修身教授録
日付:191105
選んだ理由:feedlyの記事で、こちらの本を座右の書として紹介している方がいたため。
学び:教育者には必読の書ではないだろうか。近年の精神の後退を取り戻すことができるかもしれない、熱意にあふれる書物である。
ーーーー
好悪を考えない、身に起こることを受け入れる感覚
父兄達の社会的階層は千差万別
卒業を目当てにして、形式的な勉強だけで十分と考え、自己を人間的に成長させることを考えない限り内面的にはすでに下り坂にある
四十にして仕う
真に教育者の名に値するような人々は、超凡な大志を抱きながら、いろいろと世間的な事情によって、それを実現する人をしない立場に立つされた人傑が、現実的にはそれを断念するとともに、どうしても自分の志を門弟子を通して達成せしめずにはおかぬ、という一大願を起こすところに、初めて生まれるもののようであります 自己の天分
自分と言うものを超えた、ある何者かに、自己を捧げると言う気持ち
1人の人間が自己に与えられた職責に対して、心に深く徹して行ったならば、その足跡は必ずや全国各地の同じ道を歩んでいく他の人々の参考となり、その導きの光となるはず
読書は心の食物である
我が心を養い太らせてくれるものであれば、人生のいろいろな経験は全て心の食物と言って良い
世間で篤農家とか精農と言われるほどの人物は、ほとんど例外なく、非常な読書家だということです。 人を知る標準としては、
第二にはその人がいかなることを思って自分の一生の目標としているか
第三にはその人が今日までいかなることをしてきたか
尊敬するに足る友人とは結局は道の上の友と言うことでしょう
結局は、師を共にする場合が多い
身内については敬称をつけない
真の英知とは、自己を打ち超えた深みから射してくる光であって、私たちはこの光に照らされない限り、自分の真の姿を知り得ないのであります 自己の生涯をいかに過ごすべきかに考え至らないとしたら、本質的には禽獣と、何ら異なることのないものである
人間は、自分1人の満足を求めるちっぽけな力を徹底的にかなぐり捨てる時、かつて見られなかった新たな希望が生まれているものです。
真に国家の前途を憂える教育者は、どうしても常に、20年、30年先の国家を考えていなければならない
明治以降、国民教育の制度が完備するに至って以来、かえって私たちは、国民教育者として、身を持って一道を切り開いた1人の巨人を知らないのであります。 組織の力が強くなりすぎている?制限、要求が多すぎるのかも。 大志を抱けない限り、その前途は、結局は一個のサラリーマンとして、子供たちのお相手係りを務める程度を脱することはできないでしょう。 わが国の教育が、かように一斉授業にとどまる限り、真の教育として人を植えると言うような事は、実際にはほとんど不可能というに近い 真に人間を植えるには、有為の少年を選んで、これに正しい読書の道を教え、それによって各々その職分において、一道を開くだけの信念を与えなければならない 血と育ちを克服するには、5年や10年以上の修養が必要
今日の若さからそれと気づいて、賢明な覚悟を持って、これを除去するに着手しなければ、到底これを解き清めることができない
精欲(液)を漏らすことは、それだけ生命を失うことでり、死への接近に繋がる
精液
仕事の処理:仕事が精神の修養。一生懸命、すぐやる。 形を揃え、整えることに意味がある
内容が同じでも、不揃いなものより、揃っているものが価値が高く、尊ばれやすい
メモではなく、全集にしておく
卒業論文など
小学校教師
苦しみにあって自暴自棄に陥る時、人間は必ず内面的に堕落する。 同時にその苦しみに堪えて、これを打ち超えたとき、その苦しみは必ずその人を大成せしめる 教師に志が立っていない
火のついていない炬火(きょか)で、たくさんの炬火に火を付けようとするようなもの
人間は、真に生ききったとき、そこには何ら心残りはないはず
それは一面からは悲壮の極みとも言えるが、同時にそれは、人間の生き方としての最高の燃焼度に達した生き方でもある
純粋に御奉公というと、死後の御奉公の外ない
生きている間は、死後の御奉公のための準備をしているようなもの 教育の究極目標は、これを一言で申すれば、自分の受け持っている子らの一人ひとりが、すべて次代を担うかけがえのない生命だと言うことを、単に言葉の上だけではなくて、身に染みて痛感することである 自分の受け持つ子供達の一人ひとりの個性を発揮させることを通して、国家社会のために有用な人材にまで、育て上げる 生徒達一人ひとりを、一個の生きた魂としてかき抱く
親の身としては実にかけがえのない大事なお子達だということが、真に実感としてわかる
子供達一人ひとりが、やがてはこの国家を担う大事な一人ひとりだということを、骨身にしみて感じること
ーーーー
一度真の志が立つならば、それはことあるごとに、常にわが念頭に現れて、直接間接に、自分の一挙手一投足に至るまで、支配するところまで行かねばならぬ 真実に心に願う事は,もしそれが単なる私心に基づくものでない以上、必ずやいつか何らかの形で成就せられるものであります
仮にその人の肉体が生きている間には実現せられなくても、必ずやその死後に至って実現させられるものであります 生きているうちに神でない人が、死んでからといって、神に祀られる道理はない。それはちょうど、生きているうちに鰹でなかったものが、死んだからといって、急に鰹節にならなぬのと同じだ 諸君らは、誓って死後にも生きるような人間になろう、と言う大志を立てたことが、果たしてあるといえますか。
このような志が真に確立しない限り、諸君らは心に深く自分の生命を愛惜するとは言えないでしょう。
どちらも話さないでいると、肉親の間でありながら、いつしか理解が妨げられがちなものです。
大抵の事は多少の例外があるのですが、この人生に1度なしと言う真理のみは、古来ただ1つの例外すらないのです 今この世において、最も惜しまねばならぬ自分の生命に対しては、それほど惜しまないと言って良いのです
内面精神においては、一切の世俗的な制約を超えて、高慢な識見を内に蔵をしていなくてはならないのです.
すなわち外なる世俗的な約束と、内なる精神とを混同してはならないのです
われわれ人間は、普通のままに放って置かれるれば、自分の生命に対して愛惜の念を起こすようになるのは、まず人生の半ばを過ぎてからのことであって、普通にはまず40歳前後からと言って良いでしょう。 しかし人間も40になって初めて人生に対して愛惜の念を起こしているようでは実は手遅れだと思うんです
そもそも真実の教育と言うものは、自分の失敗とつまずきとを、後に来る人々に、再び繰り返さすに忍びないと言う一念から起こると言っても良いでしょう. 教育者はなによりもまず自分の過去の過ちに対して、痛切な反省と懺悔とがなければならないでしょう。同時に、我が歩みしがごとくに我に従えと言う立場には、真の愛とか慈悲とかいう趣が伴わないと言っても良いかと思います。 この二度とない人の世に生まれてきて、しかも人間の魂に近くの火をつけるべき教育者の道を選びながら、たかが中等教員(高校にあたる)の免許状を1、2枚取ることくらいに、教育者としての最高の目標を置き、それが終生の目的というんでは、情けないという一語の他言うべき言葉を知らないのです 古人は学といえば必ず聖人たらんことを志したものです 明治以後、教育が学校教育になってからは、我が国の教育は、その伝統的な深い精神力を失ってしまったようです 人間の偉さ
次にはその情熱を徹頭徹尾浄化せねば已まぬという根本的な意志力である 情熱のない人間はいわば木偶の坊である
内なる情熱の枯れ果てた時その進行は止まるのです
その時人間は生きながらミイラとなり文字通り生ける屍となるのです 教師というものは、とかくこういう種類の人間になりやすいものですから、お互いに深く注意を要すると思うのです
情熱というものはまずものに感じるという形をとって現れるもののようです
したがって感動とか感激とかいうものはその人の魂が死んでいない何よりの証拠です 感激できるうちはその人の魂が死んでいない何よりの証拠です
自分の情熱を深めていくには、偉人の伝記を読む、あるいは優れた芸術品に接するのがよい そしてそれを浄化するには宗教および哲学が大いに役立つものです
人生の正味と言うものは、まず30年位のものだと言う意味です
物事を成し遂げるのに集中して30年取り組めばなすことができる
長所と短所:外面的な事柄(知識とか技能など)については長所を伸ばす方が良い 第二の伝記を読む時期は第1期のようないわゆる偉人の伝記というよりも、もう少し自分に近い人々の伝記が良いと思います いわば凡人の伝記と言ってもいいでしょう
すなわち人生を深く生きるということは自分の悩みや苦しみの意味を深く噛み締めることによって、かような苦しみは必ずしも自分一人だけのものではなくて、多くの人々が等しく悩み苦しみつつあるのだということが分かるようになることではないかと思うのです
一時一事
一気呵成
三昧あるいは没頭
自分のやりたいことはすぐにやる
夢中になる
最後までやり抜く
他の宗派のことを悪く言うこと
一つの学派の創始者と言われるような人は人間のある共通的な形の代表者
他の宗派はどうも自分のような者にはしっくりこない、と言えば良い
他の宗派を否定せず認め、自分と合わないことを述べればよい
忍耐
常にここだここだという意識がなければできることではない
学生生活というものはその根本が元来受身的なもの
実業界などで腕一本で叩き上げた人と比べて、いわゆる学校出というものがどこか鍛えのかからぬと感じがするのもこのゆえでしょう
人間は学校だけではなくその他の時間によって鍛えられる
読書と実行によってよりよく深みのある人になれる
個人の書き残したもの並びに生前故人と親しかった人々の個人に対する思い出などをかき集めてそれを何らかの形で印刷して故人の生前を知っている人々の間に頒布するということであります
教え子がどういう風に育っていくかというところに物質では求められない深い楽しみがあるわけです
求めてやまない心
教師というものにはだいたい3段階ある
在校時からすでに生徒の信頼のない教師
次は学校にいる間は生徒の信用する教師
卒業後自分たちが現実の人生にぶつかるようになって初めてその進化が分かりだししかも歳とともに次第にその値打ちが分かってくる教師
自分の内の、求めてやまない心の自ずからにして描く波紋のようなもの
常に肉体の欲に打ち勝つ心がけが大切
単なる素質というものは、例えば刀の材料としての砂鉄としての性能はいかに優秀だったとしても、それでもって敵を切るわけにはいかないでしょう つまり敵を切るにはこれを鍛えた刀とし、さらにはこれを研ぎさらに鍔(つば)をつけて鞘に入れなければ、これをもって敵を斬り、刀としての威力を発揮するわけにはいかないでしょう
120点主義
常に自分の限界の2割3割増しの努力をするつもりでいること
そのためには時間の無駄をしないこと
礼というものはちょうど伏せっている器を仰向けに直すようなもの 年長者に何の会釈もしないで通るということは真の教育的精神が充実していない何よりの証拠
真の大往生
今日1日の大安眠を得るほかはない
ただ今日1日の予定の仕事を切り上げて絶対に明日に残さない
行なって余力あらば文を学ぶべし
何よりもまず自分の仕事を果たすその上でなおゆとりがあったらそこで初めて本を読む
実際には仕事をなるべく早く切り上げて自分の欲を満たして大いに読書につとむべきでしょう
学校教育今日我が国の義務教育は言うまでもなく国民全般の教育であってそこには貧富の差はもとより素質の良否なども一切問わないのであります
従って現在の義務教育には古い聖賢たちのかつて相手にしなかったような貧しいもの愚かなものも混じっているわけです 徳川時代の終わりまで行われてきたいわば英才教育に対して全く新たな様式が始まったといってもいいでしょう