大衆の反逆
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ものごとに驚き、不信を抱く事柄があの第一歩である。それは知的な人間に特有なスポーツであり、贅沢である。だからこそ、知識人に共通な態度は、驚きに見張った目で世界を見るところにあるのである。
およそ社会的集団である限りは、たとえ選ばれたもののみの集団でも集団たらんとしているものに関しても同じことが言えるのではないか、と言われるかもしれない。
聴衆や大衆でないことを特徴としている集団の場合には、その成員の実質的な一致点は、それ自体多数を排除するようなある種の願望、思想もしくは理想にあるのである。
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したがって彼らの一致は、その大部分が一致せざることによる一致である。
人間を最も根本的に分類すれば、次の二つのタイプに分けることができる。
第一は、自らに多くを求め、進んで困難と義務を負わんとする人々であり、第二は、自分に対してなんらの特別な要求を持たない人々、生きるということが自分の既存の姿の瞬間的連続以外のなにものでもなく、したがって自己完成への努力をしない人々、つまり風のままに漂う浮標のような人々である。
ところで社会には、その本質上特殊であり、したがってまた、特殊な才能がなければ立派に遂行しえないような極めて多種多様な業務や活動や機能がある。芸術や贅の分野のある種の楽しみとか行政上の機能や公共問題に関する政治的判断などがその例である。
以前は、これらの特殊な活動は、天賦のある──少なくとも天賦があると自認した──少数者によってなされていた 貴族(nobleza)の本来の意味というか語源(etymo)は、本質的に動的なものである。高貴な人(noble)とは「世間に知られた」人の意味であり、無名の大衆の上に抜きん出ておのれの存在を知らしめた人、すべての人が知っている人、有名な人の意味である。 したがって高貴であるということは、彼に名声をもたらしたつねならざる努力があったことを意味している。
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わたしにとって、貴族とは、つねに自己を超克し、おのれの義務としおのれに対する要求として強く自覚しているものに向かって、既成の自己を超えていく態度を持っている勇敢な生の同義語でかる。
かくして、高貴なる生は、凡俗で生気のない生、つまり静止したままで自己の中に閉じこもり、外部の力によって自己の外に出ることを強制されないかぎり永遠の逼塞を申し渡されている生、と対置されるのである。
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われわれは、成長するに従って、大部分の男たちは──そして女たちも──外的必然に対する反応というような厳密な意味での強制されたもの以外、いかなる自発的な努力もなしえないものだということをいやというほど見せつけられる。
それだけに、我々が知り合った極めて数少ない、一般の人間には無縁な自発的な努力を成しうる人々は、われわれの体験の中にあって、ますます孤立化し、あたかも記念碑的存在となっていくのである。
彼らこそ、選ばれたら人、高貴なる人、行動的な唯一の人、ただ反応に生きるだけでない人であり、彼らにとって生きるとは、不断の緊張であり、絶え間ない習練なのである。習練=áskesis。つまり、彼らは苦行者(asceta)なのである。
手続き、規則、礼儀、調停、正義、道理!これらすべてはいったい何のために発明されたのだろうか。かかる煩雑さはいったい何のために創り出されたのだろうか。これらすべては他ならぬ「文明」(civilización)という言葉に要約されるものであり、チヴィス(civis)──市民──なる概念の中にその本来の起源を持っているのである。
つまり、そうした煩雑さのすべてをもって、市(ciudad)、共同体、共存を可能たらしめようというわけである。
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ぶっちゃけ、オルテガはソ連の5ヵ年計画に対抗するものに対して、ヨーロッパ統合の必要性、つまりは現在のEUの体制を支持しているわけで、むしろ保守的な思想家を糾弾しております。