「間に合った人たち」と「間に合わなかった人たち」
「間に合った人たち」と「間に合わなかった人たち」
ときどき急に、忘れてた宿題みたいに、なにかを思い出したりする
JavaScript ハンズオンを読み始めたら、なんか記憶が蘇ってきた
マイクロコンピュータもオープンソースも本流ではなくて周縁、辺境の文化だった
ここでの「マイクロコンピュータ」は PC 、 Mac 、iPhone 、 Android といった系譜を指す
そして「オープンソース」はフリーソフトウェア全般ではなく Linux 以降の動きを指す
すごくイイこと言ってた
イイこと言ってたけど無自覚なのでボヤーっとしてて引用できない
中心ではなく周縁にいた(いる)人たちの話と、歴史に「間に合わなかった人たち」の話でもある 2022/4/19
その時代だからこそ現実的に学べる技術、というものがあると思っている。
例えば自分はRuby on Railsという技術についてここ10年でそこそこ学べた。しかしこれは、それを学び始めたばかりの人でも大きく役に立てる仕事がたくさん存在していた時代に、たまたまそれに興味をもっている者がそこに居合わせたから学べたのであって、いま例えば2022年にRailsを学ぼうとしても、同じように順当にはいかないと思う。
何かこういう、いつでも漕ぎ出せるように海辺に居ながら、時流を捉えて波に乗るような、ある種のサーファー的な感覚が重要になっていて、
昔のインターネットはもっと小さかった
例えば、2007年初頭にあった Wikiばな の Wiki 小話 には後にビッグネームになるような、いわゆるロックスターのような人たちが集まっていた
この集まりが AutoPagerize の決定的な始まりになっていたんだと思ったんだけど、あとから tsukamoto サンに聞いたら、べつにそんな盛り上がりがあったわけじゃなくて、普通だったらしい
そのときに tsukamoto サンが、「あの頃のインターネットはもっと小さくて、いろんな分野のいろんな人達がクロスしていた」的な話をしていた
たとえばサブテク subtech とか
shibuya.js とか
Perl 界隈も Ruby 界隈も JavaScript 界隈もみんな重なり合っていた
当時は、Web 界隈のそういう動きの周辺にいることが「時流を捉えて波に乗るような」ことを意味していたんだと思う
物事の粒度がもっと荒かった
系統樹が時間にしたがって枝分かれ分岐して広がっていくように、気がつくと世界は分断されて全体を把握することが難しくなるんだけど、ある時点でそれは小さな芽や小ぶりな若木だったりする たまたまそういう場所、時間に居合わせることが出来るのは運だったりするんだろう(身も蓋もない言い方だ)
世界はいつでも「間に合った人たち」と「間に合わなかった人たち」に分断されている
「間に合わなかった人たち」
でも UNIX 、 BSD に対する Linux だったり、MIT 、 バークレーに対するマイクロソフトやアップルみたいに、ある意味でその場所にも時間にも居合わすことが出来なかった人たち、間に合わなかった人たちが歴史を動かしていたりする
大抵の人たちはみんな、なにかに「間に合わなかった人たち」だ
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