自転車と与太話。
さいきんは自転車生活もすっかり板についてきた。
知り合いから安く譲ってもらったのがキッカケではあったのだけど、実際にライフスタイルの中に組み込まれてみるとそれは便利で。都心と言えど、意外と電車ではアクセスがしづらいような場所も多い。自分の場合で言うと、ある職場は自転車で行けば15分なのに、電車で行くと45分かかる。案外都心というのはまだまだ最適化されていないのだ。
そういった『微妙な場所』にアクセスするのに自転車はとにかく便利だ。最近はメッセンジャー(重要書類を即日で届ける仕事)をしている友達もできたのだけど、彼も自転車を使っていて、体力さえあれば(都心においては)案外自転車が最適解なのかもしれないな、とも思う。そんな自転車なのだけど、僕が様々考えてくる時の比喩や象徴として割と使われることも多くて。今回はそんな話を散文的に。
自分にとって自転車は、行動量という概念と割と結びついているようだ。行動量が増えていくことを、自転車のスピードで表現している。これらはパズルと圧縮の裏側として描きたくなった概念のように思う。 自分は1つの物事だけに集中するのがなかなか難しいタチで、それ故に色々なことを同時並行的に行なっている。そしてそれらも少しずつ慣れてくると諸々のリソースが『圧縮』されて、また自分の中に余剰が出てくる。そしてその余剰に、また何かを組み入れていく。そんなことをパズルと圧縮と呼んでいるのだけど、これは諸刃のつるぎのようなもので、そういったことを書いたのが、先にあげた2つの文章なのだろう(断定でないのはその時にここまで位置付けていたわけではないから)。
ところで自転車を漕いでいると、様々な時空間から浮遊しているように感じている。僕らは普段、徒歩か車で移動することが多いと思うのだけど、そのどちらでもない、というと当たり前なのだけど、徒歩と車の間を揺れ動いている、そんな風な感じ(因みに話は逸れるが、電車については、アレは明らかに感覚的には"立ち止まっている"よなと思う。アレは移動ではない何かだと思っているが、それが何なのかはまだ分からない)。
ユクスキュルは環世界という概念を提唱していて、それは各生物にはそれぞれ違う感覚器官があるから、それぞれが認識している世界の在り方は、その生物によって全く違うのだという考え方なのだけど。自転車になっている時には、独特な感じがあって、徒歩と車の間を架橋している、言い方を変えるならば揺蕩っている様な、そういった時空間を認識している。具体的には道路を走っている時には車と同じか少し遅い感覚、歩道を走っている或いは降りて歩いている時は歩行者より早いもしくは同じ感覚。時には車と同じ速度で走りながら、時には車には通れない隙間をするすると抜けながら、かと言って車のスピード性能に拮抗しているわけでもなく、でも交通ルールにおいては『歩行者』に成り代わることですり抜けることもできる。 上手く言語化できず歯痒いのだけど、これは『中間』ではなくて、『揺蕩っている』という感覚が近いのだ。もちろん自転車が法的には軽車両であることは知っている。だが、明らかにそうじゃないよな?という意見は、普段自転車に乗る人ならば誰しも理解してくれると思う。ここで一つ、自転車は時空間からも、そして法律からもどこか浮遊している特異的な存在であると、解釈することができる。
そういったことを考えていると、自分自身も少し浮遊している存在だと思えてくる。そんなことを言うと厨二病みたいなのだけど、実際に厨二病なのだから仕方がない。まあそんなことは置いておいて、今の自分の労働環境などに目を向けてもそう思う。会社員ではあるのだけど、会社員の収入よりも業務委託の報酬の方が多い。住所はずっと地元の岩手にあるけど、かれこれ4年近く東京に住み続けている。土日や祝日にも休みはあるけど、基本は人が少なく快適な平日に休みを取ることが多い。だから自分も自転車みたいなものなのかもしれないな、と思うのだ。
イギリスのジャーナリストであるグッドハートはsomewhere(「どこか」の地域に根ざして移住して生きる中低所得な層)の人とanywhere(仕事さえあれば「どこでも」暮らせる高所得)の人と分けたが、高所得でもない自分だけどanywhere的な生き方をしているとも言える?のかもしれない(これは関係人口の内容、或いは著者自身の境遇や、自分が書いたコンビニとドングリ。(仮)とも少し近いのかも?)。それは多分、自分がゲルナーの言うところの高文化的な特徴を逆手にとって、良い取りをしている結果なのだろう思う。ゲームでいうところのバグ技を使いまくっている人生(この辺の話はおそらく裏道を行く的だ)。 話の落とし所が分からなくなってきたのでそろそろ終わることにしようと思うけど、自分の最近の興味は多分こういった(概念的な意味で言うところの)自転車にあるのだと思う。保存食という農耕を中心とした生き方と野営という遊動民的な生き方。それらの境界、隙間に目を向けたり、浮遊や揺蕩うというという行為を意識してみたり、そこから見える解決策、例えばサブシステム或いは冗長性あるいは"あそび"的なもの、もしくはオルタナティブを模索してみたり、そういったことが関心としてあって、それらが完全にバラバラになっているところを一旦繋ぎ止めるための一つの糸として、今回自転車について書いてみたのだ、と思う。 (以下メモ)----
リニアな時空間から浮遊しているような感覚。
それぞれの
①
自転車と時空間の話
②
概念の話。
車でもなければ徒歩でもない。
労働の話
③
これってトランプ現象、ナショナリズムの復権的にも言えるよなあ。イギリスのEU離脱からも読み取れると言うのは確かにあまり考えていなかった。っつかブレグジットってそう言う意味か、w