科学、怪異、宗教、哲学
#2025年を探さないで
(が、書かれる予定です)
科学、怪異と宗教、哲学は、それぞれが「三すくみ」の関係にある
https://ja.wikipedia.org/wiki/三すくみ
https://gyazo.com/a5143072e56d51fe26e182be054a56f5
共産党宣言冒頭に現れる、幽霊、ゴブリン、悪霊
科学と怪異について
( 『鉄鼠の檻』文庫版 第2章 p.223 )
「そりゃあそうだろう」
京極堂は口の端を下げる。
「あり得ないことではないんだから事実あったことなんだろうが、どうも納得行かないからこそ怪異になるんだ。誰もが納得行ったんじゃ怪異は生まれない」
「そこが解らないんだよ。慥かに起こり得ることしか起こっていないようだが、説明がつくと云ったって牽強付会けんきょうふかいじゃあ得心行かない。寧ろ超常心霊の類を持ち込んだ方が整合性があるように思えるぜ」
「それがいけないんだってば。超常だの心霊だのと云う馬鹿げたレヴェルで捉えることを止めなければ駄目なんだ。本来、これがただの迷子だったとしたら、一番問題にするべきなのは彼女が何故山中に似つかわしくない服装で、どうしてそんな場所にいたのかと云うことだろう?これは不思議なことなどではなくて、単に解らないことなんだ、、、、、、、、、、」
慥かにそれは判らないこと——である。
「僕等はその娘が何故そうしていたのか知らないのだからね。それに確かめようもないじゃないか。だから判らないんだよ。君みたいにどうしても怪異を持ち込まずに理解したいと云うなら、この件に関してはここまでが限界だ。靄靄もやもやは残る。これ以上科学的論理的思考を重ねても情報が少な過ぎるから結論は得られない。つまり考えるだけ無駄なのさ」
「待てよ。僕は何でもかんでも科学で解明できると思っている訳じゃないぞ」
( 『鉄鼠の檻』文庫版 第2章 pp.224 - 225 )
「この世に科学で解明できないものなどないよ」
京極堂は断言した。
「ただ科学的思考というのは凡てが証明され、明白になっていない限り、結論を出してはならないものだ。いずれ凡てが解明できると希望的観測を述べるならいいが、証明できぬ部分までも含めて解ったような顔をするのは奢おごりりだからね。科学的思考に依って理解しようとするなら、現状判らないことは判らないままに棚上げしておくしかないのだと云う腹の括り方をしなければ嘘だ。理論的に正しくたって推論は推論で結論ではないのだからね。それじゃあ据わりが悪いと云うのなら、その時は一旦科学を捨てるしかない。だからこう云う欠落情報が補えないような場合の一番据わりの良い理解の方法は、妖怪変化と考えることなのだ。だからここの人達は一番賢い選択をしたと云うことさ。君が一番愚かだったのだ」
友人はそこで言葉を切り、いつものように片眉を上げて小馬鹿にしたように私を見た。
「君はどうしたって僕を愚か者にしたいようだな。心霊超常は駄目でも妖怪変化ならいいのか?どう違うんだ?僕は最前からそれを尋いてるんだ」
「妖怪変化——怪異と云うのはそもそも理解不能のものを理解するための説明として発生したものなんだぞ。云ってみれば科学と同じ役割を持ったものなのだ。その怪異を科学的に考察すると云うのはナンセンスじゃないか。説明機能自体を別の説明機能を用いて説明するなんて愚かで野暮だよ。塩に醤油をかけて喰うようなもんだ」
「ああ、なる程。科学で説明がつくものをわざわざ怪異で説明することはないし、逆に科学では推論しか下せない事象は怪異でしか説明し切れないと云うことだな。しかし心霊科学と云う奴は、科学で説明できないが故に怪異に依って説明された事象に就いてその説明であるところの怪異自体を科学的に説明していると云う——ああややこしい」
「そうそう。科学と怪異は本来補い合うことはあっても反発するものではない。だが、それでいて絶対に馴染むものでもないのだ。しかし現状は反発し合っているように誤解されている。心霊科学なんかはその誤解の上に成り立っているようなところがあって、そのうえに馴染まぬものを統合しようとまでしている訳だ砂上の楼閣の上の屋上屋だ」
妙な比喩だが判らぬこともなかった。
「彼等は科学の手法を模した疑似科学で怪異を解明した気になって喜んでいるが、それは実は怪異を貶め、科学を堕落させるだけの行為であり、説明体系の統合どころか大いなる勘違いだと、君はこう云いたいのだな」
「関口君、君も解って来たじゃないか。最近はその手の小賢しい馬鹿が増えて科学者も宗教家も甚だ迷惑しているからね。まあ、君はこの件に関しては最初に妖怪変化だと云ったからな。口を開けば心霊だ超能力だと騒ぐ阿呆な奴等よりは小賢しさに欠けるから、ややマシだと云うところかな」
京極堂は漸く愉快そうな眼になった。
宗教と哲学について
( 『鉄鼠の檻』文庫版 第5章 pp.586 - 588 )
〈狗子仏性〉
——見事。見事な領解りょうげである。
「はあ、正解だったのですか?」
「公案に正解と云うのはないらしいのです。ただ老師は続けてこう仰った」
——山川草木悉有仏性さんせんそうもくしつうぶっしょう、而しこうして、天地万物有象皆無なり。無にあらわれ無に帰す。
老師は独り言のようにそう云って呵呵かか大笑したのだそうである。そして続けて、
——それ以上は身を滅ぼしましょう。無無無無、それでいい。そもそも『無門関』では斯くの如きに云う。狗子に還って仏性有りや無しや、趙州じょうしゅう曰く無し。無しだ。潔い。
と云ったと云う。
「何ですかそのお経は、爽然解らないな」
〈解ると悟る〉
「まあ僕も善く意味は解らなかったのですが、しかし解った——この解る、、と云う言葉が悪いのです。どうも混乱の元です。通じ悪いです。僕は解らなかったのですが、その——」
「悟ったのですね今川さん」
敦子が云った。
「こればかりのことで悟ったと云うのかどうかは解りませんが——また解らないが出て来てしまったです。本当に言葉と云うのは不自由です。しかしまあ紛らわしいので中禅寺さんの仰る通りに云い直します。僕は解らなかったですが悟ったのです」
「どう云う悟りです?」
「はあ。つまり凡ては無であり、無である以上あるとかないとか云うのは同じことだと。そこで僕は昨晩の僕の最初の質問、解ったことと解った気がすることは同じか否かという問いの解答が——」
「解っちゃったんですか?」
「敦子さんの言葉を借りれば悟ったのです。それは、巧く云えませんが、こうなのです。解っていても、解った気になった途端にそれは解っていないのと同じことになってしまう。つまり解った気になると云うのは、解ったこと自体を自分自身に説明している状態な訳です。本当は解っているのに、説明された段階でそれは本質ではなくなっている。だから解っている気になっているうちは解ってはいるが解っていないのと変わりないのです。説明抜きで、解ったことそのもの、、、、を、生きること自体で体現して、それで初めて解ったということになるのでしょう」
ふうん、と益田が頭を抱えた。
「つまり、絵を描く時は、自分が紙になり筆になる。紙を紙として、筆を筆としているうちは、それはただ小手先の技術に過ぎないと——」
〈禅と哲学〉
私には理解できなかった。論理ロジックとしては解らないではないが、実感は持てぬ。その差こそ解る、、と悟る、、の差なのかもしれない。所詮私は悟ってはいないのだ。
しかしそう云ってしまえばそんな気になるが、解る、、と悟る、、の差と云うのも、つまりは言葉の云い換えに過ぎないのではないか。精精修辞レトリックの問題に摩り替えて安心しているだけのような気もする。
それにその、朧に理解できる論理とて、私にはとても老師の言葉から導き出されて論理とは思えなかった。何か計り知れない飛躍があるようだ。そうするとその飛躍の部分が飛躍でなくなるか否かが悟る悟らないの差なのかもしれない。
「何か奥が深いなあ。哲学と云うのですかね」
益田が云う。敦子が間髪を容れずに云った。
「禅は哲学ではないそうですよ。禅のことを哲学だなんて云ったら、うちの兄貴なんかは、かんかんに怒りますよ」
科学と宗教について
( 『鉄鼠の檻』文庫版 第6章 pp.815 - 823 )
「つまりあなたは、既成の禅の殆どに最早自分の居場所を見出だせないと云う可能性に気づいてしまったのです。そこで、禅の新しき展開——科学との共生に、計り知れない魅力を感じた」
科学と宗教との共生——それは果たして——。
「京極堂、禅は果たして科学と馴染むのか?」
それは——私の領分だ。
〈禅と科学〉
「科学側の禅に対するアプローチが最近徐徐に盛んになっていることは事実だよ。関口君。例えば森田正馬もりたまさたけが森田療法の確立に当たり、禅の思想に大きく影響されたことは知られているし、道元の著した『赴粥飯法ふしゅくはんぽう』や『典座教訓』 などに食事療法や健康食の範を求める者もいる。元文部省橋田邦彦は帝大の生理学研究室にいた医者だが、この人は『正法眼蔵しょうぼうげんぞう』を愛読した。その一門は『全機性医学』と云うものを云い出している。全機とは全てが機能することであり、部分と全体が呼応して機能し、快復するという生命工学的な発想の医学だが、この全機も禅の言葉だ」
まるで予め用意されていたかのような回答だった。
「慥かに心理学や精神病理学も禅に注目し始めていると聞くなあ。そもそも今回の調査と云うのもその一環なのだろう」
私がそう云うと、京極堂は頬を攣つらせて、
「ああ——君の知っているそれは駄目さ」
と云った。
「駄目?駄目なのか?」
「禅は錬金術じゃないからなあ。愚かなことさ」
「愚かだと云うのかい」
「愚かと云わざる得ないかな。禅の方法論に学ぶのは良い。禅籍の記述を応用するのも良い。禅的な思想を背景に科学的思考を重ねるのも良い。つまり森田療法も全機性医学も有効だ。しかし心理学はいけない。愚かだ」
「しかしユング派の心理学者などは特に東洋的な神秘思想に接近して成果を上げているじゃないか。森田先生と変わらないだろう」
「困るね関口君」
京極堂は眉を歪めて私を見た。
「森田先生は西洋の観念論的な精神分析の模倣に限界を感じ、独自な臨床治療を開発するに当たって、禅的な発想を背景においたんだよ。しかし君の云うそれは違うだろう。慥か唯識論ゆいしきろんと深層心理学を対比させたりする間抜けもいるのだろう?例えば唯識で云う末那識まなしきを無意識に、阿頼耶識あらやしきを集合的無意識に比するなんてのは、大いなる勘違いだと僕は思うね。唯識喩伽行派ゆいしきゆがぎょうはの云う唯識は、般若心経で云う空の理論に基づいたもので、ただ心があり、それを取り巻く事象は存在しないと云う考え方だから、どうやったってこれは抽象化のレベルが違う」
「それは唯物論に対する唯心論か?」
「違うよ関口君。ただ心ありと云うのが唯心論だろう。唯識は心さえ否定してしまう。ただあるのは心ではなく『識』なんだ」
〈唯識〉
「識とは何だ?」
「簡単に尋くなあ。『識』は要するに認識の識で、これは認識するものとされるものの境界みたいなものだ。普通は外に事象があり内がそれを認識すると考える訳だが、仏教には外の事象は凡て内側、つまり心の動きの現れに過ぎないと云う考え方もある。内外共になくたって、識だけは取り敢えずある、否ある筈だ——これが『唯心論』だね。認識対象は認識する自識の中にあるのだと云う考え方だ。この場合、識には認識するものとされるものの契機が両方内在する。耳鼻眼舌身意、末那、阿頼耶、これら八識は心理状態の説明でも精神構造の話でもない」
「解り難いよ京極堂」
「そうかい。そうだなあ。君は未見だそうだが、テレビジョンを思い描いてくれ。形は判るだろう」
「テレビジョンだと?」
「そう、あれは画像が映る。映っている寄席だの座談会だのを番組と云う」
「それくらいは知っている。ラジオと同じだ」
「そうだ。いいか関口君。君は牢獄に入ってテレビジョンを見ている。檻の中だから君は動けない。テレビジョンしか見られない。受像機の外には君しかいない。そう云う状況を思い描け」
「何で僕が投獄されなきゃいけない?」
「今だって同じようなものじゃないか。まあ、囚人である君にとって受像機に映っている番組が外界の事象の凡てだ。しかし見ている君にとっては番組は虚像でしかなくて実体はない。外界の事象は君なくしては認識されない。これを唯心論と考えろ。しかし見ている君にはその通り惚けた男だかあら甚だ心許ない。いるんだかいないのだか判らない。寝てしまうかもしれない。しかし君がいなくてもブラウン管には絵が映っている。受信していなくてもブラウン管はある。これが唯識論だ」
「解った。解ったよ。心理学は番組の良し悪しをあれこれ云うべき学問の領域にある癖にブラウン管を引き合いに出している訳だな」
「そうそう。そもそも科学者は番組製作者のようなものなんだから、番組の内容に就いてだけしか論じられない筈なのに、心理学だけは大きな顔をして聴視者を評論しているのだ。元より態度が悪い。聴視者のことを考えて番組を造るのは良いが、聴視者に口を出すのは慎重にして貰わなきゃどうかと思うな。況てやブラウン管の話を引き合いに出すのはなあ。取り上げるなら別の形にしてもらわないと困る」
「ああ——解った」
その僅かな間で、私は彼の云わんとしていることを何とか察した。
〈禅と言葉〉
「例えば、禅の心を持った科学者がいるのは有益なことだが、禅を科学するのは有効ではないと——そう云うことか」
「まあそうだ。禅はね、特に難しいよ関口君」
京極堂は再度私を見て、すうと気を抜いた。
「禅は印度で生まれ中国で育ったが、真実花開いたのは日本でのことだ。僕は、これは偶然ではないと思う」
「何故だ」
「言葉だ。禅は言葉では表せない。だが日本語は、その表し難いものを表すのに比較的適していたのではないだろうか。それに高度な抽象化を日常的に行っている日本の文化も、禅を受け入れるのに相応ふさしいものだったのだろう。だから——例えば西洋人は禅的なことは理解できても表現することは下手だ。禅を瞑想メディテーションと訳してしまうようなことを平気でしてしまう。先程、常信和尚も云っていたが、瞑想と禅は別物だ。古い時代の支遁しとんの詩などに混同したような記述があるが、伝統的に仏教で瞑想と云う言葉は使わない。この混同は禅をメディテーションと英訳し、それを逆に瞑想と和訳したから起こった混乱だ。西洋人は悟る上で生物学的支障は勿論ないが、文化的支障は非常に多いだろう。だから所詮彼等にとって歌舞伎や能と同じように、博物学的な興味の対象になるだけなんだ。だからね常信和尚——」
私は京極堂の呼びかけに合わせて常信和尚に視線を送った。
常信は——怯えていた。
しかし今や彼を脅かしているのは祐賢ではなく京極堂だった。
「——日本語ですら表し難いものを英語なんかに訳したなら更に訳が解らなくなるだけなんです。況ましてや数字や波形でそれが伝わりますかね?数値化できないものは取り敢えず科学の対象にはなり得ないです。数値化すると云うのも一種の抽象化に外ならないですから。つまりは禅を科学すると云うのはカツレツの揚げ物を作るようなもの。喰えたものではありません」
「そ——れこそ——無意味と」
「そうです。禅を普及したいと云うあなたの思いは十分解る。しかしその手段として科学を選択するのは如何か。誤解を招くのが関の山です。慥かに白隠は公案を手段に爆発的に禅を広めることに成功した。多くの衆生は公案を謎謎程度に思っていただけだ。今度の相手は科学。同じ轍を踏むならまだしも、下手をすると取り返しのつかぬことになる」
「取り返しの——つかぬ——こと?」
〈悟りと魔境〉
「良いですか。例えば魔境と悟りは生物学的には区別がつくものではない。ならば魔境こそ悟りと、多くの者は思うでしょう。すると例えば、悟るために薬物を使用するような馬鹿が出る」
「薬物?幻覚剤のことか?」
「その通りだよ関口君。君が詳しい奴だ。特に短絡的な一部の西洋人はその道を選ぶだろうね。修行するより遥かに楽だし、何しろ医学的には魔境も悟りも区別がつかない。修証一等しゅうしょういっとうと云う言葉は訳し難いからね」
LSD などのアップ系の幻覚剤——麻薬は、慥かに五感を鋭敏にさせ、剰あまつさえ神秘体験を齎もたらすものである。
「そうか。解ったぞ京極堂。坐禅と云うのは薬物を用いずに薬物を投与したのと同じような生理現象を齎す行為なんだな。情報量の少ない状態で五感を研ぎ澄ましていれば、当然のように生理的な変化が起きる。脳内で麻薬が生成されることもあるのだったね。素晴らしき幻覚——神秘が訪れることもある訳だ。しかし、それを——受け流す、、、、から修行なんだな。いや、受け流すことができるようになるため、、に修行をする——のかな? ため、、にとか云ってはいけないのか」
「そうだ。魔境と云うのはその素晴らしく清浄な幻覚自体を云うのではない。その幻覚妄想を、悟りと勘違いしてしまう状況の方を云うのだ。同じ幻覚を見ていて、修行のなっていないものはそれに嵌り、なっているものは受け流すだけだ。だから生理的な区別はない。悟りは脳波では測れない——」
〈科学と宗教〉
「——解りましたか常信和尚。科学と宗教は、補い合うことはあっても寄り添ってはならぬものなのです」
それは——どこかで聞いた理屈だ。
( 「科学と怪異について」 科学、怪異、宗教、哲学#69354dcb0000000000f1a93b )
「科学を過信してはならぬと仰せるのか」
「いいえ。科学は信用できる」
京極堂は断言した。
「昨今科学に不信を抱いて宗教に走ると云う族がいるが、それは筋が通らない。論理的整合性があるからこそ、間違っていないからこそ科学なのです。不信を抱く隙間はない。科学と云うものは全幅の信頼を寄せるべきなのです。勿論科学的疑問を持つことは結構だし、科学技術の使用方法には大いに不信を持っていいのだが、科学的思考自体に不信を抱くと云うのは、基礎的な教育がなっていないとしか云いようがない。疑われるべきは科学を用いる人の側の方なのです」
「それと同様に——宗教に不信を持って科学に走ると云うのも間違っている。いいですか、宗教は決して科学の代用にはならないものです。否、なってはならないものだ。また科学を宗教の代用にすることもいけない。科学を信仰することも、信仰を科学することもしてはいけないことです。科学は科学、宗教は宗教。関わり方を間違えると、国が滅びます」
哲学と科学について
澤瀉久敬おもだかひさゆき『哲学と科学』
哲学を科学するのではなく、科学を哲学するのでもなく、相立つものとしての哲学と科学の関係
積読山脈