「世の初めから隠されていること」を読了
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欲望というこんがらがった難問を解きほぐすためには、一切は対象を求めての敵対から始まるということを認める必要がありますし、認めればそれで十分です。対象は、争って手に入れようとするものとなり、こうして両方の側に渇望が生じ、高まります。
マルクス主義者たちは、そうしたタイプの競争の激化を生み出したのは資本主義だと盛んに警告しています。彼らは、あなたがマルクスによって最終的に解決済みである問題を取り上げていると言っています。同じようにフロイトの後継者たちも、あなたがフロイトによって最終的に解決済みである問題を取り上げていると言っています。 その理屈でいくと、資本主義の真の樹立者も、エディプス・コンプレックスの真の樹立者もサルであるということになります。資本主義のやっていることは全て、というよりはむしろ資本主義の開花を可能にしている自由社会とは、模倣という現象のいっそう自由な行使を保証するということ、またそうした現象の経済的技術的活動への意向を保証するということなのです。古代社会が模倣性の敵対に模倣性の敵対に対置している拘束は、この移行の段階で、色々と複雑な宗教的理由によって、消えていきます。対象の価値は、いつでも、それを入手する時にである抵抗に比例して増大します。そしてまたモデルの価値も、それと同じようにして増大します。一方は他方がなければ立ちいきません。たとえモデルが初めは特に威信を持っていなくても、またたとえ主体が、やがて威信という後によって覆われるはずのものと、初めは全く無縁であるとしても──威信といっても、所詮それは幻影や魔術にすぎませんが──そうしたものは全て敵対そのものから生まれることになります。 最初の真似は機械的な性格を持っていますが、それなのに主体は、主体をモデルに対置させる敵対が自動的な性格を持つとを見誤るような傾きがあります。主体はこうした対立に不安を感じ、それにありもしない意味を与えようとします。まずこうした傾向に、あらゆる種類の科学的であろうとする説明を、フロイトの説明も含めて、結びつける必要があります。敵対の三角関係は、フロイトがそう思い込んでいたように何かの秘密を隠しているなどというものではなく、そこには模倣性の性格が隠されているにすぎません。
欲望の対象とは、もちろん禁じられている対象のことで、それはフロイトが考えるような「おきて」によって禁じられてものではなく、自分がそれを干しているため、我々にそれは誰もが欲するものだと示すものによって禁じられたものです。掟によらない敵対の禁忌のみが、本当に外相を、心理的な外相を与える可能性があります。そこには静的形態とは別なものがあります。体系の各要素はお互いに作用を及ぼし合います。モデルの威信、それに対する抵抗、対象の価値、対象が掻き立てる欲望の強さ、そうしたもの全てポジティブなフィードバックの過程で絶えず強化され続けます。フロイトが「アンビヴァレッジ」と呼ぶもの全体の悪、フロイトが完全に認めはしたものの理解するには至らなかった悪性の原動力が、ここで初めて説明可能になります。 おきてによる禁忌は、すべての人間またはある範囲内の人間を対象にします。それは我々が個人として「下位にある」ということを、一般的な基礎黒して暗示するようなものではありません。これに反して模倣性の敵対の禁忌は、禁忌を自分に反するものとして解釈しようとする特定の個人のみを対象とします。
個人としては不当な扱いを受け、ひどい迫害を受けたことが確かでも、主体の方は必ず、モデルには自分に対して対象を拒否する十分な理由があるのではないかと思います。自分自身のうちますます重要さを増す部分が、このモデルを真似しつづけます。こうしてモデルの味方になります。そのためには自分を対象したと思われれる敵意を込めた扱いも正当化し、不思議なことに自分に加えられた罰までもおそらく正当化してしまいます。
一度こうした悪循環に陥ると、主体は急速に自分を根本的に不十分なものだとみなすようになります。モデルはその不十分さをはっきりと見抜いたのだろう、それならモデルの自分に対する態度も当然だとみなすようになります。主体が後生大事に自分のものだと決め込んでいるこの対象に、モデルがしっかり結びついて自己充足と全知とを我が物にしているようにみえ、主体は自分もそれを手に入れたいと夢見るわけです。対象はこれまでになく強く求められます。モデルがそれに近づくことを頑強に妨げているのですから、この対象を手に入れさえすれば他者の充実と自分の空虚の間、つまり自己充足と不足との間に差異が生み出されるに違いありません。
現実の何者にも一致することの内向した変貌は、一方において、変貌した対象を、最も現実的なものに見えるようにします。こうした変貌を我々は、存在論的とか形而上的と名づけることができます。模倣による敵対の、理解されなかったメカニズムが、こうした存在論的または形而上的な次元を、以前には単なる欲求とか必要でしかなかったものに与えた時に初めて、欲望という語を使うように決めることができます。我々はここでは、どうしても哲学上の用語を使わざるを得ません。哲学と、暴力の原始的神聖化の関係は、「形而上的な」欲望と、暴力の神々を生み出す模倣性の狂気との関係に等しいのです。だからこそ近代のエロティシズムとその文学は、一定の激しさを超えて、神聖なものを示す語彙にまで遡ろうとするのです。叙情的な優れた比喩は例外なく、暴力を備えた神聖なものに、直接間接に依存していますが、文学批評家はすかさずにこのことを確認しています。彼らに興味のあるのは、模倣の発生ではなく、あの色々な隠喩がそれに与える、いつも蘇る「身震い」なのです。
私の場合は正反対で、形而上的な欲望の概念に、形而上的に心を惹かれることは全くありません。形而上的な欲望を理解するためには、今我々が話していることと、社会的に規制されたある種の敵対、つまり決闘だとか、スポーツの試合などでの名誉や名声などのような、根本において非常に近い概念によって演じられる役割との、類似性を見る必要がありますし、見ればそれで十分です。こうした概要を生み出すのが敵対です。こうした概念には明確な現実性はありませんが、こうした概念のために敵対が起こるという事実が、こうした概念を、いかなる現実的なものよりも現実的に見せています。犠牲のメカニズムによってまだ落ち着いて安定している世界の中で、これらの概念が、はっきりと有限性を与えられている枠から、いつもの儀礼の枠から、少しでもはみ出せば、それはあらゆる限界から、あらゆる客観的な制限から脱け出してしまいます。その時こそ、原初の世界では一切が模倣性の狂気に、命がけの闘争に、落ち込んでしまうのです。そしてここでもまた犠牲のメカニズムが見られるようになるでしょう。われわれの世界では、人間は「限りない」欲望に、私が存在論的なあるいは形而上的な欲望と名づけるすべてのものに、到達します。
「形而上的な」閾、あるいはこういった方が良ければ「いわゆる」欲望への通路、それは非現実への入り口です、それはまた精神病理学の域ともなりうるものです。しかし特に強調しなければならないのは、それが他のものと繋がりがあるということ、つまり社会の承認済みの用語で定義しさえすれば完全に正規のものとみなされる一切のもの、危険なものへの趣向、無限ものへの渇望、詩的精神への憧れ、狂的なな愛情などとも同じものだということです
あなたはいつも、敵対者との戦いで絶対に勝つことのない主体の話をなさっています。それとは逆の結果が生ずる可能性もあります。もしも主体がうまくその対象を手に入れたら、どういうことが起こりますか?
勝利によって主体の運命が何か変わるためには、所有が満足・歓喜・喜悦などについて実際にもたらしうるものと、敵対についての認識不足から生まれたますます形而上学的な傾向を深める渇望との偏差が『広がらぬうちに』勝利が生み出される必要があります。偏差があまりに大きいと、対象を手に入れてもそれはひどい期待外れなものになるでしょうから、主体は、そのことに直接関わりのある対象はもとよりモデルにも、その重みを担わせようとするでしょう。しかしそのままの形での欲望にも、この欲望の模倣性の性格にも、重みを担わせることはまずないでしょう。対象とモデルは横柄に退けられますが、主体はまた、それほど簡単に欺かれることはないような、新しいモデルと新しい対象の探索を始めます。このことは次の一つのことしか意味し得ません。つまり今や欲望が渇望するのは、乗り越えることができない抵抗だ、ということです。要するに勝利とは、最悪の事態への加速度的進展にすぎません。最悪の事態というのっぴきならぬ状態の追求は、ますます専門化され巧妙化され、ついにはそれ自体がのっぴきならぬ状態の追求をしているのかどうかさえも理解できないまでに至ります。
うまく移行がいくまいが、結局、主体はいずれにしても、のっぴきならぬ状態に向かっていきます。欲望自体が行き止まりなのだと結論を出す代わりに、主体はいつでも欲望にとって好都合な結論を出す方法を、欲望に最後のチャンスを与えるような方法を見出します。主体はすでに手に入れた対象を、過去のものになった欲望を、前日のアイドルを、避難する心構え、新しいアイドル新しい対象が現れた瞬間に批難する心構えをいつでも持っています。それは欲望の過程であると同様に、流行の過程でもあります。流行の招待は、いつでも一切を捨てる、まずそれ自体を捨てる心構えを持っています。それは流行を捨てないため、欲望に未来を維持してやるためです。
全ての障害に打ち勝っていないうちは、一つの可能性が残されています。それは確かにますます少なくなっていきますが、決してゼロになることはありません。なぜなら、至る所で探し求められていた宝は、結局は最後の城壁のかげで、最後の龍に守られて、我々を待っているのですから。
欲望にも理論があって、それは賭けの理論です。運が向いてこないと、ある時点から、哀れな勝負師は賭けを捨てられなくなり、ますます多くの額を、ますます少なくなる確率で賭けるようになります。主体はいつでも最後には、とても乗り越えることのできない障害を見出すでしょう。それはおそらく世間の人々の広域な無関心という障害です。そして主体はこの無関心にぶつかって砕けてしまうでしょう。
結局我々はいつも、賭けと言えばたった一つしかないみたいに、パスカルの賭けを話題にします。パスカル自身がその気晴らしの理論で認めていることは、あなたが今おっしゃっているようなことです。欲望もまた一つの賭けです。人間が絶対に勝つことのできない賭けです。神に賭けると言うことは、欲望の神とは「別な神」に賭けることです。 「世の初め」には模倣の欲望のようなものがあり、それを封じるためにスケープゴートをつくることによって社会を安定させた、
その「創設的暴力」から逃れる方法はある
人間は他者を自らの分身として模倣する傾向を持ち、さまざまな暴力はこの模倣欲求から生じる
模倣欲求は、一方で、模倣する相手への嫉妬心を生み、模倣対象を破壊させようとする。また他方で、模倣欲求からは競争や闘争が生じ、そのストレスを解消するために、共同体で弱いものが「犠牲」として集団的な暴力の被害者になるという悲劇的な事態が生じる。
p1−2 「<模倣すること>が一役買っている現象とはどんなものだろうかと考えると、衣服、身振り、表情、ことばづかい、舞台の所作、芸術的創造などがすぐに思い浮かぶ。しかし、欲望がでてくることはけっしてない。そのためわれわれは、社会生活における模倣を、いくつかのモデルが大量にコピーされるときの、おとなしい順応性と集団性を指向する力として受けとめる。
もしも模倣が欲望においても存在するとしたら、そして獲得し所有したいという衝動を汚染しているとしたら、模倣についての伝統的見方は、誤りとはいえないまでも的をはずれていることになる。模倣は人々を結びつけるだけでなく、引き離しもする。逆説的ではあるが、ふたつは同時に起こる。同一のものを求める個人は、ある途方もない力によって結ばれるため、欲望の対象がなんであるにせよ、それが共有さえるかぎりはよき友でありつづける。そして、共有が不可能になるやいなや、かれらはライバルとなる。」
対象物は、媒介者に追いつく手段でしかない。欲望が目ざす相手は、あの媒介者の<存在>そのものである
欲望を活性化させることができるのは、勝ちほこるライバルだけである。一気に決着をつけようと思えば、欲望を完全に放棄するしかない。すべての偉大な宗教、すべての偉大な倫理的体系、すべての伝統的な知恵が、そうした戦略を推奨する。
東浩紀が欲望の三角形を現代社会においては、ある作品が、それ自体の価値だけで評価され流通することはほとんどない。あらゆる作品は、「ほかの消費者がその作品をどう評価するか」、そして「自分がこの作品に評価を与えたとして、ほかの消費者は自分のその評価についてどう考えるか」といった、「他者の視線」を内包したかたちで消費されることになる。という文脈で言及していた。これは解像度上がるかもしれない。 模倣理論が、より頻繁に議論される「ミーム理論」と表面的に似ていることを考えると、この省略は驚くべきことである。ミーム理論は、同様に文化の基礎として模倣を仮定している。ミーム理論は、リチャード・ドーキンスの『利己的な遺伝子』に始まり、スーザン・ブラックモアの『ミーム・マシン』で体系化され、大衆や学者の文脈で、さまざまなインターネット現象に広く適用されてきた。実際、「ミーム」という用語がもたらした牽引力によって、私たちの多くはミーム理論を意図的あるいは無意識的に採用するようになった。しかし、マシュー・テイラーが論じたように、ジラールの模倣主義の説明は、少なくともテクノロジーの社会政治的側面を理解することに関心を持つ者にとっては、ドーキンスに由来するミーム理論よりも理論的に大きな利点がある。ミーム理論は、ミームを再定義し、その循環が埋め込まれている社会的文脈から切り離す傾向がある。これとは対照的に、ジラールは模倣行動を欲望の一般的な社会理論の中に位置づける。
人間は、何を欲していいのかわからない生き物であり、自分の心を決めるために他者に頼るものである。私たちは他人の欲望を真似るので、他人が欲するものを欲するのです。
「どうして自分の欲望がわかるのか」である。人間の欲望には、自発的なもの、自然なものはありません。私たちの欲望は人工的なものです。私たちは、欲望を持つことを教えられなければならないのです。映画は究極の変態芸術である。欲望を与えるのではなく、欲望の持ち方を教えるのだ。
ジラールの模倣理論によれば、人間は伝染性のある模倣によって欲望の対象を選ぶという。その結果、欲望は同じ対象に集中し、自己はライバルとなり、二重人格となり、それぞれの主体が他者を疑って、同じ完全な存在感を求めて争うようになる
行動の模倣構造は、暴力が急速に複製されることを意味するため、その結果、紛争は社会全体に連鎖する。コミュニティ全体が相互攻撃で泥沼化するのである。ジラールによれば、このような「模倣的危機」に対する古代の解決策は犠牲であり、集団的暴力をスケープゴートの殺害に振り向けることで、一時的に共同体から暴力を粛清した。
暴力のカタルシス行為は、当初は自然発生的に起こったが、その後、集団的暴力を制御された形で再現する儀式や、それをベールに包んだ形で語り継ぐ神話の中で、体系化されていった。ジラールにとって、宗教、聖なるもの、そして国家は、このように暴力が共同体から浄化されることによって生まれたものである。しかし、現代は、スケープゴートのメカニズム、ひいては生け贄の儀式が信用されなくなり、暴力をいかに封じ込めるかという永続的な問題を生み出している、と彼は主張する。
「創業者」を潜在的に「神」であり「犠牲者」であると考えるならば、技術エリートが行使する幅広い社会的影響力を、「王は常にスケープゴートになりうる」というリスクの源泉とみなすことになる。
すごい面白い