「Web2は独占、Web3は分散化」と言われているが、Web2すらも分散化を志していた。歴史は韻を踏む
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「Web2は独占、Web3は分散化」と言われているが、Web2すらも分散化を志していた。歴史は韻を踏む
Web3はWeb1を取り戻すものという言われ方もするけど、Web2だってウェブが始まり10年経ち、ネットバブルを経てすっかり企業や国の規制が強くなって変質しているから、個人に取り戻そうというものだったという話。だからUGC(ユーザー・ジェネレティッド・コンテンツ)だったんだよな。 #螺旋の階段 補足として、ティム・オライリーはたしかにWeb2.0の名付け親ですが、すでに勃興していた事象群を整理しマーケティングを開始する役割であったこと。フィルタが入っているということです。フリーソフトからOSSへのリブランディングでも同じ役割を担っていた話もありますね。 なので、今言われている「Web2.0はビッグテックだった」は誤り。Web2.0はウェブにまた個々の自由を取り戻そうというムーブメントだった、その後UGCなどのアイデアをビッグテックが呑み込んで誰もが使える便利でリッチなサービスに進化させた、が正解。
今またWeb3で、マスアダプションを大義名分に、企業で作るリッチコンテンツとかDX市場に昇華させるに持っていこうとする流れは、Web1だけでなくWeb2.0が辿ったものと同じ。これまた歴史の繰り返しということだ。
便利でリッチなサービスのほうがいいから、みんなが安心して使えるサービスに進化させようというのは自然な進歩だ。しかし、当初のデセントライズな個人のためのインターネットが弱るので、また新しいカウンターが生まれるわけだ。
さすがに3度目の繰り返しになり、このからくりをわかっている人はわかっているから、今度はどうなるか。昨年秋のDeFi2.0や年末のWeb3批判は、まさにそうしたからくりをわかっている人たちによるもの。
世の力学を考えれば今回も同じことになると思うが、ぐるっと一周したように見えながらWeb2.0とは別の場所に行くのも間違いない。
とくにマーク・アンドリーセンやジャック・ドーシーのように、Web2.0で成功を収めてその内幕を肌身でわかっていつつ今Web3にいる人たちが、どれだけ繰り返しを今回は別のものにするかの舵取りを左右すると思う 現時点
今回も同じだって →アンドリーセン
もうその繰り返し飽きたよね →ドーシー
今考えていることは、20年の時間軸で(数年でも100年でもなく)また繰り返しするのは退屈だよね、トゥルーエンドを目指さないノベルゲーのプレイの仕方なんてある?ってところで、フラグをどこで立てればいいか自分にはわからないけどどうもその辺考えている人たちが集まってそうな方へ首突っ込んでみ
Web3が同じ歴史の繰り返しについて補足。時間軸を短く取ると非連続だが、長く取れば連続的になる。
日本にいると、いや、英語圏でも当時の自分のような一般利用者レベルだと、Web1からWeb2.0は「連続的な直線の進化」だったように見えるけど、一部の人たちからすると「Web2.0は失われたWeb1への原点回帰」の非連続のものだった。
その一部の人たちというのがWeb2.0を言い出した張本人たちだったりするわけなのだが、結果だけで見るとそして多数決で裁定すると、前者の「Web2.0はWeb1から連続的な直線の進化」が現代の見解になると思う。
実はWeb1も、はじめから「読む」ブラウザだけでなく「書く」エディタもティム・バーナーズ・リーは作っていた。しかし、マーク・アンドリーセンたちがあんまりエディタには熱心ではなかったと彼の著作で振り返っている。まだブラウジングすら貧弱だったので、エディタなんて時期尚早で奇異だった。
その後技術が進み大衆に普及し、今ではUGCというマルチ・メディアのエディタが当たり前になった。Web3も、資産の投機やウォレットなどの一部の人たちだけの奇異で非連続的なものであるが、同じように私有資産をそのままウェブに持つことが当たり前になると思う。
まあ、ウェブサンテンゼロの余地があると思うのは、民主化がされて参入障壁が低いこと。「今日からWeb3やります!」と言えるのは、ならでは。コンテンツやコミュニティに"味付け"してWeb3ビジネスですという切り口はビジネス的に有用で市場があると思います。(客観的に)
aからzの間にあるシン・Web3は、アンドリーセンがコンシューマーインターネットの法則として「エッジで生まれたテクノロジーもいずれはいつものビジネスに回帰するものだ」の通りだと思っています。実は彼本人は言っている通りに行動しているんですね。https://t.co/XBV04YiDrc