探求の方法
探求の方法
1041uuu
今になって中公新書や岩波新書を中心に様々な本を読み漁ってるんだけど、これらより専門的な本はどこに売っているのか(もしくは、どうしたら見分けられるのか)が分からない
ジュンク堂とかで本棚眺めてるとものの数分で心がささくれ立ってくる 古本屋はそうならない
ゲーテの色彩論とか面白いけど絵に活かそうとは全く思えない そういう下心が少しでもあると一気に読むのがしんどくなってしまう taizooo
スレッドにぶら下がる数多の post を眺めてて、この話は
「入門から専門へ」という垂直方向の話ではなくて、
「冒険または探求」みたいな水平方向の話はなのでは?と
したがって、居住者は旅の経路に沿って世界を通り抜ける旅路のあいだに、みずからの進んだように知るのである。動きは、後に知識にむけて処理されるよう上方へと送られるデータを回収する地点間に生じるおまけでは決してない。動きは、それ自体で居住者が知るための方法である。
「横断する」や「上昇する」ではなく「沿って」知るという意味を伝えるような、「水平方向」と「垂直方向」と文法的に等しい単語を英語の語彙のなかに探してみた。しかし、何も見つけることはできなかった。それゆえ、私は下手な造語に頼らざるを得なかった。
居住者の知識は沿うようにして〔alongly〕統合されると言えるだろう。すなわち、垂直方向に統合された自然科学の相補性や水平方向に統合された地点の地理学の代わりに、散歩する者は沿うように統合された生世界の実践的な理解を生み出す。
こうした知識は、分類化されるのでもネットワーク化されるのでもなく、メッシュワーク化されるのである (誤読だった)
垂直でもなく水平でもなく、地べたを絡み合い彷徨うラインの話だった
教養なんてものは幻想だ。そんなものは犬にでも食わせてしまえ
なんて思ったりしたんだけど、
自分にとっては「教養なんてものは幻想」なだけであって、「教養みたいなもの」が大事な人もいるのかもしれない
そもそも「教養」とはなにか
冒険としての読書については、勝手に達人(マスター)だと思っている人がいて、
この二人に共通するところは、その圧倒的な「量」
https://gyazo.com/22816014922c36880b63391a8c69061b
点と面
飽きずに同じことができているのは、調べる場所を広げるコツを身に付けたからだ。
具体的になにをどうしていうのかというと面と点を意識しているだけの話でしかない。
点を見極める
点っていうのは調べる対象の中心のようなもので、別になんでもいい。
なんでもいい。そういうものは誰にでもあるはずだ。
どう広げていくのか
<略>
こういうふうに中心を決めてしまい、その周辺を広げていくことで、どんどん調べることが増えていき、無限に暇をつぶすことができるようになってくる。
誤読と誤認
こういう感覚を身に付けることができたのは、誤読と誤認によるところが大きい。なにを誤読したのかというと、ひとつは南方曼荼羅である。 https://gyazo.com/9a67e02269c013484974d96d9be01d42
新書を積極的に読むようになったのは大学生の頃で、知識の幅を増やすため、分野別分類が被らないように新書を十冊選び、片っ端から読んでいった。面白いと感じた新書をガイドにして、未知の分野に進出するといった方法だ。これを私は勝手に「広げる読書」と呼んでいた。これがなかなか面白く、飽きたら別の本を手に取り、また元のものを読み......と、繰り返していると延々と読めてしまう。一度に一冊しか読めないことがまだるっこしく、自分が二人いればと思うことも度々だった。
https://gyazo.com/004240805aa2974e42b7c8c05cc0b60d
彼のリブログのスタイルとまったく一緒
手当たり次第、あらゆる本を読む。すべての本を読む。辺り一面を焼け野原にしてヤツは進む 「この本、面白そう」って思ったときにはたいていすでに suyhnc が読んでる https://gyazo.com/91e788fe42ce25b589f11c4839280f79
旧約聖書20回、新約聖書 40回、法華経50回は読みました。
2年間で全部で 500冊、再読入れたら1000冊は読みました。
「奈良美智完全読本」と「奈良美智全作品集1984‐2010」にも救われました。また機会があったら更新しますね。それではまた。
https://gyazo.com/dcffd7d61ab9a059bb230784c4f7b0c5