表象の政治と統治の政治
public.icon
しかし、最終的には本人自身もそんなことはないというポジションに変わったそう
東浩紀.iconけれども書きながら「そんな危険なものを新しい民主主義のヴィジョンだといってしまってはダメなのではないか」という思いが強くなっていった。結果として「データベースと熟議の両方が必要だ」というあいまいな結論になった
東浩紀.icon民主主義について議論するためには、なにが人民の意志かだけを話していても仕方がない。それがあきらかになったあとの統治の問題こそ考えなければならない
東浩紀.iconそもそもルソーの「社会契約論」自体、一般意志の話をしているのは最初だけで、あとは立法者や政府形態の話をしています。 逆にルソーが社会契約論の中で、この文脈の話(一般意志の話)をしているのが読めなかったtkgshn.icon*3
宇野重規.icon『社会契約論』の読み方については東さんとまったく同意です。『社会契約論』の第一編と第二編は、一般意志に基づいて法律を作らなければならないというところで終わっている。ところが第三編では政府形態の話をする。つまり人民主権と政府のあり方は別だというわけです。 表層の政治と統治の政治
リベラルは表象の政治についてばかり話していて、より一歩進んだ、具体的な統治の政治に向き合っていくべき 東浩紀.iconいまリベラルは表象の政治についてばかり話していると言えませんか。「さまざまなマイノリティの苦しみや不満を表象しなければいけない」と言う課題をかかげていて、それは着々と実行されている。
でもそれで問題が解決するのかと言えば、けっしてそうは言えない
宇野重規.icon本来はそこに政治学が介入するべきなんだけど、立法権の話ばかりしてきた 国民の多様な利害を集約し、選挙を通じて代表し、議会で法律を作るところで話を終わらせてしまっていた。
── 結果的に、官僚を押さえつけて、言いなりにさせるのが政治主導だと言う話になってしまった。]
東浩紀.icon 日本に限らず、近代政治思想は、「声」が「表象」され「現れる」ことばかりに関心を持っているという印象があります。
? そもそも民主主義の制度論の歴史が浅い
宇野重規.icon民主主義の制度論は、そもそも不十分で歴史もすごく浅いんですよね。ルソーは政府の話になるとグダグダになるし、アメリカのフェデラリストも緻密な制度論を展開しつつ、最後は公共の利益を知るエリート主義に走ってしまう。 代議制については、1860年代にJ・S・ミルやウォルター・バジョットによって短期的に組み立てられた議論が、それ以降ほとんど更新されずに通用している。議会と執行権の関係や政治家と官僚の関係の問題についても、素朴な議論のまま放置されています。執行権を国民が直接チェックして、「良き統治」を保障するような仕組みを考える時期に来ていると思います。 ここから、話のながれは「国家がどこまで介入するか」に移っていくtkgshn.icon
国家は個人情報を集約すべきか
東浩紀.icon具体的な例はありますか。
宇野重規.iconいまの台湾は一つのモデルだと思います。「vTaiwan 」というのですが、市民がふだん思っていることをSNS上に発信して、それに5,000人ぐらいが「いいね」してくれたら立法課題になるというシステムがある。それ以外にも執行権に直接問題提起したり、その働きをチェックしたりする仕組みが模索されています。 民主主義ってまだまだ未完成なのに、"やっぱり民主主義はダメだ"とか"民主主義の限界"みたいなことを言う人が多い気がする