『自然学の提唱』
25/05/19
なんかちょっと急に気になって読んでみたら面白すぎる
p14
霊長類研究センターで、外に出て自然学をやる部門が二つしかなくて残りは部屋に閉じこもって猿を材料として実験ばっかりしてるというくだりがあった、やっぱり外に出ないといけない。
それこそ実存主義でもそう
現状別に研究者として生きてるわけではなくどこかに所属しているわけでもないから、彼らは国外にも出てフィールドワークをするのだろうが、こっちからしてみれば日常のあらゆる瞬間もフィールドワーク。
「実証科学に引っ張られて実験第一となっては自然学から遠ざかる」とあるが、じゃあ実証科学ってどう思ってればいいのか
つまり、実証じゃないところにあるものの捉え方について
「せっかく自然の中へはいって仕事をするのなら、もっとおおらかな気持ちになって仕事しなければいけない。」
p15,16
おもろすぎる、スケールの大きな人間が出てこない。おらん。大技を使える人じゃないと、全部小さい枠組みの中でごちょごちょしてるのは、それは技術でしかない
p22
なぜ東洋は科学を作らなかったのか、っておもしろい問い
西洋科学との対比としての東洋の科学、また、日本の科学についてみていくのもろもろそう
というか見ておかなあかんやろこれどう考えても
キリスト教は、人間と神、人間と自然を切り離していく、自然科学はこの感覚がベースにある。東洋は全体をつかもうとする
p24
いやこの辺おもろすぎ
人間はアイデンティティを持っている、これは帰属意識のことである。
そして自然に対して帰属意識を持つ
人間の世界である意識に対して無意識は自然の世界である。
デカルト風の科学(合理主義)で言えば、意識を持たない人間以外の生物はこの自然の世界、つまり無意識側にいることになる。 一方で
私はまえから無意識の世界にすむはずの生物たちがその時その場であやまちなく行動するのを見て、これは直観(洞察)に導かれているからだ、と考えていた。(p26)
この直観は意識と無意識の世界をつなぎ、神秘性が感じられるものである。
最近サルトルを見てた時に直観って出てきたのでそこともつながってきた。 もちろんその直観は翻訳の関係もあるが、意識から離れたところにあるものという意味では、これもこの二つを一緒に見てみるとよさそう。
「自然科学的自然だけが、唯一の自然ではないのである。」
25/05/20
p29,31
ここに二つの自然の観方があります。自然科学的な自然の観方、扱い方は切り離すということ一方でいくんです。それから今申しました全体的な自然の観方はどこまでも切り離さない、自然を全体としてつかむ。この二つは全く相反する自然との対応の仕方です。
おもろい、学者は自然の一部しか見てないというのはイメージできる。
物理にしても素粒子の一部しかやってないわけで、
ただ、登山家がも全体としての自然と格闘するというのは面白い見方
p32
新皮質の理性だけで判断するからおもんないことになる。
「進化論のルーツ」
ダーウィンとか進化論も見ていきたいところ。フワッとしか分かってない。
そもそものダーウィンの思想と、それへの反対の主張としてどんなものがあるのか
この人は自然選択の部分に関して異を唱えている
人為淘汰、自然淘汰、ウォーレスの進化論とは?
p41
まずはじめにダーウィンの進化論以前の時代のさかのぼると、ラマルクの進化論などはしばらくおき、西欧の社会では進化論にかかわるものとして、聖書にある神の創造説が、圧倒的な力で一般に信じられていた。私はこの事実から出発したい
おもろい、やっぱ一番最初からさかのぼっていって初めて分かることがある。
自然選択説について
最初は自然淘汰と呼んでいたが、当用漢字になってないので自然選択と言われるようになった。
というか、吉本隆明の経済と言葉・文学とか、岡潔の数学と情緒とか、この今西の自然学とかも結局全体で見ようってことやろこれ、 理性と感性の統合という話なのでは、
あ、ロゴスとピュシスの話でもあるか、
あれニーチェのアポロンとディオニュソスとも関係するのか、
聖と俗も?
ダーウィンの自然選択というのは、生物が植物がたくさんの子供や卵を産み種をまき散らすとき、生存に適した個体だけが生き残るという発想。
でもこれは神による選択を自然に置き換えただけで選ばれ捨てられるということには変わりない、
そうではなくて、生き残ったのは運がよかったからである、
というのが「アンチセレクショニズム」ということらしい。
25/05/21
p47
キリスト教徒ギリシャ哲学に端を発して自然選択とか切り捨てニュアンスが生まれているという捉え方おもろい、
ダーウィンの進化論の源流をたどってる。
するとギリシャ哲学もキリスト教も父性原理で会って、この父性原理というルーツから、西洋で自然科学も生まれたのだし、またダーウィンの進化論も生まれ得てきたのだ、ということができるのではないかと思います。
p47
反選択論者によれば自然選択は行われず、親と同じ特徴をもつ個体が生まれていく
「いいかえるならば生物はすべて保守主義で、現状維持に徹し、進歩はもちろんのこと進歩はもちろんのこと進化さえも必要としていないようにみえる、ということです」
じゃあこの人の言う進化とは?
進化が起こるときには、同じ種に増する個体が全部同じように変わるのである。
基本的にはずっと上の世代と同じように生まれていくがタイミングが来れば一斉に変わるということ、。
わからん。
この後の話としては、生物界の構造としては3単位に分かれているという流れ
種個体、それが集まった種社会、またさらに各種社会が集まった、生物全体社会。
この対応でもなんか考えられそう。
で、この種社会ごとに住み分けできてれば秩序は保たれるという発想。
めっちゃおもろいかも、つまり、生物社会は三層構造からなっていて、種社会ごとにすみわけができてるから、この一番階層が上である生物社会全体で秩序が成り立っている。
その上で、この人はダーウィンの自然選択は認めてないが、もともと一つだったものが文化を繰り返していったという単系進化説には追従している。
じゃあそれをどう考えたらいいのかと言うと、個体発生との類推で考えている。
一つの受精卵から細胞分裂を繰り返す中で一つの個体が現れてくるように、系統発生も途中途中でただ分化していくだけ
細胞分裂の途中で適応や進化がないように、シンプルに分かれていくだけ、
で、種社会は種個体と対応していて、生物社会全体の中でその種社会が果たすべき役割に影響がない範囲で種個体は変化していい。
このとき、種個体が変化するということは、その種であることを象徴する特徴が全部同時に変わらないといけない。
そうじゃないと、つまり、個体ごとにばらばらに違いが出てきてしまうと、その種であることのアイデンティティというかシンボルがまとまってないってことになるから。
で、種個体には寿命があり、そいつらの中では入れ代わり立ち代わりが起こる
でも種社会という系では、生物社会全体の中で果たす機能を維持してないとおかしい、
秩序が壊れることになるから、
ということは、「32億年前の一番最初の生物の種社会が分化してきたことの繰り返しで、今の生物社会全体ができている」と考えられる。
受精卵が細胞分裂を繰り返し人間やほかの動物になるように。
https://gyazo.com/53d9d6c034f729070b81849c1e9dc0ff
こういう感じ?
なるほど、おもろい
たしか、生物でも個体発生は系統発生を繰り返すという話があった気がする。
ヘッケルの反復説か
これも実際はどうなのかよく分からない
『内臓とこころ』
そのように考えてくると、三十二億年まえに発生した最初の生物の種社会が、分化に分化を重ねてここまできた、この生物全体社会というものは、最初の生物の種社会の延長であり、その生長であることは、もはやまぎれもない事実である、と認めざるをえないのであります。
ラマルクもダーウィンも適応に眼を奪われたけども、進化を論ずるものはここにこそ着眼すべきであり、進化は種社会の分化による生物全体社会の生長である、見なすべきではないだろうか。(p51)
この本は講義録をもとにしてそうだが、体系だった形で書こうとしてるわけではない
断片的な話を集めて組み合わせてできた本
でも読んでる側からすれば、部分を見ていくうちになんとなく全体が分かってくる感じ。
一本調子で順番に説明されなくても分かるという分かり方
05/22
p56
4種類のヒラタカゲロウの棲み分けを発見した。
生態学の中で扱わないといけないと思っていたが、それはできないことが分かった。
自分の目で見たという現実があるから、既存の学問の外に出れたのだと思う。
p60,61
環境への適応を否定すると環境の影響も否定することになる
生態学は生物と環境の関係を扱うのだから、進化論は問題なくても生態学は崩れるのでは?という話が書いてる
面白いのは、著者は適応の例までも否定したいわけではないということ。
ダーウィン・フィンチの適応拡散そのものまでも否定したいのではなく、じゃあそれでほかの例もすべて説明できるのか、ということ。ゾウガメの種類の違いについては説明できない
そうだとすれば、適応は万能ではない
ここでの話は、適応で説明できることもあるが、別にそれは一般法則ではない、例えばゾウガメの種類は説明できないでしょ、というニュアンス。
ダーウィンフィンチも適応拡散もゾウガメの話もよく分かってないので、それぞれについて確認しておこう
p63
そもそも私の環境論は、『生物の世界』の昔から、生物と環境はもとは一つのものであり、それが分かれて生物と環境とになったものであるから、生物と環境とはもともと一心同体のものであるという、天地開闢説に端を発しており、これがまた私の進化論の特徴の一つにもなっているのである。
そうか、植物も動物ももとは同じだから適応もくそもないという感覚か
p65
生物社会全体について
その世界は絶対空間のようなまっくらな世界を拒否する。その世界はさんさんと太陽の照りかがやくもっと温かい世界である。動物も植物も仲良くくらす世界である。
文学ってこういうことか。
その人が見てるものをそのまま記述すると勝手に詩的になったりする。
そうやって書こうと意図してごちゃごちゃ装飾した文章とは雰囲気が全く異なる。
25/05/26
p68
「生物学者は生物を通じて自分の世界観や自然観を展開すべき」って主張はおもろい
自分は物理を見てきたので、物理が物質を通して世界を記述しようとするのは当然に受け入れてきたが、
生物学者も生物を通して世界を理解しようとする立場である、とは考えたことなかった、
なかったけど、どの学問においてもその分野ごとの対象を通して世界を理解しようとするものである、と思っておくとどんな分野でも趣旨を取り違えることがなくなりそう
いまごろはライフサイエンスなどという言葉とともに、生物学もようやく見直されつつあるが、しかし、遺伝子であるとかDNAであるとかいった極微の世界を通じて、どんな自然観が生まれてくるのか」
これ、実験室に閉じるな外に出ろと言う話。
「自然科学などなくたって自然は存在する。」
p69
動物や植物の全くおらない自然などというものは、私にとっては自然とは考えられない。ここが物理学者と私のちがうところである
物理学者も自然や世界を明らかにしようとしているが、その時の自然というのは動植物のない機械的な物質としての世界、でもそれは自然全体では全くないってことね。
p73
大昔に最初の生物が誕生してから分化していった、これは高分子が生物に変わるということだが、一個の高分子から一個の生物ではなく多から多である。
これは実証はされてないが、
しかし、西堀栄三郎博士によると、一から一に変化するのではなくて多から多に変化するのが、そもそも化学変化あるいは化学反応というものだから、君の考えでまちがってないだろうという。
そうなん、化学変化が多から多というのはどういうイメージ?
あれか、普通に全体で20個の高分子がペアを作って10個の生物ができるという感じか
10(高分子_2) → 10(生物)
みたいな反応式
p76
ヘッケルの話出てきた
5/28
p89現象と原理
私はようやく、現象を捨て去ることによって原理をえたのである。
この辺内容はよくわからんかったが、そういう手法はいいんけ?
松岡正剛のサイトでもこの本の記事があった
中尾の農耕起源論と梅棹の文明生態史観がおもろそう
今西はいっとき「登山学」というものも構想していた。それは自分の体で知った登山が、世の中で喧伝されている登山とはちがっていると感じたからだった。 このことは今西錦司についで登山が大好きだった西堀さんからもよく聞かされた。今西は、ともかく体感自画像からすべてを発した人なのだ
やっぱこれやねんな、自分で感じたこと、強烈に思ったその体感から始めることが多分大事。
人に言われたことがきっかけになることはあるかもしれないが、それには自分の内部にその種が存在していて、たまたまそのタイミングでそれをきっかけとしてはっきり意識の上で認識できるようになったというだけ。
ゼロだったものがそこで1になったのではない。
もとから見えてない気づいてない1があった。
noteの記事で、今西の『人類の誕生』という本に共進化の話があると書いてた。
やっぱここも関係してくる
この感覚絶対入ってくるな、そういう場、相互触媒的な場を作っていくということ
プロトアイデンティティの件もおもろすぎる
プロトアイデンティティの話って、自分の場所、空間として認識する帰属先ということだと思うが、苫米地の臨場感空間は一つだからそれを移行することで世界が変わる現実が変わる、という話と関係してそう
あとは、人間はほかの種族と交配しないように、自分の属する集団を判断する領域があり、それは種社会についても自分の仲間空間、帰属空間という意識を持てる、ということだろう。
それがあるから全体の調和が成立するということ、たぶん、
ダンバーの「友情の7本柱」の話とも関係してきそう
種社会が、人間の中での棲み分けまで含んでいるとすると、分かりやすいのはクラスでも35人いたとして何グループかに分かれる
男子と女子はもちろん男の中でもグループができて、でもそこで別に対立するわけではなく、棲み分けがなされていて、クラス全体で調和がとれる状態
じゃあこの調和がとれない、つまり学級崩壊というのはどうやって起こるのか、というメカニズムも動物の帰属意識やこの棲み分けの話から考えることも出来そう
今は関係ないので一旦置いとく
この帰属意識棲み分け、空間や仲間意識に関してめっちゃ今思ったのは、アマゾンで野宿した時のテントの話。
アマゾンの途中で木や葉を刈って場所を作りテントで寝た。
数時間前までただのジャングルだったが、トイレしようと少し外れたらめっちゃ「外感」があった。
テントやみんなで食事した場所を「ホーム」と認識し始めていたということ
おそらくこれは人はあいまいを嫌がる、というのとも多分近くて、白黒はっきりしたい、敵味方はっきりしないと気持ち悪いという感覚
受け入れていいのか拒否すべきものなのかさっさと判断しないと生死にかかわるってことなんだと思う。
すぐさま受け入れるか拒むかの判断が生じ、それが人に対しても物質に対しても空間に対しても仲間かどうかの判定となり、それがグループを作り、棲み分けへとなっていくように感じた。
あれ、『自己組織化と進化の過程』でもダーウィンの話修正する件出てきた
これと今西の話を統合させる方向に考えるとおもろそう、
『人間性の進化的起源: なぜヒトだけが複雑な文化を創造できたのか』でも進化論の話出てきてたはず、これももう一回読み直して全部を合体させようとするとどうなるか考えてみよう
p114
おもろすぎる、学問の分類として、以下の図が出てきた、
https://gyazo.com/daec5c60b0abfad45f69ed48d6462338
桑原武夫氏による学問と科学の話を今西の解釈で修正してる件で、
「科学は社会奉仕にであるのに対して学問は自己救済」と出てきた、
この後の話は見てないので知らないが、これって最近よく言ってる「治療としての哲学」や「自分の問題意識や弱さから始まる創造性」、エレンベルガーのいうクリエイティブイルネス、自分の方法や学問を作る感覚と似た話になってきそう、 自分の問題意識を解消していくところに創作があるという見方
p116
大学令の第一条に「大学とは学の蘊奥を究るところなり」とあるらしい。
今日お話しするためにわざわざ字引で調べてきたんですが、いわば学問の究極の一番奥深いところを究める、そういうことですね。
おもろい
そもそもでもなんで別に自然に近いところで幼少期を過ごしたわけでもないのに、と思っていたが、なんやかんやで、カブトムシ育ててみたり、泥団子作ったり、小学生の時は習い事の柔道の行事で、花見、雪山登山、キャンプファイヤー、川遊び、流しそうめん、餅つき、とかやってきたのがでかい気がする。
科学は部分の分析ばっかりになって、全体化が起こらない全体像が浮かび上がってこない、
それはメタフィジックスが抜けてるから、ということ
ところが、還元論的立場に立った自然科学というのは、何でも分析してゆく。細分化した部分がうまくつながらなくなって、全体像が浮かびあがってこない。
うまくいってるところもあるが、やはりメタフィジックスが抜けている。もう少し具体的にいうと、生命のこもったものとしての生物や生物に道みちた自然というものを、それ自身として捉える方法が、自然科学には欠けているということですね。
多分、この全体のまま捉えるのがストーリーとか神話ということになって宗教とか、具体的には仏教の縁起とかレンマとかになってくるのだと思う。それこそ南方熊楠のあたり