2024年正月休みの読書
2024年正月休みの読書
正月休み明け、いきなりインフルエンザでぶっ倒れていたけども、そんなでも読書はそれなりに進んでいるので2024年正月休みの読書をまとめておきたい
下巻ほぼ読み終わる寸前までいったけどそこで脱線が始まった。Dub みたいにエンディングを引き伸ばしている
https://gyazo.com/29d86d7b2e51da07cfc7be6c879cc911
自然の切り取り方には多くの方法がある。そして切り取られたものはそれぞれが異なった相を見せている。
アリストテレスはどこに切れ目を入れたのだろう? どのような科学を作り出したのだろう?
これは偶然、本当にたまたま
https://gyazo.com/f3c0618ff3004dd9819951f77d0d4087
なによりもまず、世界が分節化されていなければならない。
われわれはすでに分節化された世界に生きている。分節化されていない世界とは、いわば徹底的な抽象画の世界にも喩えられるだろう。そこでは、あらゆる対象の輪郭が失われ、それら対象がもっていた意味も消え去る。そんな世界。
でもほとんどなにが書かれているのかは理解できない
で、言語哲学というものがあるらしいというのがわかったので同じ作者のこれを買う
ウィトゲンシュタインとかえらいところまで飛ばされる感じだったので早々に退散する
で、アリストテレスが自然を切り取るための道具として演繹と帰納が出てきてたので、これはきっと論理学の話だろうと思って同じ作者のこれを買う だがしかしいわゆる演繹の方しか載っていなくて、どうも帰納法というのはちょっと毛色が違うらしい、というのを知る
自分が知りたいのはどちらかというと帰納の方だった
つまり真理がなにかわからない状態の中で真理を探すというときの道具は演繹ではなくて帰納だろうという直感から
たぶんダーウィンが進化論を見つけたのも同じ方法だと思う これは2023年の夏に読書を取り戻そうとしていた頃に本屋でたまたま手にとって、パラパラっとめくった目次に「帰納」「信念」「自然の斉一性」っていうキーワードが並んでいたのを覚えていて、それで買った
作者がこの本で扱うのは「経験」「帰納」そして「未来」(序章「本書の構成」)
「経験」はヒュームの知覚論の話(脱線)
印象: 感覚の「印象」、反省(情動、情念)の「印象」
観念: 記憶の「観念」、想像の「観念」
想像の「観念」: 信念の「観念」、空想の「観念」
https://gyazo.com/5c9b11f37a77c9c5d368635b99d2c8ea
どうも、帰納というのはそんな生半可なもんじゃない、らしい、ということだけ理解する
いきなり本丸みたいなところに切り込んでしまったみたいなのでちょっと引き返す。科学哲学という分野を知る
ここまで来てちょっと落ち着いて考えてみる
2024-01-17
もともとは「分節」と「帰納」っていう、それぞれ別々のキーワードを追っていたんだけど、どちらも「哲学」の話なのと、急に難しい言葉や概念を頭に詰め込みすぎて、もともとなにを掘っていたのかわからなくなっていたのかもしれない
重心が「帰納」の方に偏ってしまっていた(すごく面白そうだから)
そもそもが「境界」の話だったわけだから、重心を掛けるなら「分節」の方だと思う
言語哲学だな、たぶん
科学哲学という分野よりも言語哲学という分野の方が狭い感じに見える(簡単だとは言っていない)
さらにもうちょっと考えてみる
2024-01-20
少し立ち戻ってみると、一番最初にガツンときたのは
世界は分節化されている
というパンチラインで、これは野矢茂樹『語り得ぬものを語る』に載っていた、ウィトゲンシュタイン『論理哲学論考』の話から来ていて
世界は分節化されている、ということの意味は、
世界は「対象」と「概念」という「要素」に分節化されている
という意味で、その例は次のようなもの
〈あの犬は白い〉という事実は〈 あの犬〉という「対象」と〈白い〉という「性質」に分節化されている
〈机の上にパソコンがある〉という事実は〈その机〉と〈 そのパソコン〉という「対象」と〈 … の上に … がある〉という「関係」に分節化されている
ということで、先ず読むべきは野矢茂樹『語り得ぬものを語る』で、進むべき方向はウィトゲンシュタイン『論理哲学論考』かも
いったいなにを言っているのか
2024-01-22
端折ると、
「言語哲学」(フレーゲとラッセル)をその起点から現在まで追う方向(過去から現在へ)と
(過去から現在へ)と(現在から過去へ)の二つの矢印がある、ということ