五色分心分界論の正體と、そして生存の爲の修正
五色分心分界論は、私の精神の働きに法則性を見出さうとして構成された物だが、其れが運用された時系列と其れが構築された時系列は錯綜してゐる。 何となれば、構築は常に過去の精神の働きを囘顧する形で行はれたからである。「あの時はかう考へたのだらう」を重ねて遡って行き、「あの時」には未だ見出されてゐなかったエンティティーを想定して行くので、私の精神現象其の物の時系列と私の精神現象に對する解釋の變遷の時系列は出鱈目に成って了ふ。
ここから下は勢ひで書いた書き毆り。
書き毆る。
示唆があった。
樂園と泥濘とは、實は變化したくない心を二つに分かった物ではないか。
分心と分界との關係。
分心の主張が喰ひ違った時、どれかの分心に從った選擇を爲すと、其の分心に照應する分界を步む事に成る。
獸の心に從った選擇をすると、泥濘界を步む事に成る。
擲つ心に從った選擇をすると、樂園界に到る事が出來る。
五色分心は其の成立の際、確かに、私の精神の判斷が分裂する現象を分析して見出だした物であった。
しかし、五色分界は世界を分析して一度に見出だした物ではない。
先づ、帝國と文明があり、其の到るべき目標としての樂園が槪念として立てられた。
帝國と文明に對立する物として、社會が立てられた。
最初の五界は(社會)-(視座者を含む「世界」)-(帝國)-(文明)-(樂園)であった。
社會と文明の對比は、即ち、獸性と神性の對比であった。
落ちから書く
中央に座する「世界」乃至「人の世」は、其の圖中の位置に描かれてゐるにも關はらず、其の正體は謎であった。
其處は觀測者から見て環世界の正反對側、裏側であり、本影であり、影に隱れて見えない盲點であった。
最初は、評價される前の生々しい物理現實としての世界が其處にあるとか、或いは、社會とも文明とも分化しない何らかの人の營みがあるかの樣に思はれてゐた。
しかし、其處には實は、何も無いのであらうと思はれた。最初から無かったのではなく、失はれたのである。
私は、根源として持ってゐた願ひ、綠の心、留まる心の願ひである
「變りたくない。此の儘でゐたい。何もしたくない。」
を、社會に適合する爲に打碎く必要に迫られ、其れを半分づつに切り分け、一方を樂園界として、一方を泥濘界として、天球の右端と左端に置き、「變化しなくては、泥濘に吞まれる。變化を遂げる事で、樂園に入れる存在と成れ。」と自らに命じたのである。
此れは、ピラミッドの喩へと符合する理路である。ピラミッドを高く積み上げよ、永遠のファラオと成れ、と云ふ事である。
此の世界解釋の試みは、適切に用ゐられる事で私の人生に可也の利益を齎して來た。
若し此の變容(さっきから變容と書いてゐるが本當は變容ではなく恐らく「成長」と書くべきなのだらうと云ふ氣がするが、同時に此の「成長」と云ふ語への忌避も感じてゐるので今は書き換へない。)此の變容がなければ、大學には受からなかっただらうし、國家試驗にも合格しなかっただらうし、其の後の業務に纏はる學習も爲されなかったであらう。
しかし、私は、此のピラミッドを幾ら高く積み上げた所で、永遠の女王としてエジプトに君臨する事は出來ない事を已に知って了った。
精々が、生活資金に幾らか餘裕のある老人にしか成れない。仕舞には屍體である。
新たな變革が迫られてゐる。
樂園界の救濟を盲信し、泥濘界のゴミどもに唾を吐き、天の左から右にゐたる盲目の奔流に身を委ねてゐれば何時の閒にか階梯を登ってゐると云ふ樣な人生の段階はもう終って了った。
樂園と泥濘は、實は元は一つであった。其れは綠の世界、何も變る必要の無い、對價と報酬も貢獻と恩寵も無しに求める物が全て豫め與へられてゐる不動のアアルの野であって、失はれた安寧である。
昔、後輩に學習のコツを問はれた時「自分が如何に何も解らない愚かなゴミなのか知り、絕望しろ。自分に絕望出來ぬ者に學習も復た出來ない。」と述べて顰蹙を買ったが、此れは詰り自分の安住する世界を叩き割り、敗北者と勝利者の住む世界を分かち、其の閒に引かれた矢印の上を走り始めろ、と云ふ事だった。
そして其のマラソンは、實はさう長く續けられる物ではなかった。