事実が真実であるとか真実ではないとか
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刑法230条
刑法230条には、「公然と事実を摘示し、人の名誉を毀損した者は、その事実の有無にかかわらず、3年以下の拘禁刑又は50万円以下の罰金に処する」とある。表現の自由との関連で、憲法学でもおなじみの条文である。
刑法 第230条
1. 公然と事実を摘示し、人の名誉を毀き損した者は、その事実の有無にかかわらず、3年以下の懲役若しくは禁錮又は50万円以下の罰金に処する。
2. 死者の名誉を毀損した者は、虚偽の事実を摘示することによってした場合でなければ、罰しない。
『広辞苑』によると、「摘示」とは、「かいつまんで示すこと」である。隅から隅まで逐一にというわけではなく、要点を示すということであろう。
摘示
続く刑法230条の2は、
第230条の2
1. 前条第1項の行為が公共の利害に関する事実に係り、かつ、その目的が専ら公益を図ることにあったと認める場合には、事実の真否を判断し、真実であることの証明があったときは、これを罰しない。
2. 前項の規定の適用については、公訴が提起されるに至っていない人の犯罪行為に関する事実は、公共の利害に関する事実とみなす。
3. 前条第1項の行為が公務員又は公選による公務員の候補者に関する事実に係る場合には、事実の真否を判断し、真実であることの証明があったときは、これを罰しない。
たとえ公然と事実を摘示し、人の名誉を毀損した場合であっても、一定の条件の下では、「事実の真否を判断し、真実であることの証明があったときは、これを罰しない」とする。
「事実の真否を判断し、真実であることの証明があったときは、これを罰しない」
そうしたときは、人の名誉を毀損する表現であったとしても違法ではなく、不法行為責任や刑事責任を問われることはない*1。
*1 最大判昭和61年6月11日民集40巻4号872頁〔北方ジャーナル事件最高裁判決〕。230条の2の定める一定の条件は、人の名誉を毀損する表現行為が「公共の利害に関する事実に係り、かつ、その目的が専ら公益を図ることにあった」と認められることである。違法ではないとは、そうすることには十分な正当化理由があることを意味する
JL Austin, ‘A Plea for Excuses’ in his Philosophical Papers (3rd edn, Oxford University Press 1979) 176
HLAハート『法の概念』長谷部恭男訳(ちくま学芸文庫、2014)281頁
事実が真実であるとか真実ではないとか
ところで、事実が真実であるとか真実ではないとは、何を意味しているのであろうか。事実であるのに真実ではないことがあり得るものだろうか。常識的に考えれば、事実であれば、当然真実であるし、真実でなければ、それは事実ではないはずである。
「事実が真実であるとか真実ではないとは、何を意味しているのであろうか?」
事実が真実である
事実が真実でない
おそらくこの条文では省略語法が用いられている。
省略語法
事実が真実であるか否かが問題なのではなく、これが事実だとする言明が真実であるか、つまり本当に事実であるかが問われている。真実であったりなかったりするのは、事実ではなく、言明である。
事実(だとする言明)が真実である
事実(だとする言明)が真実でない
「事実(だとする言明)の真否を判断し、真実であることの証明があったときは、これを罰しない」
さて、真実であるとは何を意味するのだろうか。直観的に広く受け入れられているのは、対応説という考え方で、言明が事実と対応していれば、その言明が真実だというものである。オクスフォードの日常言語哲学の創始者であるJ. L. オースティンは、プラトンやアリストテレスと同様、対応説の立場を支持した*2。 *2 JL Austin, ‘Truth’ in his Philosophical Papers (3rd edn, Oxford University Press 1979) in particular, 121−22.
オースティンのこの論文集の第2版は、勁草書房から邦訳(『オースティン哲学論文集』坂本百大監訳、1991)が刊行されている。
ところが、同じ日常言語哲学のメンバーであるピーター・ストロウソンは、対応説を批判する。彼によれば、「対応説に必要なのは、その除去(elimination)」である*3。 *3 PF Strawson, ‘Truth’ in his Logico-Linguistic Papers (2nd edn, Ashgate 2004) 147.
真理の剰余説、フランク・ラムジー、「言明pは真だ(p is true)」という言明は、言明pと全く同じ
ストロウソンの立場は、真理の剰余説(the redundancy theory of truth)だと言われることがある*4。「クロが犬であることは真だ」という言明は、「クロは犬である」という言明と同値であって、後者に何も付け加えていない。そうであれば、「真」とか「真実」という概念はあってもなくてもよい、単なる付け足し(剰余)だということになる、という立場である。 真理の剰余説は、フランク・ラムジーと結びつけて語られる*5。ラムジーによれば、「カエサルが殺されたことは本当だ」は「カエサルが殺された」と全く同じ意味である。一般化すれば、「言明pは真だ(p is true)」という言明は、言明pと全く同じである。だとすれば、「真だ(is true)」という語句は「明らかに余計な付け足し(obviously superfluous addition)」だということになる