日本のインターネット創世記に関わるブックマーク
これ以降、書き込み禁止 2019/1/29
OSI 物理層、イーサネット
Ethernetを汎用LAN規格として普及させるために、ゼロックスはDECとインテルを巻き込んだ。そうしてできた規格は、DEC、インテル、ゼロックスの3つの企業の頭文字を取って「DIX」と呼ばれた。
DECは、自社のミニコンVAXで手軽にLANが利用できるメリットがあった。インテルは、半導体チップの販路拡大が見込めるメリットがあった。ゼロックスは、レーザープリンタを売りたかった。なぜか、肝心のAltoを販売する気はなかったようで、お陰でAltoと競合するLisaやMacintoshを持つアップルは命拾いした。もっとも、レーザープリンタをネットワークで共有するというビジネスは、ゼロックスに十分な利益をもたらしたようだ。
こうして1980年に3社共同でEthernetバージョン1を発表した。Alto専用LAN時代には2.94Mbpsだったのが、このときに10Mbpsまで高速化された。1982年にはバージョン2(通称Ethernet II)を発表し、ここに現在まで続くEthernetが誕生する。
WIDE, JUNET, TISN, etc
The Internet in Asia is around 30 years old. We are studying on the Internet history of Asian perspective with the following objectives;
- Record what happened in the first decades(1980s, 1990s, 2000s) and archive the relevant documents.
- Analyze if the collaboration among Asian countries and the world worked well through the regional networks, organizations and events.
We plan to publish the first book on 1980s in 2013, the second book on 1990s in 2015 and the third book on 2000s in 2016.
WIDE プロジェクト資料
https://gyazo.com/e0f0b7e128afb152f69c01df1a5e8f90
お宝の山だ
UUCP
UUCP was originally written at AT&T Bell Laboratories by Mike Lesk. By 1978 it was in use on 82 UNIX machines inside the Bell system, primarily for software distribution. It was released in 1979 as part of Version 7 Unix. The original UUCP was rewritten by AT&T researchers Peter Honeyman, David A. Nowitz, and Brian E. Redman around 1983. The rewrite is referred to as HDB or HoneyDanBer uucp, which was later enhanced, bug fixed, and repackaged as BNU UUCP ("Basic Network Utilities").
それで、この7th EditionにはUUCPのコードが埋め込まれていた。
Version 6 Unix
1975
Sixth Edition Unix, also called Version 6 Unix or just V6, was the first version of the Unix operating system to see wide release outside Bell Labs. It was released in May 1975 and, like its direct predecessor, targeted the DEC PDP-11 family of minicomputers.
It was superseded by Version 7 Unix in 1978/1979, although V6 systems remained in regular operation until at least 1985.
Version 7 Unix
1979
Seventh Edition Unix, also called Version 7 Unix, Version 7 or just V7, was an important early release of the Unix operating system. V7, released in 1979, was the last Bell Laboratories release to see widespread distribution before the commercialization of Unix by AT&T Corporation in the early 1980s.
2BSD
一九七八年半ばには、バークレー版UNIXをバージョンアップする必要が出てきた。Pascalは、ユーザコミュニティからのフィードバックが実装されて、より堅牢なコンパイラになっていた。それまでの1パス方式のコンパイルから2パス方式に改良され、PDP-11/70上で動作するバージョンに加えて、(メモリの少ない)PDP-11/34上で動作することができるようにもなっていた。そこで、ビル・ジョイは、様々なアップデートを反映する形で、"Second Berkeley Software Distribution"を作っている。そして、すぐに2BSDの略称で呼ばれるようになったこのバージョンのバークレー版UNIXソフトウェアには、改良強化版のPascalのほかviエディタが含まれていた。数種類の端末向けのtermcapも用意されていた。ビル・ジョイは、配布用のテープの作成から、電話の応答、ユーザからのフィードバックの実装まで、全部一人でやってのけた。その年の2BSDの発送本数は七五本にのぼっている。
村井純
1979年、慶應義塾大学工学部数理工学科を卒業、大学院へ
1984年、数理工学博士課程を修了、東京工業大学総合情報処理センター助手
1984年、JUNETを設立。(東工大と慶應義塾を接続)
Unix and me
今日一番話したかったのは“Unix and me”というテーマ。俺が研究室に入った頃(著者注:先生の経歴によると1980年前後)にはPDP-11/10というマシンがあって、最初にさせられた仕事が「OSのソースを書け(リバースアセンブルして改造)」だった。PDP-11には最初RSX-11っていうOSが載ってたんだけど、見ているうちOSというものがわかっていった。ビットパターンを見ているだけで命令がわかる程にね。
その頃7th Editionや2BSDと呼ばれる、UnixというOSが現れた。Unixとはハードウェアベンダーが作ったOS部分を乗っ取るような存在。ベンダーがベストチューンしたOSより大抵遅いんだけど、その代わり自由が手に入った。ここがUnixで俺が一番好きだった発想なんだけど、即ちユーザー主体のプラットフォームという考え方が出来上がった。それで、この7th EditionにはUUCP(著者注:主に電話回線によるコンピューター接続)のコードが埋め込まれていた。
発端はオペレーティングシステムだった
発端はオペレーティングシステムだった
ハードウェアとシステムソフトウェアの関係に夢中になった。プログラミングとそれによって指示するコンピュータの動作は、私の目の前のデジタルテクノロジーの無限の魅力の扉を次々と開いていった。コンピュータが繋がって連携し、利用者にあたかも一つのコンピュータであるような幻想を与える分散処理も魅力的だった。負荷分散や耐故障性、そして、コンピュータが勝手に判断して動作する自律分散制御には夢があった。
時代といえば、1985年の電気通信事業法の施行は、WIDEプロジェクト誕生への大きな節目となった。1984年から開始したJUNETの構築は当然、社会全体の混乱と躊躇の中からネットワーク時代への試行を意味していたからだ。 JUNETの挑戦を、常時接続の自律分散システムへと展開する議論をしたときに、重要なイメージを共有したことが忘れられない。「世界中のコンピュータが全部つながって、分散システムとして動く」。これがWIDEプロジェクトの始まりの理想像だった。大規模広域分散環境、地球全体がゆるやかな分散システムとして動く。この理想に向かってスタートを切ったのがWIDEプロジェクトであった。
NSPIXP
岩波書店にIXを置いた理由とは?
(著者注:1989年頃の話)専用線を使ってコンピューターを繋ぐということにはやっぱり抵抗をもたれていた。(著者注:NTTなど民間企業の設備であるため)「民間企業を繋ぐなんてとんでもない!」と。しょーがないので岩波書店に設備を設けることにした。岩波だって一民間企業でしょって思うでしょ?ところがこれまたオカシなものでさ。岩波って先生方が(出版で)よくお世話になる企業だから、親近感を抱いちゃうのね。だから「岩波はいーよ。だってアカデミックだもん!」って言わせて説得に成功した時は「やったー!」って思った。それで岩波の中に場所借りてさ、そこをハブ(IX)にして大学間を繋いだわけ。(著者注:参考→WIDEヒストリー及びNSPIXP)
去年、バークレイで、「グローバルインターネットはどこから来たか知ってる?」って話をしてさ。「4.2BSD、ココだよ」みたいなこと言ったんだよ。俺もこのあたりの頃から(BSDを作ってた)CSRGの連中と一緒にやってたんだけど、この4.2BSDにDARPAのTCP/IPが実装されて、間違いなくここからインターネットが本格的に広まったんだよ。それまで世界の研究機関に広まっていた4.1BSDを4.2にバージョンアップするだけでTCP/IPが動き出したんだから。
JUNET と fj の話
日本ではじめての広域配布ニュースグループカテゴリであり、当初はfj.*の購読はJUNETへの参加とほぼ同義であった。また、日本におけるJUNETおよび初期のインターネットコミュニティにおける主要な知識交換手段であった。
JUNET のネットニュースにおいては、当初からニュースグループ階層名として fj が用いられた。このニュースグループ fj は、"from Japan" の名のとおり JUNET の枠を超えて全世界に流通し、次第に JUNET とは独立に運営されるようになって、JUNET 終了後も存続している。
海底ケーブル
https://gyazo.com/a5f2e39a8b48e051e18c3bc18ea2fd16
Eastern telegraph 1901
1)学術情報ネットワーク
「学術情報ネットワーク」は、大学共同利用機関である学術情報センター(NACSI S:National Center for Science Information System)を調整機関として、国公私立大 学、短期大学、高等専門学校や研究機関等をネットワークすることによって各種の情報資 源の共有化を推進するために構築された、わが国の学術情報システムの基盤的な伝送路で ある。
2)パケット交換網とインターネット・バックボーン(SINET)
学術情報ネットワークの基盤伝送路としては、パケット交換網と、インターネット・バ ックボーン(SINET)の2つがある。
X.25
SINET
1 NSFnet(National Science Foundation network)
2 CSNET(Computer Science Network)
3 BITNET(Because It's Time NETwork)
1 JUNET(Japanese UNIX Network)
2 WIDEインターネット
東京情報大学研究サーバ
ミニコンピュータ PDP
Unofficial PDP-11 Family Tree
https://gyazo.com/0057980c4ead46506d3236dc012452f2
LSI-11
ここに紹介するのは、モジュール番号M8186、モデル番号KDF11-AA、LSI-11/23 CPUという製品です。22.8 cm×13.2 cmの基板上に中心的な働きをする3個のMOS LSIが搭載され、さらにバッファや周辺回路のサポートに約50個のICが実装されています。中心となるLSIのチップセットはF11と呼ばれ、データチップのDC302、コントロールチップのDC303、メモリ管理ユニット(MMU)のDC304から構成されます。オプションで浮動小数点演算命令をサポートするマイクロプログラムROMも搭載できます。これらはDECの独自開発で、LSI-11とLSI-11/2の後継として1979年3月に発表されました。
https://gyazo.com/d6c0f60cf5a7c57a7a24f9a1c6715de0
1981~1982 慶應大学 SFC にて複数の LSI-11/23 に UNIX 7th Edition がインストールされた
1975年2月に登場した LSI-11 (PDP-11/03) は大規模集積回路を使用した最初のPDP-11である。
PDP-11/23 - 第2世代のLSI (F-11) を使用。初期のユニットのメモリ容量は 248Kバイトだが、後に 4Mバイトまでサポートするようになった。
東大とミニコンピュータ、UNIX
清水 僕は飯沢さんの1年後輩、3期です。実は駒場時代は物理志望だったんですよ。コンピュータに触ったこともなかった。物理を専攻しようと考えていたんだけれど、最後の最後に情報科学に変更しました。なにかコンピュータには新しいことがあるような予感がしたんですね。最初に触ったコンピュータは、PDP-11互換の三井造船のミニコンでした。16ビットUNIXが載っていました。あの頃のUNIXはベル研究所が配布していてソースがほとんど読めて……シェルが550行くらいだったかな。それでUNIXのカーネルやコンパイラを知りました。UNIXが僕らの教科書だったんですね。なにせC言語の教科書だって翻訳はまだ1冊しかなかったんですから。
1977年 入学?
1979年 専攻(3年次)?
鎌田 僕は6期ですが、僕も三井造船のミニコンは触りました。当時はまだFORTRAN全盛で、大型計算機センターもパンチカードで入力していましたよね。カードが高いからなるべく短くプログラムを書くように工夫したりして……。
清水 ワークステーションが出てきたのは僕が修士の頃でした。VAX 11/780、VAX 11/730あたりが各研究室に入るようになりました。
1981年 修士1年次?
最初のVAXは VAX-11/780 であり、1977年10月25日にDECの株主会議で公開された
VAX 11/780 (Star) - TTL CPU, 1977年10月
VAX 11/730 (Nebula) - さらに小型化, さらに性能が低いビットスライス実装, 1982年4月
鎌田 ええ。みんなが使いたいから使わせてもらうのが大変(笑)。あっちの780、こっちの730と間借りしながらVAXでUNIXのプログラムを書いていました。
――飯沢さんが中央電子のワークステーションCEC8000にUNIXを移植したのはその頃ですよね?
1981年。世界に先駆けたマイクロプロセッサへの移植でした。
飯沢 UNIXの移植を世界でみんな競っていた時代です。CEC8000はメモリが64KBしかなくて、コードを1バイトたりともムダにしないようにと必死にやりました。それで、短く、早くコードを書くテクニックを覚えていったんです。
情報科学科は情報科学研究施設を改組してその二部門を学科の講座に移し、昭和五十年四月一日に設立された。学部学生定員は教養学部の学生増募は行なわないとの本学の方針にしたがって、物理学科と数学科学部学生定員をそれぞれ十名と五名を移し、学部学生定員十五名で発足した。学年進行の計画にしたがって計算機実験学と情報検索基礎論の二講座が増設され、大学院理学系研究科情報科学専門課程の修士課程と博士課程が順次設置された。
1975/04/01
情報科学科の前身は昭和四十五年四月一日に設立された理学部附属情報科学研究施設である。当時は情報化社会の黎明期にあたり、情報学の研究と教育の重要性が強く認識され、国立大学では東京工業大学理学部に情報科学科、京都大学をはじめ工学部に情報工学科が次々と新設された時期である。本学では二部門の研究施設が設立された。施設長は故高橋秀俊教授(理学部物理学科)が併任し、情報基礎理論部門に後藤英一教授と國井利泰助教授が、数理言語学部門には山田尚勇教授と野崎昭弘助教授がそれぞれ就任した。
1970/04/01
石田晴久
1970年に東京大学大型計算機センター助教授に就任
1975年-1976年 AT&T Bell Labs 客員研究員
その後、AT&T ベル研究所からUNIX 6th Editionをテープにて持ち帰る
日本にUNIXが初めて入ってきたのは, 1976年に石田先生がベル研究所からお戻りになられたときのことだったそうである.先生は1975年に研究員としてベル研究所に行かれ, そこでUNIXに触れられ, そのすばらしさに惚れ込まれたとお聞きしている.そして、それを日本に帰っても使いたいと思われ、帰国の際にUNIXの入ったテープを持ち帰られたということである.
しかし,当時東大ではそのテープを読むことができず、筑波大学の板野先生のところへ行き、そこでPDP-11のディスクにインストールしたものが日本で最初に動いたUNIXだったそうである.
実は, この東大でテーブを読むことができず筑波大学でインストールをしたことが, その後の日本のUNIXコミュニティを形成する上で重要だったということは今回の村井から聞き出した重要な話題の1つである.と同時に、石田先生の人柄をあらわした一件であったとも考えている.
石田先生は,東大だけでUNIXを使うことはせず、筑波大学の板野先生の周辺、
筑波大学 板野肯三氏
そしてちょうどその頃筑波大学から慶應義塾大学に移られる斎藤信男先生とその関係で声をかけられた村井らをまきこみ,
慶應義塾大学 斎藤信男氏
UNIXのソースコードを読む勉強会を開催されたのだそうである.
そして、3月に急逝した石田晴久氏のことに言及。砂原氏は比較的最近になって、日本にUNIXが入って来たころの話を知ったという。それは、石田氏の葬儀の後に村井純氏から聞いたもので、日本で最初に稼働したUNIX 6th Edition(V6)は、1970年代半ばにベル研究所に研修に行っていた石田氏が持ち帰ったものだったとしている。
「石田先生が偉かったのは、ソースコードが読めるから中身がどうなっているか見ようと呼び掛け、勉強会を始めたこと。こうした文化を創ったのは初めてではないか。つまり、みなさんとオープンソースだとか、情報を共有する礎を築いたのは石田先生だった。石田先生がやってきたことがあるから、我々は今ここにあるんだということを共有したい。」
雑誌名 情報処理
巻 18
号 9
発行年 1977-09-15
雑誌名 情報処理
巻 19
号 1
発行年 1978-01-15
雑誌名 情報処理学会研究報告マルチメディア通信と分散処理(DPS)
巻 1979
号 10(1979-DPS-001)
ページ 1 - 10
発行年 1979-06-27
雑誌名 情報処理学会研究報告計算機アーキテクチャ(ARC)
巻 1981
号 1(1981-ARC-041)
ページ 1 - 8
発行年 1981-04-15
https://gyazo.com/04b572441c0f168acfce4e1e3ab05268
1980 VAX-11/780 を導入 BSD UNIX
1983 日本UNIXユーザー会(jus)設立
ミニコンによるコンピュータ教育:NHK教育テレビ
1970年代の前半にはNHK教育テレビの「コンピューター講座」の担当者の1人となった。「(昭和)48,49両年度については、島内剛一(立教大学)を主任講師とし、石田晴久(東京大学)、筧捷彦(東京大学、後に立教大学)、木村泉(東京工業大学)、広瀬健(早稲田大学)、米田信夫(学習院大学)の合計6人が、講座の立案企画から、各番組での講師役までを担当した」(筧 捷彦による報告論文よりの引用。参考元より当時の論文のPDFが入手できる。)
このコンピュータ講座はそれ以前のバッチ、あるいはTSS中心の内容からスタジオにミニコンを持ち込んでその場で編集実行結果をみることができるスタイルに変わって、また多種の周辺機器をつけたことが重要である。昔このコンピュータ講座をテレビでみてコンピュータに興味を持ったという五十代後半の人は多い。(時代背景:この時代は卓上電卓が急速に広がりだした時代だが、まだプログラム可能なコンピュータに触れたことのある人は少なかった。)
雑誌名 情報処理
巻 16
号 6
発行年 1975-06-15
日本UNIXユーザ会 jus
当時のUNIXはPDP-11やVAXなどDEC製のマシンで動作していたので、UNIXに関する情報交換はDECのユーザ会であるDECUSで行われていました。石田先生をはじめUNIXに魅力を感じる人達が集まり、いわゆるITコミュニティの先駆け的な存在だったのではないかと推測されます。
UNIXに関する情報交換の場はもはやDECUSの枠には収まらないだろうということで独立することになり、jusが設立されました。jusの設立に尽力された方は先述の石田先生や村井先生の他に、jusの初代会長を務められたSRAの岸田孝一さん、慶應義塾大学の斎藤信男先生などです。
jusの活動は1983年6月、第1回jus UNIXシンポジウム(機械振興会館で開催)でスタートしました。
UNIXが普及した理由の一つに、ネットワークへの接続に適したOSだったことが挙げられます。米国ではARPANET※1のベースとなり、日本でも各地のUNIXマシンを相互接続してJUNET※2が形成されました。jusでは1986年からUNIX Fairを開催し、各社のUNIXマシンおよび関連製品の展示を実施しましたが、それは同時に各社のマシンが相互接続できるかどうかを検証する場でもありました。この活動はやがてInteropに受け継がれ、日本におけるインターネットの発展に大きく貢献しました。
jus設立の経緯についてです。当時、DEC社(Digital Equipment Corporation)の日本におけるユーザーグループの中に「UNIX SIG(分科会)」があり、その興味対象がDEC以外のUNIX製品にも広がっていったことから独立発展したのがjusの始まりだったということです。
初期にUNIXの相互検証の場となった「UNIXシンポジウム」では論文発表や展示がありましたが、いわゆる学会ではないため当時としてはかなりラフな発表もあり、比較的自由な雰囲気で開催されたそうです。
また「UNIX Fair」では、参加者が持ち込みんだマシンを会場のネットワークにつながせる代わりに皆が触れるようにしてもらったり、その場で、ナプキンに書いたベンチマークコードを手分けして展示マシンに入力し、ベンチマークを実施するなど、「普段やれないことをやりたおす場」として非常に面白かったことなどが語られました。
1994年7月25日~7月29日:NetWorld+Interop 94' Tokyoを幕張メッセで開催(第1回開催である)
1983年 6月 設立(初代会長: 岸田 孝一)
1985年 6月 第2代会長:斎藤 信男
1986年 4月 junetに参加
1990年 4月 WIDE Internetに接続
木村 泉
雑誌名 情報処理
巻 27
号 12
発行年 1986-12-15
雑誌名 情報処理
巻 27
号 7
発行年 1986-07-15
1971年に東京工業大学での教職につかれましたが,そこで精力的に研究・教育に従事され,その傍ら,「プログラム書法」「ソフトウェア作法」などの翻訳書を世に出されています.特に後者は,自らの研究室で開発を指揮した日本語処理システムにより編纂した,我が国最初のコンピュータ組版による日本語書籍であるという先進性を持つのみならず,発刊から40年以上を経た今日でも書店で入手可能なベストセラーであり,「よいプログラムを書く」という概念を広く知らしめた功績は卓越したものです.
砂原秀樹
1983年慶應義塾大学工学部卒業。1985年同工学研究科修士課程修了。1988年同理工学研究科後期博士課程所定単位取得退学。工学博士。2001年奈良先端科学技術大学院大学情報科学センター教授。2005年情報科学研究科教授。2008年より現職
Acknowledging Ethernet
1982年の3月、村井純氏に出会いました。
その中の一つにAcknowledging Ethernetというネットワークインターフェイスがありました。これは、確認応答をEthernetレベルで送り返すことで、確実にデータを送り届ける仕組みを持たせたネットワークインターフェイスでした。当時はEthernetのハードウェアそのものも簡単に手に入る状況ではありませんでしたから、こうしたハードウェアから自作しキャンパスLANを構築しようとしていたわけです。このハードウェアを利用してシステムを構築する際に注目されたのがUNIXで、このUNIX使いとして白羽の矢を立てられたのが別の研究室にいた村井氏だったのでした。このキャンパスネットワークを構築するプロジェクトはS&Tnetプロジェクトと呼ばれ、2つの研究室で共同して進められていました。つまり、このプロジェクトが無ければ私と村井氏が出会うことはなかったかもしれません。
著者名 田丸 喜一郎 、所 真理雄
雑誌名 情報処理学会研究報告計算機アーキテクチャ(ARC)
巻 1977
号 45(1977-ARC-030)
ページ 105 - 118
発行年 1978-02-22
論文抄録 本論文は,ローカル・コンピュータ・ネットワークに適した低価格で信頼性の高い通信方式Acknowledging Ethernetを提案する。これは,最低位のプロトコルにアクノレッジ機構を付加したEthernetである。アクノレッジ・パケットを衝突させることなく直ちに送信者に返すアルゴリズムが示される。このアルゴリズムを採用することにより,実効転送率および応答時間をアクノレッジ機構を持たない場合のそれぞれ2倍以上に改善できることが計算機シミュレーションによって示される。また,インタフェース・ハードウェアとプロトコルの設計が示され,Acknowledging Ethernetの性能価格比の高さ,そしてホスト・オペレーティング・システムにおける負荷の低さが結論される。
著者名 砂原秀樹 、所真理雄 、中島達夫
雑誌名 情報処理学会研究報告システムソフトウェアとオペレーティング・システム(OS)
巻 1984
号 35(1984-OS-024)
ページ 21 - 26
発行年 1984-09-21
パソコン通信の歴史
1985年の通信自由化がキーになっている
アスキーネット - 1985年5月開局。1997年にサービス終了。
PC-VAN - 1986年4月開局。現BIGLOBE、現在はISP専業(パソコン通信は2001年終了)。
NIFTY-Serve - 1987年4月開局。現・@nifty、徐々に掲示板的サービスに移行(一部の旧会員が利用していたパソコン通信も2006年3月31日終了。日本で最後まで残った大手パソコン通信サービスであった)。
1987年4月15日に正式サービスが開始
ホストシステムはCompuServeのものを使用せず新規に開発した。機械は親会社の富士通が作るメインフレームではなく当初から(MC68000、後にはSPARCを使用した)汎用のUNIXマシンを複数台用いた。一般公衆回線からの接続手段として富士通が構築していたパケット交換網(VAN)サービスFENICSを利用した。
ニフティサーブとJUNET/WIDEの関係
1992年、WIDE インターネットとパソコン通信が相互接続
WIDEの合宿中だったか、村井氏が WIDE とパソコン通信を相互接続したいと言い出した。村井氏の要望は、当時 NIFTY-Serve でさまざまなデータベースサービスを束ねて、サービスをしていたので、それをいちいち電話をかけてつなぐのではなく、インターネットでリモートコンピュータで接続するのと同じように、自分のワークステーションから使いたいというものであった。まあ、だいたいこういうわがままからスタートするので、我々は慣れっこだったが、WIDEの共同研究企業の富士通、NEC、アスキー経由で、NIFTY-Serve, PC-VAN, ASCII-net の担当者が集められ検討することになった。私は当時NIFTY-Serveの SYSOPをしていることは知られていたので、WIDE側は私が担当することになった。
1992年当時、WIDEプロジェクトボードメンバーのお一人だった吉村伸氏が、当社に声をかけてくださったのがきっかけで、インターネットとの相互接続実験を始めることになりました。吉村氏とは、NIFTY-ServeにてUNIX OSの情報交換を行うコミュニティである「UNIXフォーラム(略称:FUNIX)」を運営いただいていたご縁がありました。吉村氏から、インターネットが今後間違いなくインフラへ成長するという確信と、その発展に向けて、日本ではすでに普及が進んだパソコン通信とインターネットの連携が不可欠であるとの強い意志を受け取り、その情熱に当社経営陣が感銘し、賛同したのです。
ニフティサーブと Linux
1992年7月21日 NIFTY-ServeでLinux-0.96c-PL1-TL0 αテスト版が公開
1992年7月25日 Nifty/FFMPRO に Linux porting Lab. 会議室が開設される
1992年10月13日 KON (Kanji ON console)が公開
1992年12月3日 Linux-MLが開始
1993年5月1日 JE (Japanese Extension) がLinux-MLでリリース
1993年5月 NIFTY-ServeのFUNIXフォーラムにLinux会議室が開設される
1993年8月4日 Linux JF (Japanese FAQ) Project結成
1993年8月25日 fj.os.linux ニュースグループ開始
1993年9月 Michael K. JohnsonのLinux INFO-SHEETの日本語版であるLinux情報メモが山崎康宏によって開始される
1993年9月16日 JFのメーリングリストが開始
1993年10月15日 META FAQ日本版(JMETA-FAQ)が開始
1993年11月下旬 LASER5が日本語 Linux + JEを発売開始
1994年2月 Laser5が日本語 Linux + JE(JE2)を発売開始
1994年9月 Laser5が日本語 Linux + JE(JE3)を発売開始
1994年12月21日 Linux FAQ 日本語版が公開される
結局、1980 年頃には、3つの文化が存在し、それぞれはその周辺の部分で 重なりあっていたが、非常に違ったテクノロジーによってまとめられた。 ARPANET と PDP-10 文化は LISP 、MACRO、 TOPS-10 そして ITS によってま とめられ、UNIX と C は PDP-11s と VAXen と貧弱な電話回線によって結びつけられた。そして、初期の熱狂的なマイクロコンピュータファンたちのアナー キーな群れは、コンピュータの能力を一般の人々に向けて解放した。 https://linuxjf.osdn.jp/JFdocs/history-4.html ARPANET と PDP-10 文化
UNIX と C 文化
初期の熱狂的なマイクロコンピュータファンたちのアナーキーな群れ
JPNIC Newsletterの1コーナーである「インターネットことはじめ」だけをまとめました。 こちらのコーナーは、No.66からの企画です。
第1回インターネットの先駆け、ARPANETの始まり
第2回インターネットを支えるTCP/IPの誕生から普及まで
JPNIC Newsletterの1コーナーである「インターネット歴史の一幕」だけをまとめました。 こちらのコーナーは、No.29からNo.65までの企画です。