東浩紀の社会ネットワーク理論
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めちゃくちゃ文章うまかったので、文脈は参考にしつつ、Pluralityの紹介はできるかもしれない インターネットももちろん含むが、「ネットワーク」の概念はより幅広いジャンルに応用できる。国家間の関係や、生態系の食物連鎖、細胞内のタンパク質など... 多数の「実体」と、それらを結びつける「関係」がある(グラフ理論ともいう) 多くの概念をネットワークで表せる
友人関係も、人を点(ノード)として。関係性を線(グラフ)としてして見ることが出来る。 https://gyazo.com/5b5c79ba8f8992df6d7f727f90f3ae79
当時のケーニヒスベルクには7本の橋があった。オイラーは、その7つの橋を1回ずつ通り、町の最初の地点に戻ることができるか、そしてその問いを一般にどのように解くことができるかを考えた。JoachimBering,1613をもとに制作。 全ての頂点と枝を一回しか通らずにネットワーク全体を巡回する行為
この理論は比較的新しい
ポイントは3つ
あるネットワークの中にどれほど多くの仲間が作られているか
仲間をどう定義するか
「お互いに友人である」と仮定する
Aは、BとCと友人
BとCは友人
A, B, Cの3人は仲間だ
全ての頂点が互いに繋がれられた関係(三角形を作れる状態)
https://gyazo.com/1f1e646b760fc7b6541646fc91ca84a8
このグラフには、ABCとDEFという2つのクラスターがいることがわかる
同じグラフ内でどれほどクラスターを作ることが出来るか
単純な話、この図上ではCとEを結べば新しい3つ目のクラスターが生まれる
まだこの図2は最大のクラスターを作れていないtkgshn.icon*4
人間の社会は友人と友人が互いに友人であるような、そういう三角形が高い密度で重なることで構成されているのである。東浩紀.icon
社会は決して個人の集まりではない。個人がいて、いきなり世界があるわけではない。家族や地域、職場などの人間関係の三角形がいくつも重なった中間集団(共同体)がいくつも存在し、社会はそれらがさらに重なることで成立しているのである。21世紀の科学はこの状態を、クラスター係数が大きいと表現する東浩紀.icon 友達の友達の友達の...と繰り返すと、意外と少ない数でネットワーク内の構成員の全員に繋がれる
https://gyazo.com/1f1e646b760fc7b6541646fc91ca84a8
この場合は、AからEまでは少なくとも3つの線を通らなければいけない
この状態を「A→Eの距離は3」ということができる
この「平均距離が小さい」とは、ネットワーク全体でたどり着く距離の平均が意外と小さいという意味
70億人の人類社会の全体が、友達の*6で繋がってしまう
画像のA~Bの全ての
頂点数は22
枝数(線の数)は44
https://gyazo.com/182b09fefe85096506470b051f3ba586
隣の隣の点まで伸ばしている(隣人しか知らないみたいな状態?)
平等で閉鎖的なと説明している
リンクの貼られ方が無造作に決定される
絶対的に開放的な社会を表現するグラフ
全ての頂点からでる線を特定の確率で"繋ぎかえる"
この一瞬の不規則性が「近道」を作る
人間が作るグラフに一番近いらしい
これはPluralityなのか?blu3mo.icon
スモールワールドはただの人間の習性の事実の記述な気がした
これを前提として社会の多元性を最大化しようとする価値観/規範がPluralismという認識blu3mo.icon
「繋ぎかえ」が起きる確率を高めようとするのがPluralismと言える?
そう。なんかみんなプラリティになって帰ってね!って言われたtkgshn.icon
cc rickshinmi.icon
ワッツたちのこの発見が教えてくれるのは、人間社会にダイナミズムを与えているのは、他者の絶対的排除でもなければ、他者への完全な開放性でもなく、そのあいだの状態だということだ。 ぼくたちは、他者を完全に排除しているわけではないが、かといって他者に完全に開かれているわけでもない。問題は他者に開かれる「確率」なのである。確率は必ず0と1のあいだの値をとる東浩紀.icon
なぜ集中するのか
https://gyazo.com/06af5bfdb0f2d5d74d6647382c7c4bbc
国民国家は独立性を失っている
国境を超えてつながる巨大な身体(経済)の上に国境を再構築しようとする無数の顔(政治) そこで現れたのがリゾームという言葉である。ツリーとリゾームの対置は、前章で見たネグリたちの議論にも入りこんでいる。『帝国』には、リゾームの概念とインターネットのネットワーク構造(「非 – 階層的で非 – 中心的なネットワーク構造」)を等置し、マルチチュードの活動の場はリゾームだと述べた箇所がある★10。彼らの理論では、国民国家の体制はツリーをモデルとして、帝国の体制はリゾームをモデルとして考えられている。東浩紀.icon https://gyazo.com/ceebd87c48bfcf888b3eeed31f9498f5
リゾームとは根茎のこと。ツリー(木)と異なり、中心がなく、互いにつながりあっている。 関連
Kindleより
こっからは東浩紀の怒涛の言論、文章うますぎるtkgshn.icon*11 東浩紀.icon
ぼくたち人間が、同じ社会をまえにしてそこにスモールワールド性を感じるときとスケールフリー性を感じるときがあることを意味しているのだと、そのように解釈することができないだろうか。
ぼくたちひとりひとりは、数学的にはネットワークの頂点である。そして頂点と頂点の関係は、スモールワールド=スケールフリー・ネットワークにおいては、一本の枝で結ばれたふたつの対等な頂点としても、接続する枝の本数に大きな差を抱えた不平等な頂点としても解釈することができる。 前者はネットワークのかたちに注目したときの解釈であり、後者は次数分布に注目したときの解釈である。
実際に、それに対応するかのように、ぼくたち人間は、もうひとりの人間(他者)をまえにしたときに、一対一で向かいあう対等な人間だと感じるときと、富や権力のあまりの格差に圧倒されるだけのときとがある。ハンナ・アーレントは、否、彼女だけでなく二〇世紀の人文系の思想家たちの多くは、その前者の関係こそが人間本来のありかたであり、後者では「人間の条件」が剥奪されていると考えた。 けれども、ほんとうはその両者はひとつの関係のふたつの表現であり、つねに同時に感覚されていると考えるべきなのだ。その同時性あるいは二面性は、2017年現在のSNSであれば、たとえば、フォロワー数100人程度の無名のツイッターユーザーがフォロワー数100万の著名人にリプライを送り、たまたま返信が返ってきたような局面を考えれば、たやすく理解することができる。そのリプライは、一対一のコミュニケーションではあるが、同時にまた無数のリプライのひとつでしかない。そしてそのふたつの解釈はともに正しい。その矛盾は複雑ネットワークの構造から数学的に導かれている。
ぼくたちはつねに、同じ社会=ネットワークをまえにして、スモールワールドなかたちとスケールフリーな次数分布を同時に経験している。
しかし、だとすれば、こんどは、そのふたつの経験から、ふたつの秩序、ふたつの権力の体制が生まれるとは考えられないだろうか。「人間の条件」とその外部、政治とその外部、国民国家と帝国、規律訓練と生権力、正規分布とべき乗分布、人間がひとりひとり人間として遇されるコミュニタリアンなコミュニケーションの圏域と人間が動物の群れとしてしか計数されないリバタリアンな統計処理の圏域とが、同じひとつの社会的実体のふたつの権力論的解釈として同時に生成するのだと、そのように考えることはできないだろうか。
人間は仲間=三角形をつくる。仲間をいくつも重ねることで共同体をつくる。けれどもそれだけでは社会は生まれない。 社会が生まれるためには、多数の三角形が短い距離で結ばれなければならない。そうでなければ、人間の世界はひとつの社会にまとまることなく、無数のばらばらの仲間=三角形へと分解してしまう。 ではなにが仲間=三角形を結ぶのか。それが「つなぎかえ」である。
つなぎかえが生みだす「近道」が、人々を近くの三角形から遠くの三角形へと連れだし、他者との出会いに誘う。 それは社会思想の言葉では家族から市民社会への変化の過程に相当する。三角形が家族あるいはその拡張としての部族共同体や村落共同体を示すとすれば、つなぎかえで結ばれる三角形の集積は、匿名の市民が集まる市民社会だと考えられるだろう。ワッツたちは、共同体から市民社会へのこの変化こそを数学の言葉で記述した。つなぎかえが生みだすのは、社会学の言葉で言えば流動性であり、デリダの言葉で言えば「誤配」である。格子グラフは、つなぎかえの導入でスモールワールドグラフに変わる。それはつまり、共同体が誤配の導入で市民社会に変わるということである。 けれども、この過程には罠が隠れている。つなぎかえは本来は確率的なものである。つまり新たな接続先の選択を偶然に委ねるものである。だからこそ、それは遠く離れた三角形を短絡し、人々を他者に出会わせ、共同体を社会へと変える機能をもっていたのである。
かつて友人関係は一対一の人間関係を表していた。フェイスブックやツイッターやインスタグラムはそれを優先的選択のメディアに変えてしまった。その結果生まれるのが、スケールフリー性であり次数のべき乗分布である。人間の社会は、かくして圧倒的な不平等に覆われていくことになる。 原始的な格子グラフは、枝の確率的なつなぎかえによってスモールワールドグラフへと変わる。共同体は市民社会へと変わる。けれども、社会を社会たらしめた誤配あるいは確率は、すぐに優先的選択(資本)へと変質し世界に圧倒的な不平等をもたらすのだ。
二一世紀の新たな抵抗は、帝国と国民国家の隙間から生まれる。それは、帝国を外部から批判するのでもなく、また内部から脱構築するのでもなく、いわば誤配を演じなおすことを企てる。出会うはずのないひとに出会い、行くはずのないところに行き、考えるはずのないことを考え、帝国の体制にふたたび偶然を導き入れ、集中した枝をもういちどつなぎかえ、優先的選択を誤配へと差し戻すことを企てる。そして、そのような実践の集積によって、特定の頂点への富と権力の集中にはいかなる数学的な根拠もなく、それはいつでも解体し転覆し再起動可能なものであること、すなわちこの現実は最善の世界ではないことを人々につねに思い起こさせることを企てる。ぼくには、そのような再誤配の戦略こそが、この国民国家=帝国の二層化の時代において、現実的で持続可能なあらゆる抵抗の基礎に置かれるべき、必要不可欠な条件のように思われる。二一世紀の秩序においては、誤配なきリゾーム状の動員は、結局は帝国の生権力の似姿にしかならない。 ぼくたちは、あらゆる抵抗を、誤配の再上演から始めなければならない。ぼくはここでそれを観光客の原理と名づけよう。二一世紀の新たな連帯はそこから始まる。
観光客の原理は、ぼくたちにいかなる行動の指針を与えてくれるのだろうか。その問いに対して、正面から答える余裕は残念ながら本書にはない。それにそもそも、それは答えるべき問いなのだろうかとも思う。ぼく自身としては、本書がその創刊準備号として位置づけられている年三回刊行の批評誌『ゲンロン』の出版や、あるいは付論で触れたチェルノブイリへの年一回のツアーの実施などで、その問いに対して実践のかたちで答えているつもりである。ぼくはデモには行かない。かわりに観光を──知的な観光としての出版を含め──組織する。それが前述のような再誤配の戦略として成功しているかどうか、それは理論的にどうこうというよりも、個別の場で効果が測られるべきものだ。選挙に行けば政治、記者会見をすれば政治、デモに行けば政治というように単純には、これをすれば誤配であり観光であると例を提示することはできない。 ルソーは人間が好きではなかった。人間は人間が好きであるはずがないと考えていた。人間は社会をつくりたくないはずだと考えていた。 にもかかわらず、人間は現実には社会をつくる。なぜか。ルソーが『人間不平等起源論』で提示した答えは「憐れみ」だった。憐れみとは、「われわれが苦しんでいる人々を見て、よく考えもしないでわれわれを助けに向かわせる」ものであり、「各個人において自己愛の活動を和らげ、種全体の相互保存に協力している」働きである★17。もし憐れみがなければ、人類はとうのむかしに滅びていただろうとルソーは記す。憐れみこそが社会をつくり、そして社会は不平等をつくる。それはとても誤配に、そして「つなぎかえ」に似ている。