「バザール」と「クラブ」
「バザール」と「クラブ」
第10章 「公」と「私」をつらぬく正義 p215
こうしたバーリンの「公と私」の区分は、ロールズが「正義」構想と私的な「善」構想とを切り離すことに対応しています。両者はここで類似したモチベーションを持っているのです。ただしロールズの場合には、どうしても公共性の単位として「国家」のモデルが考えられているため、「公共的」というレベルを狭い意味での政治的なもの、つまり手続き的なプロセス(「社会契約」的なプロセス)として描きます。 そのため本章で掲げた課題 —「善」と「正義」を峻別するとき、どうやって「正義」の構想をよいものだと言えるのか、という問い — に対しては、いささか回りくどい説明を要します。そこでバーリンの文脈にひきつけてロールズを読みながら、かつ明確な「公/私の区分」を提唱しているリチャード・ローティを介して、この問いにこたえてみたいと思います。 ローティは、この二つの領域を実際に地続きでありうる現実の空間領域にたとえています。すなわち私的空間とは「英国紳士のメンバー制クラブ」のようなものであり、公的領域とは「中東のバザール」(市場)のようなものだというのです。 バザールとクラブ
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ローティの論稿「エスノセントリズムについて/クリフォード・ギアツへの応答」を「バザールとクラブ」という視点を中心に朱喜哲が解説。
この「バザールとクラブ」の挿話は、哲学者リチャード・ローティ(Richard Rorty, 1931-2007)の代表的な主張「公共的なものと私的なものの区別」を論じる際、必ずといってよいほど参照されるものである。 ただひとつの「公共空間」であるバザールと、それをとりまく無数の「私的空間」としての会員制クラブとが地続きに隣接している―という、この空間的・地理的なメタファーはローティが思い描いている政治哲学的な構想をうまく描出している。そのため、ローティを紹介する際によく言及されるので、聞き覚えがある方もいるかもしれない。しかし、じつはこの比喩が登場するオリジナルの論文には、日本語訳が存在していなかったのである。そのため、この比喩の前後や、どんな文脈で登場するのかは、意外なほど知られていない。
ところが、こうした関心からすると、論文だけを読んだ場合には、一読して期待外れであるという印象をもたれてしまうかもしれない。というのも、本論文で「バザールとクラブ」が登場するのは、最後の二段落と一文に過ぎず、分量としても全体の一割強しかないのである。当該箇所じたいは興味深く読めるものではあるが、何しろ「公/私の区別」という主題それじたい、明示的には最後の四分の一程度でしか論じられていないのだから、肩透かしを感じられてしまうとしても無理はない。
しかしながら、一読だけではわかりづらいのだが、わたしの考えでは、本論文は、全編を通じて、この「公/私の区別」というローティの論点が散りばめられた論文として読むことができるのである。ただし、それには本論文が置かれている論争の文脈を補い、登場する話題やキーワードについて理解する必要がある。
よい/わるいエスノセントリズム?―リチャード・ローティの所論を読む
新潟大学教育学部研究紀要 13(2) 237-246 2021年2月
エスノセントリズムの何が問題なのか?―クリフォード・ギアツの所論を読む
新潟大学教育学部研究紀要 14(2) 203-214 2022年2月
エスノセントリズムの効用?―「ギアツ-ローティ論争」が教えること
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