日記のことを思う
思考をクリアにするために、文章に落とし込む。無意識にやっていたが、確かに自分もそうだった。その過程で削ぎ落ちてしまうものがあり、それが良くも悪くもだった。
書く過程で、削ぎ落としてしまうものがある
思考をクリアにしたつもりが、文章に落とし込むことで凝り固まってしまう、ということもあった。書いてしまうことで、そうとしか見えなくなってしまう。
書いてしまうことで、そうとしか見えなくなってしまうものがある
ただまあ書くことが自分に向き合うことというのは、ある意味正解だと思うけど、同時に目を背けることでもある。書かなかったことが、なかったことにされてしまう。
書かなかったことで、なかったことにしてしまうものがある
「ほぼ日付だけしか書いてない」っていう日記の時もあって良い
日付しか書かれていない日記
木曜日には決まってかかれる言葉がある。「木曜日なので、夜、実家で食事」。三年間なので約150回の「木曜日なので」が並んでいる。
「木曜日なので」
木曜日の夜、会社帰りコンビニで食事を買い実家で食べ、別になにを話すわけでもなくテレビを見て、そして帰る。日記にはそれ以外のことは書かれなかった。何を食べたか、何を話したか、何のテレビを見たか、どんな表情だったか。全ては余白に隠れている。
それ以外のことは書かれなかった
全ては余白に隠れている
フェイクまみれのタイムラインに辟易とすることもあるけど、Stravaのタイムラインを見るとどこか安心する。
自分の中には生を実感したい欲望と、それを他者と共有して共感を得たい欲望があるみたい。
生を実感したい欲望と、それを他者と共有して共感を得たい欲望
前者を後者に移行する時はどうしても大部分の情報が欠落してしまうので、上滑りしているように感じることがある
欠落してしまうもの
インターネットでは共有できるものはなんでも共有される
なんでも計測できるインターネットにおいて、数字とは力であり、その傾向はソーシャルメディアの普及によってますます加速した
数字は力である
テキストサイトのカウンターにはじまり、ミクシイの友達の数、GREEの友達からの紹介文の数(覚えてますか)、ブログのPVやUU、Twitterのフォロワー数、リツイート数、Facebookのいいね数、YouTubeの再生回数などなど
焦点距離、光の量、そしてピントをあわせる変数がある。変数の値を決めることは、なにを見るのかを決めること
写したものよりも、写さなかったことのほうがリアル
https://gyazo.com/eacbb45a57dec5d98c132bae74d12f4a
今、書きたいことを書けばいい。書きたくないことは書かなくていい。ほんとうのことを書く必要もない
https://gyazo.com/aeb5d4c45fc96ec847d052297d538bd9
「なにを書くか」より「なにを書かないか」なんじゃない?
「火曜日、記すべきことなし、存在した。」
記すべきことなし
正直な話、 URL があればだいたいなんでも日記になります