贈与
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前後の文脈を補足
Clubhouseとかで趣味として入ってたメディアアートのRoomとか聞いてると、自分が選択格差の是正というビジョンを掲げ、具体的な方法としてビジネスをする道じゃなかったものもあるんだな〜とふと当たり前なことを思ったりする。 Top of topみたいな概念はあるから結局は「そこで突き抜ければいいんじゃない?」のに帰着するんだけど、普遍性の高いトピック(数学, CS・行動経済学とか?)ができるといろんな人と共通の文脈がもてるんだろうな〜と そういう意味で、トピックが違うのにお互いに尊敬しながら関われる友人や恋人と過ごしているのはほんとに楽しいね。贈与って感じがする。 「もう一つの自分が手に入れたかった世界線」を他人に映すのは、時に健全ではない消費につながる。だけどそれを “贈与” と捉えるとヘルシーになると思ってます。
親が実現できなかったことを子供に押し付けたり、恋人や友人にそれらを映すことを防ぐのは思想であり哲学。
しかし、贈与には厄介な側面がたくさんある。例えば、贈与はとても面倒で、人を蝕みかねない側面がある。著者自身が岸田秀の母子関係を引いているように、いわゆる「毒親」問題は、贈与の悪しき側面を蒸留したようなところがあるだろう。贈与の両義性を掴むような姿勢の方が望ましいと感じた 贈与や利他は、「私」を映す鏡となる。利他と見せかけた利己的振る舞い、贈与と見せかけた交換(「あなたのためなのよ?」という言葉を携えて)は呪いとなってしまう。
戦略的な可愛げ、ユーモア、爽やかさというのはよく考えると形容矛盾です。戦略性の香りがすると、それらは、あざとさ、寒々しさ、いやらしさとなります。地道なトレーニングの先に初めて、可愛げ、ユーモア、爽やかさが宿ります。だからこれら3つはその人の「生き方」そのものに対する形容なのです。