主義主張
「主義主張(-ism)」という言葉は、特定の思想体系や行動原理、またはそれに基づく政治的・社会的運動を指す際に用いられます。この概念は、人類の歴史の中で様々な形で現れてきましたが、その言葉が明確に定義され、広く使われるようになったのは比較的近代のことです。
イデオロギーという言葉は、1795年頃にフランスの哲学者で革命家のアントワーヌ・デステュット・ド・トラシー(Antoine Destutt de Tracy, 1754-1836)によって造られました 。主著『Élémens d'idéologie』(1801-1819)の中で、イデオロギーを「思想の科学」と定義しています 。デステュット・ド・トラシーにとって、イデオロギーは公正な社会を創造し、その構成員の道徳的状態を改善するための「真実の思想の教義」でした 。この「イデオロギー化」の動きは、ドイツの歴史家ラインハルト・コゼレックが「ザッテルツァイト(Sattelzeit)」と定義した、1750年から1850年までの移行期の一部でした。この時期、ヨーロッパでは、過去の伝統から独立し、合理的な青写真に基づいて未来社会を構築できるという考えが広まり、思想が具体的な政治運動へと変化していった。後にカール・マルクスは、イデオロギーを「支配階級の利益を正当化し、共産主義社会の到来を阻む理想主義的な障害」であると批判的に捉えた。初期の啓蒙主義者が理性に基づいた進歩のための道具と見なしたものを、マルクスは権力維持のための「虚偽意識」と喝破した。
民主主義(Democracy)
国民の意思を反映して政治を行う考え方。
• 社会主義(Socialism)
生産手段を社会で共有し、平等を重視。
• 共産主義(Communism)
私有財産を廃止し、平等社会を目指す。
• 資本主義(Capitalism)
個人や企業が自由に経済活動を行い、利益を追求。
• 自由主義(Liberalism)
個人の自由を最大限尊重。
• 保守主義(Conservatism)
伝統や秩序を重んじる。
• 全体主義(Totalitarianism)
国家が個人の生活全般を強く統制。
• 無政府主義(アナーキズム)(Anarchism)
権力や国家を否定し、人々の自律を重視。
倫理
• 功利主義(Utilitarianism)
最大多数の最大幸福を目指す。
• 実存主義(Existentialism)
人間の自由と主体性を重視(サルトルなど)。
• 唯物論(Materialism)
精神ではなく物質が根本にあると考える。
• 観念論(Idealism)
精神や意識を基盤とする立場。
• 相対主義(Relativism)
真理や価値は絶対ではなく、文化や状況によって異なる。
• 絶対主義(Absolutism)
普遍的な真理や価値が存在すると考える。
古代・中世の思想的基盤
古代の哲学者たちは、現代のように政治と社会を明確に区別してらず、この概念は啓蒙時代から。
プラトン主義:理想国家とイデア論
プラトン主義は、ソクラテスの弟子であり、アリストテレスの師でもあるプラトン(紀元前428/427年頃 - 紀元前348/347年頃)によって構築された哲学体系。その核心思想は「イデア論」にあり、感覚を超えた普遍的な「イデア」こそが真の実在であり、現実世界はその不完全な模倣であると説く。イデア論に基づき、真理を認識できる哲学者(哲人王)が統治する理想的な国家のあり方を追求した。主著『国家』(紀元前380年頃)は、正義の本質や哲人王の概念を提示した政治哲学の著作として知られる。彼の思想は、形而上学、認識論、倫理学、政治哲学など、哲学の様々な分野に大きな影響を与えた。特に、新プラトン主義を通じてキリスト教神学やイスラーム思想の発展に寄与し、ルネサンス期の人文主義者や近代哲学にも影響を与え、その普遍性と持続性を示す。17世紀イングランドのケンブリッジ・プラトン主義者たちは、政治的・宗教的内乱期において、神学と政治、宗教と科学の中庸を探る中でプラトンの思想を再解釈し、その時代に合わせた形で古代の思想が再活性化される例を示しました 。
アリストテレス主義:現実主義と倫理
アリストテレス主義は、プラトンの弟子であるアリストテレス(紀元前384年 - 紀元前322年)によって確立された思想で師プラトンがイデアを超越的実在としたのに対し、アリストテレスはそれを現実の事物に内在する「形相」として捉え、経験や観察に基づく現実主義的な立場をとった。アリストテレスはアテネに学園リュケイオン(逍遥学派)を開き、論理学、自然学、生物学、形而上学、倫理学、政治学、詩学など広範な分野で古代最大の学問体系を樹立した。彼の主要な著作には、『政治学』や『ニコマコス倫理学』などがある。アリストテレスの思想は、中世スコラ哲学(トマス・アクィナスなど)やイスラーム哲学(イブン・シーナー、イブン・ルシュド)に多大な影響を与え、その後の西洋思想の基盤を形成した。
ストア主義:理性と自然に従う生き方
ストア主義は、紀元前3世紀に古代ギリシャの哲学者ゼノンによって創始された哲学だ。「理性と自然法則に従って生きる」ことを強調し、感情に左右されず、内面の平穏(アパテイア)を保つことを目指した。主要な提唱者には、創始者のゼノンのほか、ローマの哲学者・政治家であるルキウス・アンナエウス・セネカ(『人生の短さについて』)や、元奴隷でありながらストア哲学を学んだエピクテトスがいる。エピクテトスは、自身がコントロールできるものとできないものを区別することの重要性を説く。この思想は、アレクサンドロス大王の死後、ポリスという共同体の枠組みが揺らぎ、不安定な世界の中で個人がどうすれば幸せになれるかという問いに応える形で発展した。
初期キリスト教と政治理論(アウグスティヌス)
初期キリスト教の政治理論には、原始教会(パウロ)の教えや、霊的権威と世俗的権威の分離を説く「両剣論」、そして教父哲学(アウグスティヌス)などが含まれる 。聖アウグスティヌス(354-430年)は、ローマ帝国の衰退期において「公正な社会」という考えに専念し、彼の著書『神の国』で世俗の都市と神の都市を対比させた。この思想は、ローマ帝国の混乱期において、キリスト教が新たな社会秩序の基盤となりうるかという問いに応える形で発展した。
紀元前6世紀の中国では、孔子(紀元前551-479年)が当時の戦国時代を超えた「公正な社会」を構想し、その思想は儒教として後世に大きな影響を与えた。
墨子(紀元前470年頃-390年頃)は、倫理を根底に置いたより実用的な社会学を提唱した。
日本国内
において、儒教精神と関係性を持つ学派が誕生しました。古学派の山鹿素行、古義学の伊藤仁斎、古文辞学の荻生徂徠などが挙げられる。彼らは新儒教を否定し、古代儒教の研究とその精神への回帰を掲げた復古運動を推し進めた。これは、思想史が単一の線形的な発展ではなく、複数の文化圏で並行して、あるいは相互に影響し合いながら発展してきたことを示唆している。
社会理論の萌芽(イブン・ハルドゥーン)
14世紀、イスラム世界においてイブン・ハルドゥーン(1332-1406年)が著した『ムカッディマ』(序説)に、初期のイスラム社会学の証拠が見られ、社会の結束(アサビーヤ)と社会紛争の理論を定式化し、社会哲学と社会科学を初めて提唱したとされ、社会学の先駆者と見なす 。彼の研究は、社会現象を体系的に分析しようとする試みであり、西洋中心史観を相対化する上で重要な貢献を示す。
近代思想の誕生:啓蒙と革命の時代
18世紀の啓蒙時代は、人類の思想史において画期的な転換点となった。この時代に「社会」という概念が明確に現れ、理性と科学的探求の方法に基づいた新しい社会思想が発展し、個人の自由と権利、そして国家のあり方についての根本的な問いが、この時代の主要なテーマ。
社会契約説の台頭 トマス・ホッブズ:『リヴァイアサン』と絶対主義の擁護
17世紀半ばのイングランド内戦(ピューリタン革命)期に活躍した思想家トマス・ホッブズ(1588-1679年)は、社会契約説の先駆者の一人で、人間は自然状態では「万人の万人に対する闘争」という無秩序な状態に陥ると考える。これの克服のため、人々は社会契約を結び、自らの主権を国家に委譲することで、強力な絶対王政を擁護した 。この著作は、彼の先行する政治哲学書『法の原理』(1640年)や『市民論』(1642年)の原型の上に、当時の新たな宗教状況を考慮したキリスト教論を加えて展開される。この思想は、ピューリタン革命から名誉革命に至るイギリス社会の混乱と、当時の宗教的状況を背景に生まれたもので、彼の社会契約説には、当時のジェントリ階層が抱えていた矛盾が反映されていると解釈される。
ジョン・ロック:『統治二論』と自由主義の基礎
ジョン・ロック(1632-1704年)は、新興の中産階層の台頭と近代社会への移行期に、王権神授説を否定し、政治権力の起源を人々の合意(社会契約)に求める 。彼は、人間は生まれつき理性的であり、生命、自由、財産という不可侵の自然権を持つと考えました ロックの主著『統治二論』は、当時の王党派のバイブルであったロバート・フィルマーの『家父長論』を徹底的に論駁する形で書かれ、彼の思想は、アメリカ独立宣言の原理的核心となり、フランス革命にも影響を与え、近代自由主義の基礎を築いた。また、彼の経験主義は、人間の認識は経験によってのみ形作られるという「タブラ・ラサ(白紙)」の概念を提唱し、理性による真理認識を重視する合理主義と対立する思想潮流を形成した。
ジャン=ジャック・ルソー:『社会契約論』と人民主権
ジャン=ジャック・ルソー(1712-1778年)は、トマス・ホッブズやジョン・ロックの社会契約説の流れを汲みつつも、独自の人民主権思想を確立した。彼は、人間は自然状態が理想であり、「憐れみの感情」で成り立っていると考えた。彼の社会契約は、すべての人民(立法者)が一つになり、政府(行政者)を「一般意志」に従わせる協定であり、立法権に優位を置くというもの。「人間は自由に生まれつきながら、至るところで鉄鎖につながれている」という言葉は有名だ。ジャン=ジャック・ルソーの主著『社会契約論』は、その革命的思想のゆえにジュネーブ市会による焚書の憂き目にあったほど。彼の思想は、18世紀のフランス革命に大きな影響を与え、多くの活動家がその思想を基礎に置き、現代の民主主義社会を考える上でも基本となっている。特に、ジャコバン派の指導者ロベスピエールはルソーに深く感銘を受け、彼の思想をフランス革命の標語「自由・平等・友愛」の精神的支柱とした。また、明治15年には日本でも翻訳され、自由民権運動の思想的基盤の一つとなった。しかし、ルソーの思想がフランス革命の恐怖政治に利用された例は、思想の解釈と実践の危険性も示唆している。ホッブズ、ロック、ルソーの社会契約説は、それぞれ異なる結論(絶対王政、立憲君主制、人民主権)を導きながらも、「国家の起源は人々の合意にある」という共通の思想的基盤を持つことは注目に値する。これは、同じ概念的枠組みが、異なる時代背景や思想的意図によって多様な政治的結論に繋がりうることを示す。ホッブズは内乱の経験から秩序を最優先し絶対権力を擁護しましたが、ロックは市民革命の経験から個人の自由と権利を重視しました。ルソーはさらに進んで、人民全体の「一般意志」に基づく直接民主制的な理想を提示した。これらの思想は、アメリカ独立革命やフランス革命の思想的支柱となり、その後の民主主義のあり方に多大な影響を与えた。
近代イデオロギーの形成
自由主義(リベラリズム)
自由主義は、個人の自由、権利、財産権、そして市場経済の原則を重視する思想だ。フランス革命をきっかけに発展し、啓蒙思想の合理性と自然権の概念に深く影響を受ける。主要な提唱者としては、アダム・スミス(1723-1790年)が挙げられ、『国富論』(1776年)で、繁栄する社会には市民的自由と「レッセ・フェール(自由放任)」の原則を尊重する国家が必要であると説き、分業を経済進歩の重要な要因と見なした。また、ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873年)は『自由論』で、他人に危害を加えない限り個人の自由は制限されるべきではないという「危害原則」を示し、自由主義の議論を深めた。フランスでは、革命の過激さとナポレオンの軍事専制の間で中道を探る中で、ジェルマン・ド・スタールやバンジャマン・コンスタンらが自由主義を発展させた。コンスタンは古代の戦士社会の「古代人の自由」(積極的自由)と、近代の商業社会の「近代人の自由」(消極的自由)を区別した。イギリスでは、功利主義と結びつき、ジェレミー・ベンサムやジョン・スチュアート・ミルによって急進主義の道を辿った。
保守主義(コンサバティズム)
保守主義は、伝統的な社会秩序、制度、価値観の維持を重視する思想。急進的な変化に懐疑的であり、歴史や経験に根ざした漸進的な改革を好む。エドマンド・バーク(1729-1797年)は、フランス革命を批判した英国の政治思想家であり、「保守主義の父」と呼ばれる。彼の『フランス革命の省察』は、保守主義の古典とされている。「保守主義」という言葉は、フランス革命後にフランソワ=ルネ・ド・シャトーブリアンが王政復古の政治機関紙に「Le Conservateur(保守主義者)」と命名した時に政治の場に登場したと言われる。20世紀半ばの米国では、ラッセル・カークが『保守主義の精神』(1953年)を著し、伝統主義とリバタリアニズムという二つの流れが生まれ、保守主義内部での議論を活発化させた。
功利主義(ユーティリタリアニズム)
功利主義は、行動の善悪を、それがもたらす幸福の大小、すなわち「最大多数の最大幸福」によって判断する倫理思想で、幸福とは快楽の増進と苦痛の欠如を意味するとされます 。ジェレミー・ベンサム(1748-1832年)がその思想の根底を築く。彼は当時の複雑なイギリス法典に不満を抱き、法や社会の改革提案を行う中で功利主義を提唱した。ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873年)はベンサムの快楽主義を継承しつつも、『功利主義論』(1861年)で「快楽の質」の概念を導入し、功利主義の議論を深化させた。彼の思想は、個人の権利の社会的「効用」に焦点を当て、イギリスの自由主義の急進的な潮流を形成した。
経験主義と合理主義
近代思想の形成期には、知識の根源をめぐる大きな対立があった。
経験主義(エンピリシズム)
経験主義は、すべての知識は経験から得られるという考え方 。人間の認識は生まれつきの能力ではなく、生きていく中で身につける感覚や経験に基づくとされ、ジョン・ロックは「タブラ・ラサ(白紙)」の概念を提唱し、人間の認識は経験によってのみ形作られると主張した。デイヴィッド・ヒュームも経験主義の立場を代表する哲学者。
合理主義(ラショナリズム)
合理主義は、人間が生まれつき理性(物事の正しい判断基準)を持っていると考える思想で、経験主義と対立します 。真理は理性によってのみ認識できると主張します。主要な合理主義者としては、ルネ・デカルト(1596-1650年)が挙げられ、「我思う、ゆえに我あり」で知られる近代哲学の父であり、主著『方法序説』を著した。彼の著作は、新しい学問の方法を世に知らしめたいという動機から書かれた。当時の知識弾圧の時代背景(トマス・モアやジョルダーノ・ブルーノの処刑など)を考慮し、慎重に発表された。バールーフ・デ・スピノザ(1632-1677年)は、汎神論的な体系を展開し、神を自然と同一視する独自の倫理思想を『エチカ』で示しました 。彼の思想はユダヤ教信仰に批判的であったため、23歳でユダヤ人共同体から破門され、その生涯は思想の制限との戦いで、彼の過激な思想は、発表当時は大きな反発を受けたが、100年後にドイツで見直され、現代でも様々な解釈が加えられる。ゴットフリート・ライプニッツ(1646-1716年)は、デカルト的な心身問題を解決するため、無数の単純な実体である「モナド」が存在すると考え、「予定調和説」を提唱した。彼の『モナドロジー』は長年の思索の集大成であり、大陸合理論の集大成と見なされ、17世紀後半のヨーロッパは、ケプラー、ガリレオ、ニュートンらによる科学革命が進展し、理性と信仰の調和が模索された時代で、合理主義者たちはこの知の変革期に大きな役割を果たした。
20世紀以降の多様な思想潮流
20世紀は、二度の世界大戦、冷戦、そして技術の急速な発展といった劇的な社会変動を経験し、それに応じて多様な思想潮流が生まれ、既存の「主義」も大きく変化た。
社会主義・共産主義の展開
初期社会主義(ユートピア社会主義)
初期の社会主義者たちは、クロード・アンリ・ド・サン=シモン(1760-1825年)、ロバート・オーウェン(1771-1858年)、シャルル・フーリエ(1772-1837年)、ピエール=ジョゼフ・プルードン(1809-1856年)のような思想家たちを指し、彼らは、秩序正しく公正な社会が実現可能であるという合理主義的な期待を共有していたが、自由主義者とは異なり、平等な政治的権利よりも、生産の組織化と富の分配が不正の最も重要な源であると主張した。
マルクス主義
カール・マルクス(1818-1883年)とフリードリヒ・エンゲルス(1820-1895年)は、初期社会主義者のユートピア的でポピュリスト的な楽観主義を「妄想」と批判した。マルクスは19世紀に活躍したドイツ出身の社会主義者で、哲学者、思想家、経済学者、革命家など、さまざまな肩書を持つ。彼の思想の根底には「唯物史観」があり。これは、人間社会の土台は物質の生産力や生産関係による経済であり、経済が変わることで新たな社会が作られるという考え方で。そして、社会の変化は、資本家と労働者との間の「階級闘争」によって生み出されると主張した。マルクスの時代は、資本主義の名のもと、経営者が利益を追求するために労働者の賃金を抑制したり、雇用する代わりに安い機械を導入したりしていたため、貧富の格差が拡大し、貧困にあえぐ人が増えていた時代だった。彼は、古典派経済学(アダム・スミス、リカードなど)を批判的に捉え、発展させた。彼の主著『資本論』は、資本主義研究の集大成として発表され、資本の生産過程や流通過程、資本主義的総過程などを解説した。また、マルクスとエンゲルスは、共産主義思想のエッセンスを記した『共産党宣言』を執筆し、プロレタリアートの闘争を支え続けた。エンゲルスは『宣言』を貫く根本思想として、経済が社会の土台であること、すべての歴史は階級闘争の歴史であること、プロレタリア革命は一階級の解放でなく人類全体の解放であることの3点を挙げる。彼らは1845年に『ドイツ・イデオロギー』も執筆し、マルクス主義を理解するために欠かせない書籍と位置づけられています 33。
レーニン主義と共産主義国家の成立
レーニン主義は、ウラジーミル・レーニン(1870-1924年)によるマルクス主義の理論と思想であり、ロシア革命の最も指導的な理論となった。レーニン自身も大学時代にマルクスの『資本論』と出会い、マルクス主義に傾倒した。ロシアが第一次世界大戦に参戦し、国内社会が無秩序状態に陥った時代に、彼は共産主義を掲げて登場し、ロシア十月革命を指導して世界初の社会主義国家であるソビエト連邦を樹立した。レーニン主義は、広義にはレーニンの影響を受けたヨシフ・スターリン(1878-1953年)によって展開された潮流全体を指す場合もあり、この場合には「マルクス・レーニン主義」という呼称も用いられた。スターリンの『レーニン主義の基礎』を受けて、コミンテルン(共産主義インターナショナル)はレーニン主義を普遍的原理と規定し、これが国際共産主義運動を通じて世界化された。主要な教義には、帝国主義論(19世紀末以降の帝国主義を金融資本の支配に基づく資本主義の新たな段階、そして社会主義への移行を準備する資本主義の最後の段階と捉える)と、プロレタリアート独裁の実現の諸条件と諸形態がある。レーニンは、勤労者の利益のために暴力を組織することを望み、全面的テロルに訴えることをためらわない。レーニンを継承したスターリンも大粛清などのテロリズムを全面化させた。政治学者ウラジーミル・ティスマネアヌは、レーニン主義を、政治的暴力を神聖化し、社会的カテゴリー全体を国家主導で絶滅しようとする革命教義であり、法の支配、自由、財産、そして人権の普遍性を軽蔑することに根差した、世俗的な排除の目的論であったと批判している。
社会民主主義
社会民主主義は、マルクス主義から派生しつつも、革命ではなく議会政治を通じて漸進的に社会主義を実現しようとする思想。ドイツの社会思想家・政治家であるエドゥアルト・ベルンシュタイン(Eduard Bernstein, 1850-1932年)がその主要な提唱者だ。彼は1899年に『社会主義の諸前提と社会民主主義の任務』を刊行し、先進資本主義国における民主的な社会主義への道を示した。この著作は、当時のドイツ社会民主党に「ベルンシュタイン問題」を引き起こし、彼は主流派、特に左派から「修正主義者」として厳しく批判された。しかし、ベルンシュタイン主義は、イギリスのフェビアン主義とともに、今日の民主社会主義の源流の一つとされている。
社会ダーウィニズム
社会ダーウィニズムは、19世紀英国の哲学者ハーバート・スペンサー(Herbert Spencer, 1820-1903年)が提唱した思想で、彼はダーウィンの進化論をヒントに、人間社会の原理として「適者生存」という考え方を提示した。この思想は、弱肉強食・優勝劣敗という危険な世界観につながり、自己責任論の拡大や国際問題の単純化に利用されることもあった。スペンサー自身が「適者生存」という言葉を造り、ダーウィンが『種の起源』(第5版)に取り入れたことでも知られる。
実存主義
実存主義は、20世紀に大きな影響を与えた哲学潮流で、その先駆者とされるのは、セーレン・キルケゴールやフリードリヒ・ニーチェで。20世紀には、カール・ヤスパース、マルティン・ハイデガー、そしてジャン=ポール・サルトルらが実存主義の思想家として現れた。ジャン=ポール・サルトルの『実存主義とは何か』(1945年の講演をもとにした講演録)は、実存主義の基本的な考え方を説明し、世界的なサルトル・ブームを巻き起こす。この思想が提唱された背景の一例に第二次世界大戦の悲惨さとナチスによる占領下の苦難は、人々に深い絶望感と虚無感をもたらし、伝統的な価値観や信念が崩壊し、人間の存在意義が問い直される中で、サルトルは実存主義思想を通じて、個人の自由と責任の重要性を訴えた。また、19世紀以降に広まった近代科学と合理主義への反発も背景にあり、二度の世界大戦を経験した人々は、科学や理性だけでは人間の問題を解決できないことを痛感し、実存主義はこうした近代科学や合理主義への反発として、人間の主体性や感情、自由意志の重要性を主張した。戦後の混乱期に生きる人々に、新しい人生観と倫理観を提示し、主体的に生きる勇気を与えた思想として、実存主義は大きな共感を呼びました 。
フェミニズム
フェミニズムは、女性の権利と平等を求める思想・運動。初期のリベラル・フェミニズム(自由主義フェミニズム)は、経済的には資本制、思想面では啓蒙思想の発展の中で誕生しましたが、その近代の枠組みを批判し、その変更を求める運動として登場した。体系的な女性解放思想の最初期の著作とされるのが、メアリー・ウルストンクラフトの『女性の権利の擁護』(1792年)で、彼女は、男性が描く女性像や偏見、政治からの女性の排除、自然権からの女性の排除に抗議し、その後の欧米の女性運動の指導者に多大な影響を与えた。ラディカル・フェミニズムの古典とされるケイト・ミレットの『性の政治学』(1970年)は、女性の抑圧に「家父長制(patriarchy)」という表現を与え、性の政治化と女性の抑圧の可視化の面で重要な貢献をした。家父長制という用語は、ラディカル・フェミニズムのみならず、フェミニズムの中に広く用いられるようになり、1970年代から80年代半ばまでのフェミニズム理論の中心テーマとなりました 。
環境主義
環境主義は、人間と自然の関係、環境保護を重視する思想で、レイチェル・カーソンの著書『沈黙の春』(1962年)は、環境主義の歴史において画期的な出来事で、この本は、DDTをはじめとする殺虫剤や農薬などの化学物質の危険性を訴え、生態学的思考の発展を加速させ、それまでで最も多くの人々に環境倫理学について考えた。『沈黙の春』は「アメリカを変えた本」とも呼ばれ、アメリカ社会に大きなインパクトを与え、彼女の警告は、21世紀の環境問題を考える上で今なお指針となった。
深層生態学(ディープ・エコロジー)
深層生態学は、ノルウェーの哲学者アーネ・ネス(Arne Naess)が1973年の論文「シャロー・エコロジー運動と長期的視野を持つディープ・エコロジー運動」で提唱した環境思想です、ネスは、環境汚染や資源枯渇への懸念に動機づけられた、人間中心主義的な「シャロー・エコロジー」(先進諸国の人々の健康と繁栄を目標とする)を批判した 。深層生態学は、自然界のあらゆる存在が相互依存の関係にあり、等しい「内在的価値」を保持しているという「生態圏平等主義(biospherical egalitarianism)」を主張する。従来の人間中心主義的な環境思想を自然中心主義的なものへと転換することを促すものだ。深層生態学は、現代の環境問題を引き起こした人間の精神の内面性それ自体を問題にし、現在の社会システムと文明の中で失われてしまった自然との関わり・一体感を確保し、自然の中での「自己実現」を通して生命の固有の価値を見つめ直すことを提唱する。ただし、ネスはあらゆる殺生を禁じているわけではなく、人間が自らの生存に関わる「必要(vital needs)」を満たす場合を除き、生物多様性を削減する権利はないと述べる。
社会生態学(ソーシャル・エコロジー)
社会生態学は、マレイ・ブクチン(Murray Bookchin)が提唱した思想。ブクチンは、環境問題の根源を人間社会のヒエラルキーや支配、そして市場主義(競争的な市場経済が生命の世界全体を商品化しうる対象として還元する)に見出した。彼は、人間の自然に対する関わり方は、人間の人間に対する関わり方の反映であると主張し、人間社会に横たわるヒエラルキーなどの問題が解決されない限り、エコロジー的問題も解決されないと論じた。ブクチンは深層生態学を批判し、深層生態学が自然観の変革を重視するあまり、社会構造変革の優先順位が相対的に低いこと、人口問題を重視し政治経済的不平等を軽視すること、そして神秘的な「東洋思想」への憧憬がある一方で西洋社会における権力構造への感度が鈍いことを問題視した。社会生態学はアナキズムに根ざしており 、個々人が社会政策の決定に直接参加できるようにするためには、社会的ヒエラルキーや支配を即時撤廃し、国家権力を解体し、自治権という名の権力を個人に与える必要があると主張する。
モダニズム:絶対的な真理や進歩を信じ、それを追求する主義。
ポストモダニズム:モダニズムが信じた絶対的な真理や進歩を疑い、多様性や相対性を重視する主義。
ポストモダニズム
ポストモダニズムという用語は、1971年にアラブ系アメリカ人理論家イハブ・ハッサンが社会理論に導入し 、1979年[にはジャン=フランソワ・リオタールが短いが影響力のある著作『ポストモダン状況:知識に関する報告]』を執筆した。リオタールはポストモダニズムを「メタ物語への不信」と定義しました 。これは、近代が正当化のために用いた精神の弁証法、意味の解釈学、理性的または労働する主体の解放、あるいは富の創造といった壮大な物語とは対照的だ。ポストモダニズムは、近代の合理性や普遍的な真理の主張に懐疑的であり、多様性、差異、断片性を重視します 。ジャン・ボードリヤール、ミシェル・フーコー、ロラン・バルトらが、1970年代にポストモダン理論の発展に影響を与えた。背景には、20世紀後半の歴史的転換(大戦後の価値観の動揺、冷戦終結後のイデオロギーの終焉論)や、F.ジェイムソンが「後期資本主義の文化的論理」と表現したように、後期資本主義の文化的表現形態として捉えられることもある。しかし、1995年のソーカル事件では、ニューヨーク大学の物理学教授アラン・ソーカルが、ポストモダン系の学術誌に意図的に無内容な論文を投稿し、それがそのまま掲載されたことで、ポストモダニズムの学術的厳密性に対する批判が巻き起こった。
加速主義(アクセラレーショニズム)
加速主義は、資本主義や技術の発展がもたらす社会変革のプロセスを、意図的に加速させることで、現在の社会システムを超越しようとする思想。既存の矛盾を深掘りし、その崩壊を促すことで、新たな社会形態への移行を早めることを目指します。英国の哲学者ニック・ランド(Nick Land, 1962-)がその源流の一人とされていて、彼の主著『絶滅への渇望』は、徹底した脱観念論や精神分析を展開し、加速主義の哲学的基盤を築いた。この思想の背景には、少子高齢化、グローバル資本主義の変容、民主主義の脆弱化といった現代社会の切迫感や、「このままでは社会が立ち行かなくなる」という終末論的な視点がある。日本では、宮台真司がこうした社会の「崩壊」への切迫感から自身を加速主義者と称するなど、特定の国家や地域が抱える固有の社会問題と結びついて解釈されることもある。一方で、加速主義はオルタナ右翼に哲学的基盤を与えたとして批判されることもあり、その思想的影響は多岐にわたる。
ロシア宇宙主義(ロシアン・コスミズム)
ロシア宇宙主義は、19世紀末から20世紀前半のロシアで生まれた、非常に独特な思想潮流です 。その核心は、人間の不死化、死者の復活、そして宇宙への進出を唱える点にあります 。科学技術を駆使して生物学的限界を超越し、全人類の死者をも復活させる「共同事業」を目指すという、壮大な構想を持つのが特徴。ニコライ・フョードロフ(Nikolai Fyodorov, 1829-1903)がその始祖とされている。詩人スヴャトゴルは、未来の共産主義社会の目的かつ条件として不死を夢見た。この思想は、科学技術の進歩への期待、ロシア正教の思想、そして共産主義の理想(完全な社会と人類の進化)が複雑に融合した背景を持ってい流。ソ連時代の宇宙開発競争にも思想的な影響を与えたとされ、科学と哲学、政治が特異な形で結びついた例と言える。現代では、美術批評家ボリス・グロイスが、ミュージアムの機能と死者復活の概念を結びつけるなど、新たな解釈が試みられている。
トランスヒューマニズム(超人間主義)
トランスヒューマニズムは、科学技術を積極的に活用することで、現在の人間の形態や限界(病気、障害、老化、死など)を超越し、知的生命の進化を継続・加速させようとする思想および運動だ。その根底には「生命への愛」があり、生きていることの喜びを最大限に感受できる状態を目指すという、生命促進の原則と価値観が据えられている。この用語自体はカナダの哲学者W. D. ライソール(W. D. Lighthall)によって1940年以前に用いられましたが 64、米国の未来学者マックス・モア(Max More, 1964-)が1990年に『Transhumanism: Toward a Futurist Philosophy』でその定義を広く普及させた。トランスヒューマニズムの背景には、トマス・ホッブズが人間の人生を「不快かつ野卑で短い」と述べたように、人類が古くから抱いてきた苦痛や死への克服願望がある。現代のバイオテクノロジー、人工知能(AI)、ナノテクノロジーなどの急速な発展が、この思想を単なるSFの領域から、現実的な可能性を持つものとして捉える背景となる。