる肉体的なつながりの偶然性によってそれを発見しようとするのである。
二つ目には、芸術は感覚でとらえられるものの中に精神を現さなければいけないと認めるとしても、何を根拠にヘーゲルが、嗅覚に観想的な役割はありえないと明言できるのか悩むところである。香りと、香りを吸うということの中には、精神の一大世界の想起が可能である。
我々が今までに見てきたことだが、『失われた時を求めて』のプルーストの経験全てでその証拠とすることができる。嗅覚と味覚は記憶の果てに埋もれた過去を呼び覚まし、芸術的創造を刺激する魂である。
匂いは、芳香がその瞬間性において復元する感情と思考の宇宙を育んでいる。要するに、嗅がれる香りは、感覚でとらえられるものの中に見いだされる精神の永遠性である。
Miyabi.icon名文杉内
香水の合成と精神
したがって香水の制作者は純粋に鼻が利くというだけではなく、嗅覚の形式に興味をもっている精神でもある。このように香水は精神による構築物であり、この精神は匂いを心に収め、知性でその匂い同士を合成するが、そのために前もって匂いを嗅いでおく必要はない。ベートーヴェンが難聴になっても音楽を作曲し続けたのと同じで、無臭症の香水制作者が香りを発明し続けることもできるのだ。エドモン・ルドニッカが想起させるように、創造は精神の働きであるのだ。「構成するために我々は具体的かつ感覚をもって材料を嗅ぐ必要はない。
頭の中の努力だけで材料を想起することはでき、そこから現れる形の配合もまた、直接に物質を使って確かめつつ行う可能性はなく、抽象的にしかできない」。ちなみに、エドモン・ルドニツカも例外ではなく、今日多くの調香師が、香水の製作は単純なる経験による化学的な過程ではないというこの確倍を分かち合っている。エルメスの調香師ジャン=クロード・エレナはとりわけ(テール・ド・エルメス>という香水で有名であるが、香水を作り上げるために全ての材料が頭に入っている必要があると明らかにしている。彼はその香りのオルガンの中の芳香を嗅ぎつつ手探りで仕事を進めるのではない。その言葉によると、香りは鼻をもって綴られるのではなく、数学の公式のように紙と筆をもってなされるのである。香りの発明は代数学的な過程にしたがっている。要するに匂いを方程式に載せ、新しい調和を作るためにその>関係と均衡について考察するのである。
観想に適するか?
したがって、香水瓶は単なる容器でも芸術作品と無縁の包装でもない。香水瓶は香水と一体をなし、香水を染み込ませ、その結果、入れ物と中身の間に一つの循環作用が働き、一つの浸透性が確立される。
ボードレールは既にその「香水瓶」という題の詩の最初の二行の中でこの相互浸透について暗示している
あらゆる物質をも染み透る強力な香水がある。ガラスにさえも染み込むという。
調香師はそれをはっきり理解し、ゲランはその香水に<芳香の歌><青い時><遥かな思い出)など名付け、バルマンは<緑の風>と命名している。それは、過去のばらばらな断片を一息で専現する、匂いの想起する力、記憶に働きかける力に依っている。
Miyabi.icon香水という宇宙が香水瓶に詰まっている
香水の形象
宇宙の入れ物がその宇宙の形をしている
しかしながら、香水の芸術は過去の想起に限定されているわけでも、郷恐の魚に染まっているわけでもない。香水の芸術は、異国の知られざる香りを求めることによって、新しい世界への観想へと導くが、この香りは嗅覚の成分の定義できない組み合わせにより、想像力をその常套的な思考から引きはなすのだ。
したがって、香水瓶の形と素材は必ずしも古い時代の輪郭に沿うわけではなく、常に、サロンと閨房を連想させる時代遅れのロココ調であるわけでもない。ボヘミアガラスに閉じこもっているどころか、形と素材は果敢にも近代風、未来風である。例としては、イヴ・サン=ローランの(リヴ・ゴーシュ>は円形のメタリックの噴霧器をもち、ジャン=ポール・ゴルチエは缶詰が女性用の香水の容器となっていて、ポップアートのあり方を踏襲する。 こうして見てくると、香りと香水瓶を創るため美の庇護の下にいる香水の作成者に、芸術家という地位を拒否するのは難しいようである。
すると、あっさりと芸術の範囲の見直しを行い、現在の香りの技術を芸術として認めるべきだというべきであろうか。
現代の香りの技術の限界
したがって、香水のオーラは往々にして、不純な想像力と、広告によって徐々に注入されて規格化された幻想を含み、その結果、判断は最初から目隠しされているのである。それでもなお、商業的な攻勢をかわすための努力が実るとしても、純粋な嗅覚芸術の組成は、香水の目的に関連した障害に打ちあたるのだ。
[嗅覚的な作品は、カントの言葉を借りれば、目的なき合目的性ではなく、装飾品、誘惑の道具としての香りの使途に従属しているのだ。このように、香水を嗅ぐことによっての喜びは常に入り混じった性質のもののように見える。それほどまでに、美的情緒にはいつでも官能的感覚が入り、それから簡単には逃れられないのである。すると、嗅覚的観想は決して純粋ではなく、現実には、カント言うところの趣味判断に固有なものとしての「無関心性の満足」には結びつけない、というべきであろうか。
対象への実践的関心を廃することで、美的対象になることができる
無為であってもそれ自体の中心に威厳や美を作る、あるいは観想することができる
対象が目的的であるための概念の存在
ナイフで言えば「切断」
確かに、嗅覚的快楽が混成したという性質があるからといって、その価値を落とし、香水から芸術的な広がりを抜き去るための論拠とはならない。「関心による満足感」に定められた有用な芸術と、無関心で純粋な満足感を表す美術との間の、偽りで二元論的な性質を否定して、この性質を受け入れるのは可能なことである。
カントのように、義務として達成され、異常な動機によって決定されなかったような道徳的な行為が未だかって存在したかどうか考えてみることができるのと同じように、無関心の美的な満足感が未だかつて存在したかと問うこともできる。
Miyabi.iconここでの芸術の区分け
「関心による満足感」に定められた有用な芸術
無関心で純粋な満足感を表す美術
カントはこっちを美だと思っている
なぜなら、美術が市場の法則から逃れられないのと同じように、唯美主義者は動機と官能性をまるっきり捨て去った禁欲主義者ではない。しかしながら、この考察によって当然、観想のための観想から出る嗅覚的快楽を構想することは可能であろうかという疑問を避けるわけにはいかない。嗅覚芸術は本質として、常に必ず混成した快楽を生むのか、それとも混ざり気のない快楽を生み出すことができるのか。これは考える価値がある。
Miyabi.icon香水と離れた香りの美と観想を探求する
2嗅覚芸術の哲学的モデル
プラトンにおける匂いの純粋な快楽
純粋な快楽を与えてくれるような嗅覚芸術の観念は、何人かの哲学者においては馬鹿げた考えではない。というのも、感覚で捉えられるものを軽蔑する者にとってさえ、匂いは必ずしも変化きわまりなく消
想像上の文学的モデル
ーデ・ゼッサントと嗅覚芸術ー
一般的に、その作品全体を通じてユイスマンスは鼻の地位を見直すように促しているが、「さかしま」において純粋なる嗅覚美学の輪郭が特に描かれている。自然主義の逆をつくようにして、ユイスマンスはデカダン派の唯美主義者であるデ・ゼッサントの奇抜な肖像を描いている。デ・ゼッサント(des Esseintes)と言う名前だけでも、エッセンスと芳香が想起され、嗅覚芸術が具体化されている。この嗅覚芸術は二重の視点から考えられているが、一つは確実な解釈の上にその評価の基盤を求めなければならない愛好家の視点、もう一つは新しい処方を創り上げる創造者の視点である。このようにこの小説の中心人物は交互に「通の唯美主義者」と「創造する芸術家」を具現している。
神経症と嗅覚的な幻覚に襲われ、退屈と病を紛らわせるために照応と新しい感覚的な快楽を求めるデ・ゼッサントは、ボードレール的なヒーローの典型である。その存在全てが、原因不明の熱と、現実から逃げ出し、芸術の彼方の考えの果てへまで身を高める欲求によって支配
170
嗅覚の美学
されている。この探求において、全ての感覚に役割が与えられており、それは一般的には無視されるか大して重要性を与えられていない味覚と嗅覚についても同じことである。
ユイスマンスは言う。「何年も前から、彼は匂いを嗅ぎ分ける技術に熟達していた。嗅覚もまた、聴覚や視覚の快楽にひとしい快楽を感じ得るものと思っていたし、生まれつきの素質や専門的な修業の結果によっては、いずれの感覚からも新らしい感動の要素を引き出し、それらを倍加し整理して、ある作品を組み立てることは可能であると信じていた。要するに、さまざまな色の光線で網膜を刺戟する芸術があったり、音波から引き出される芸術があったりする以上、匂いの流体から生ずる芸術が存在したとしても、ちっともふしぎはないはずであった。ただ、修練によって発達した特別な直観力がなければ、だれも大家の絵とへは画家の絵とを見分けることができず、ベエトオヴェンの曲とクラッピソンの曲とを聴き分けることができないように、やはり匂いの場合も、ある種の予備的な手ほどきを受けたひとでなければ、真摯な芸術家によって作られた芳香と、薬屋や百貨店に卸すために工場で生産された安香水とを、混同することになるのは止むを得まい」。
このテクストは嗅覚美学の発明の真実の宣言と考えられる。このテクストは経済至上原理による大量生産と市場の法則から自由になった、美しい香りの独創的な創造、匂いの作品の厳格な評価に基づいた嗜好、いや、身による判断の正当化ともなっている。このようにデ・ゼッサントは「嗅ぐことの科学」に精通したものとして描かれている。
デ・ゼッサントは自然な態度と縁を切り、全ての感覚を偏見無しに平等に考えている。「匂いの流体」からの芸術を構想するのは、「音波」か「異なった色彩の光線」からの芸術を構想するのと一緒で、異常で恣意的なことではない。波動と光線の動く性質が、持続する芸術の誕生の妨げとならなかったのなら、ア・プリオリに儚い流動性がある香りについても同じことである。したがって感覚の平等主義はそれぞれの感覚によって知覚された物質の類似した性質に基づいているのだ。
しかしながらこの主義は、嗅ぐことの科学の出現のための必要条件ではあるが、充分条件ではない。この科学はその上、他に二つの条件が満たされていることを要求している。それは香りについての生まれつきの能力と、博学な嗅覚的文化によって後天的に獲得された能力であ
る。
デ・ゼッサントは連想の働きで、手柄にはできないような事件を掘り起こしたが、それは激しい歯痛に悩み、認可された歯科医の予約をとれるのを待てず、「大衆歯科医」の元に駆け付けた時のことであった。階段の段にこびりついた真っ赤なつばに恐れおののき、気後れして踵を返して帰ろうとしたところに扉が開き、老婆が中にと招き入れたのであった。傷む奥歯をエナメル質を手荒く割って抜いた、抜歯者の姿の一大光景がまるまる、彼の発した虐殺される動物の悲鳴のような叫び声と、ソファーの上で狂ったように振り回される彼の足の動きとともに思い出された。情け容赦のないメトロノームのように、ある空間を復元し、否応無しに記憶の渦巻きの中に引きずり込む、匂いの恐ろしい正確さがある。
デ・ゼッサントが「県」の典型なのは明らかである。というのも、彼の鋭敏性、記憶、想像上の領域全てが匂いにつきまとわれているからだ。匂いはその肉体的影響を越えて、形而上的範囲にまで達している。
世観の形而上学と、退屈から逃れるための偽の香りの探求の形而上学であり、これはボードレール的な調子の瞑想によって証明されている。
「垂れこめた空の下、蒸暑い空気の中で、家々の壁は黒い汗をかき、換気窓はむっとした臭いを放つようになる。生活の堪えがたさが一しお身にしみ、延鬱が重くのしかかる。めいめいが心の中に持っている汚いものの種子が、いつせいに芽を吹き出す。ふだんは謹厳なひとも、下界た泥酔の欲望に駆り立てられる。思慮ぶかいひとの頭の中にも、徒刑因の欲望が目ざめようとする。だがそれなのに、おれはといえば、大きな暖炉の前で温まっているのだ。テーブルの上に咲いた花籠からは、安息香、ゼラニウム、ねなしかつらの匂いが立ちのぼり、部屋いっぱいの 嗅覚芸術に満ち満ちている。十一月のさなかというのに、パンタンのパリ街ではまだ本が続いている。だからおれは心中ひそかに嗤うのだ、近づく寒さを避けるため、あわてふためいてアンティーブやらカンヌやらに逃げ出す感満な進中を。きびしい自然も、こうした別世界には何ら関係がないのだ。言っておかねばならないが、パンタンの町がこんな人工的な季節を迎えることができるのは、ひとえに工業のおかげなので
ある。実際、この町の花々は、真鍮の針金に支えられた造花なのである。春の香りは付近の工場、ピノオとかサン・ジャムとかいった香水工場から吐き出され、窓の隙間から家々に忍びこむのである」。
この文章はデ・ゼッサントが主張する嗅ぐことの科学の、人工的でまがいものの元について強調し、これは自然な能力だけにはよらず、工業、人的現象、一言で言えば文化の領域を前提としているということを示している。それがその出現の二つ目の条件なのである。香りの芸術は自然の生産物を単純に構成したものではなく、「人工的な精密さ」の芸術として現れている。ユイスマンスはこの点について強調している「実際、香水というものは、大ていの場合、その名の花から採ったものではないのである。ただ一つの花からその成分のすべてを採取しようとするような芸術家は、品格もなければ権威もない、粗悪な作品しか作りだすことができない。なぜかというに、花の蒸留から得たエッセンスは、地上に咲き誇る生きた花の香りそのものとは、きわめて遠く、きわめて曖味な類似性しか示さぬものだからである」
ゼッサントは「匂いの言語」、香りの言語の理論を持ち出す。香りを嗅ぐことは、嗅覚的言語を解読することなのだ。デ・ゼッサントはこのように匂いの言語的分析に取り組む。香りの言語は三つの主要な特徴で定義されるが、それは「変化に富んでいること」、「染み込んでいく特徴をもつこと」、そして「ふわふわと曖昧な見かけの下で簡潔であること」である。その変化とは、今日合成物の増殖によって増している成分の定義不可能な多様性だけではなく、言葉の無制限に組み合わせられる能力に劣らない、無数の組み合わせの可能性をもつ。
嗅覚的言語は、交互に細かくしつこい匂いを少しずつ注入することで英知的な人間に浸透し、包み込み、染み込んでいくゆえ、文学的言語と同じくらい巧妙で籠絡するものである。香りは透き通り、揮発性で、成り行き任せに広がっていくものであるが、そのせいでこの言語はふわふわと曖味に見える。しかしこれは漠然とした冗漫さの中に溶けもせず、主要なメッセージを瞬時的に回り道なしに届ける匂いの閃光のような速さと短さによって、簡潔な文体をもっている。香りの処方は文学の表現に似ており、文法と統辞論と意味を解読しなければならず、
解釈するには、嗅覚的文章の構造を調べる内部の言書的分析にも、比較文学の試みにも専念する必要がある。実際、デ・ゼッサントが勧めているのは「まず文法を学び、匂いの文章構成法を理解し、匂いを支配する種々の規則に通暁することが必要であった。そして、ひとたびこうした匂いの言語に慣れ親しんだならば、アトキンソンとかリュバンとか、シャルダンとかヴィオレとか、ルグランとかピースとかいった、その道の大家の作品をそれぞれ比較検討し、彼らの文章構造をばらばらにして、そのなかに出てくる単語の割合や、区切りの配列などを吟味してみることが必要」である。香りの固有語は作者によって変わり、言語の進化に適応するスタイルによって定義される。このように教養のある知性が動員され、言語的分析だけではなく、歴史と心理学に基づいた美的な取り組み方が要求される。これが匂いを嗅ぐ才能だけでは充分ではなく、「専門的な修行」を伴っていなければならない理由である。
この後になってされた備考について聖なる匂いに対して余りにも非宗教的すぎる探求の否定だと解釈するのはいきすぎであろうが、それでも言えるのは、神秘学と区別された美学は限定的なものであり、可能性の全てを包括的には捉えていないということだ。
すると、純粋に非宗教的な嗅覚芸術は、狂った脳の逸脱した夢、新しいものに飢えている堕落した精神に固有の特性と言うべきであろうか。問題は、ネガティブすぎると烙印を押された純粋文学的意味を越えて、現実の具体的モデルを構想することが可能かどうかを知ることである。 西洋社会においては、香りへの興味が娯楽と装飾美術の範囲を越えるのは稀であり、また洗練され気取りすぎている伊達男が使うと胡散臭いものに思われるが、この嗅ぎ方が世界中で分かたれているわけではないということに注目するべきである。国によっては、非宗教的な香りの用途が、単純なる誘惑への関心には従属せず、真実の芸術を生んでいるのである。今や日本へと考えを向けて、匂いの本当の芸術的創造の存在を発見する時である。
嗅覚の文学
嗅覚芸術
さかしまは極めてカトリック的であったが、匂いの表現においてはそうではなかったというユイスマンスの反省 非宗教性
香道