死に至る病
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でも最後に「やっぱり気持ちです!」となってるの、自分を信仰し切る感があってとてもいい
淡々と日々を楽しく過ごすことだけが罪の償いになるのだそしてお前たちの憂鬱な日常に絶望する態度こそが絶望なのだとキルケゴールは言っているわけです 紹介した時のテキスト
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以下はGlaspからKindleのハイライトをインポートtkgshn.icon*2 一体人間的にいえば死はすべてのものの終りである、 人間的にいえばただ生命がそこにある間だけ希望があるので 怖るべきものを知っていないというのが子供の未熟な第一の点で
自己、は自分で 措定 したものであるか、それとも他者によって措定されたものであるかいずれかでなければなら
むろん絶望のことをどこからか落ちかかってくる災難みたいに話したりするような馬鹿なことはせずに(それはいってみれば 眩暈 している人間が、神経の錯覚で、何かが頭の上にのっかっているとか何か自分の上に落ちかかってくるようだなどと語るようなものである、実際はこの重みや圧迫は全然外的なものなのではなしに、内面的なるものの倒錯した反映にすぎないのだが)、自分ひとりの全力を尽して自分の力だけで絶望を取り去ろうとしているようなことがあれば、彼はなお絶望のうちにあるのであり、自分ではどんなに絶望に対して戦っているつもりでいてもその苦闘はかえっていよいよ深く彼をより深刻な絶望のなかに 引 り込むことになるので この病に 罹りうるということが人間が動物よりも優れている点である。それは人間が直立して歩くということなどよりも遥かに本質的に人間の優越を示して
絶望することができるということは無限の優越で
絶望していないということが、絶望していないこと以上でも以下でもない場合には、それがかえって絶望していることなのである。絶望していないということは、絶望的でありうるという可能性を否定したことでなければなら
絶望とは自己自身に関係する関係としての自己(綜合)における分裂関係で
- もし我々が病者に対して、「病める者よ、お前はこの瞬間に、この病を、お前に招き寄せているのだ」と間断なくいい聞かせるとしたら、惨酷な非人間的なことであろ
- 絶望の現実的な各瞬間がその可能性に還元せらるべきである、 絶望者は彼の絶望している各瞬間に絶望を自分に 招き寄せている ので
- 絶望は分裂関係から結果し来るのではなく、自己自身に関係する関係から結果し来るものだからで
- 人間は自分の自己から脱け出ることができないように、自己自身への関係から脱け出ることもできない(一体両者は唯一同一のものである、自己とは自己自身への関係の 謂いである
- 換言すればこの病は肉体的な死をもっては終らないので
- この者はそこに横たわりつつ死に しているのではあるが、死ぬことができないのである。かくて「死ぬ ばかりに 病んでいる」というのは死ぬことができないという意味であるが、といっても生きられる希望がなおそこにあるという意味ではない、 いな、死という最後の希望さえも遂げられないほど希望がすべて失われているので
- 自己自身を食い尽すことも自己自身から脱け出ることも無に帰することもできないことの故にこそ彼は絶望したので
- 肉体は肉体の病によって食い尽されることがあっても、魂は魂の病(罪)によって食い尽されるということはありえないという点から、ソクラテスは魂の不死を証明した 8。同様に我々は、絶望は人間の自己を食い尽すことができないものであり、そしてそのことにこそ絶望の自己矛盾的な苦悩が存するという点から、人間のうちに永遠者の存することを証明しえよ - それは気取りであること、そしてこの気取りが実は絶望にほかならぬ 所以 を彼は実に鋭く洞察しているのである。彼はまたこれらの不機嫌等々はあまりたいした意味のものでないこと、しかしこれらがあまりたいした意味のものでないというそのことが絶望にほかならないことを実によく洞察しているので
- 絶望が顕わになるやいなや、その人間は始めから絶望していたのだということもまた顕わになるので
- ひとはいかなる瞬間にもその人間の状態に関して何等決定的なことを語りえないので
- 彼が過去の全生涯を通じて絶望していたのであることもまた顕わになるからで
- しかしそれはまたひとが絶望を克服して平安を見出している状態をも意味しうるので
- 無の反省、すなわち無限なる反省、に耐えることができるためには、卓越せる反省が、 或いはもっと正確にいい換えるならば、偉大なる信仰が必要なので
- よしそれが成功したとしても、そういう幸運は何の役にも立たない、 なぜならそういう幸運は絶望にほかならない
- ある。それに反して自分を絶望していると考えている人は、通例自分が精神であることを意識するに至らざるをえなかった程に深刻な天性の所有者であるか、でなければ苦しい出来事や怖るべき決断が彼を助けてそこに至らしめたのである。いずれにしてもそういう人達は、今もいったように、救済に一歩近づいている。ところで本当に絶望していない〔もはや絶望していない!〕人というものは 確 に非常に稀にしか見出されないので
- もしそれを秘めようと思えば、誰も、誰も、それに気づくことができないくらいにその絶望を秘めていることができるというだけの意味ではない、いな、当人自身がそのことに少しも気づかないくらいに絶望が或る人間のうちに深く隠されていることがありうるというそのことを意味しているので
- いかなる意志をももっていない人間はいかなる自己でもない、 ところで彼が意志をもつことが多ければ多い程、彼はまたそれだけ多くの自己意識をもっているので
- そして 想像力 とは反省であり、すなわち自己の再現であり、したがって自己の可能性で
- なぜなら自己というのは世間では一番問題にされることの少ないものであり、自己とはそれをもっているということがちょっとでも気づかれるならばこれほど危険なことはまたとないような種類のものなのである。自己自身を 喪うという本当に一番危険なことが世間ではまるで何でもないかのようにきわめて静かにおこなわれうるので
- こうして彼は群集のなかでの一つの単位、一つの 符牒、一つのイミテーションに堕するので
- 怖るべきものの何たるかを知っている人は、その進路を内側にとって外に何の 痕跡 をも残さないような罪・咎 をこそ何にもまして最も怖れるので
- もし私の冒険が誤まっていたとすれば、そのときはそのときで、人生が刑罰によって私を救ってくれるであろう。しかしもし私が全然冒険を試みなかったとしたら、一体誰が私を救ってくれるのであるか? ことにもし私が最高の意味での冒険(最高の意味での冒険とは自己自身を凝視することにほかならない)を避けて通った卑怯さのおかげで、あらゆる地上的な利益を獲得することはできたが、 自己自身はこれを喪失したとしたら
- くりかえしていうが、彼に 信ずる 意志があるかいなかということで
- 可能性のための狂気の戦いである。なぜなら可能性が唯一の救済者であるから。誰かが気絶した場合には、我々は水やオードコロンやホフマン氏液を持ってくるように叫ぶ。だが誰かが絶望せんとしている場合には、「可能性を 創れ! 可能性を創れ!」と我々は叫ぶであろう、可能性が唯一の救済者なのである。
- すなわち結局は 信仰 が問題なので
- ただ彼は神にとっては一切が可能であることを信じている。人間が自己の破滅を 信ずる ことは不可能である。人間的にはそれが自己の破滅であるということを理解した上で、しかもなお可能性を信ずるということ、それが信仰というもので
- 意識が増せば増す程それだけ絶望の度は強くなるので
- いな彼は誤 のなかに住んでいることを助けにして体系を完成するので
- だから絶望者が自分の状態が絶望であるということを自分で少しも知っていないとしても、それは問題ではない、 彼は依然として絶望しているので
- 絶望の反対は信仰でも