「ページを書く」は次にとるべき行動と、望んでいる結果を行き来する
Next Stepが"ページを書くこと"になってしまい機能しない
「ページを書く」という次のステップがあるので、全体像にズームアウトしてもあまり意味がありません。ページを書くためにしなければならないこと、多くの場合、1時間や1ヶ月かかる他のことをするためのナビゲートには、それではあまり役に立ちません。ページを書くためにしなければならないことは、他にもたくさんあります。
玄武.iconGTDが学術的にはあまり普及しないのは、上記のように本を書く、論文を書く、物を書くといった望んでいる結果に対する次にとるべき行動(ネクストアクション)が“writing a page.”(ページを書く)というわかりきったことがわかるだけで何も進展しないということで、あまり意味がないことをいいたいのだと思われます。
ただ、これはあまりにGTDを杓子定規的に当てはめているだけではないのでしょうか。「ページを書く」というネクストアクションがわかったとして、そこから進展しないのであれば、「ページを書く」ということは、望んでいる結果になるのではないでしょうか。
「ページを書く」という望んでいる結果に対して、次にとるべき行動は何かを考える。参考になりそうな本を読む、過去に自分が書いたものを読み返す、散歩するなどなど。そうして、自分にとってどういった行動が「ページを書く」という望んでいる結果をもたらすものか倉下さんの言葉を借りるならば「自分なりのやり方」を探ることもGTDの使い方にはありそうだと思うのです。
そうして「ページを書く」という望んでいる結果だったものが、自分なりのやり方を見つけ、いつしか次にとるべき行動として選択するだけでいい状態になっていく(もしくは、ページを書くという望んでいる結果の前に、本を読んでおく、過去に自分が書いたものを読み返しておく、散歩しておくなどの次にとるべき行動を済ませておく)。GTDの5つのステップが「選択する」で終わっていて実行をサポートしていないものを、望んでいる結果と次にとるべき行動の行き来によって、選択するだけでいい状態にする。これもまたGTDを使った自分なりのやり方のひとつです。
rashita.iconまさにその通りですが、逆に言えばGTDを杓子定規に行っただけでは達成できない、ということの裏返しではないでしょうか。たとえば、「ページを書く」という望んでいる結果に対して、「参考になりそうな本を読む、過去に自分が書いたものを読み返す、散歩する」などが思い浮かんだとして、これをどのように「処理」すればいいのかは、GTDの本を読んだだけでは判然としないと思います。なにせこれは、「こういうこともあるかもしれない」という仮設であって、ナチュラル・プランニングのような、「それをすれば目標に達すことができる段階的な行動」ではないわけなので。
もちろん使い方次第でGTDでも対応はできるでしょうが、そこに「使い方次第」というものが出て来ざるを得ないところに、手法的な限界があるのではないか、という指摘なのだと思います。もちろん、そのような論立ては、あの本で彼が「自分の方法が良いのである」という主張を際立たせるためにあえて強調して言っていることは間違いありません。
それはそれとして、GTDの解説の中に「行き来しましょう」という解説があれば僕はもっとずっとGTDに親近感を覚えたと思います。しかし実際は、自分たちの挫折の中でそれを補強して学んできた側面が強いので、「GTDだけでいいんです(GTDの本を読めばいいんです)」という言説に流れてしまうことに危機感を覚えます(同様に、上の本の方法だけでうまくいくとも思えません)。
玄武.icon
確かに「GTDを杓子定規に行っただけでは達成できない」ということですね。GTDを杓子定規に扱わないで「自分なりのやり方」でいいのだと思います。