原っぱと遊園地
原っぱと遊園地
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目次
1 そこで行われることでその中身がつくられていく建築
(「原っぱ」と「遊園地」;続・「原っぱ」と「遊園地」 ほか)
2 別々のことをしている人たちが時間と空間を共有する
(道から進化する建築;決定ルール、あるいはそのオーバードライブ ほか)
3 生活を不定形で連続なものとしてそのままにとらえる
(動線体としての生活;窓としての住宅 動線体の開きかた ほか)
4 既存建物もそういう地形とか敷地のかたちと同じである
(建築のアクチュアリティ;近代建築とグリッド ほか)
遊園地にも連れていったことがあるが、とにかくアトラクションの定められた遊び方が退屈らしい。動物園ならどうかと連れて行っても、動物には目もくれず、檻の中を掃除している飼育員さんが気になって、そこに入りたいと言って聞かない。家でもおもちゃよりも、空箱、スピーカー、タオル、絵本、コップ、スプーンなどの日常用品を重ねて置いたり、テープでくっつけたりして謎のオブジェを作ることに情熱を燃やす。三歳児の手にかかるとすべてがその元のコンテクスト(目的や機能)から引き剥がされ、まったく未知のオブジェや空間へと変容してしまう。
青木淳『原っぱと遊園地』(王国社、2004年)の概念を借りるならば、うちの三歳児は「遊園地」を「原っぱ」に変えようとしている。 青木によれば、「原っぱ」とは本来の機能、あるいは目的が宙吊りにされ、無根拠なものとして、改めてそれを使う側の人間によって作り替えられる可能性に開かれた空間であるのに対して、「遊園地」には正しい遊び方があり、それに従うのがよしとされる。従わなかったら単に摘み出されるだけだから、規範性を持つ。
子どもがある空間の目的と機能を無視して、その物理的な性質を自分の関心と興味にしたがって新しい遊び方を開発しようとする。その意味で子どもは「遊園地」の規範性から自由である。
同時に、創造的でもある。
『原っぱと遊園地』とはまたおっとりした書名である。が、これは対立する二つの建築理念の比喩(ひゆ)なのだ。
「原っぱ」とは、そこで行われることが空間の中身を作っていく建築のこと。他方、「遊園地」とは「あらかじめそこで行われることがわかっている建築」をさす。「ルイ・ヴィトン表参道」の建築家でもある青木は、「原っぱ」の典型を、同じ表参道にあって、すでに取り壊された同潤会アパートに見る。もともと住居だったはずが、ギャラリーやブティックとして使われなおした建築だ。
原っぱでは、ともかくそこへ行ってそれから何をして遊ぶか決める。特定の行為のための空間ではなく、行為と行為をつなぐものそれ自体をデザインしようというのが、青木の建築だ。そこから、文化とは、人と空間との関係が、当初の機能以上に成熟し、その関係から新たな機能が育まれていく過程のことだという文化論が導きだされる。