知的生産とは造語である
以前「知的生産とはなにか」を考えていて、「造語である」との結論になったことがある。
こういう話は議論自体滅多に行われないが、先日/nishio/造語は知的生産ではないが出た。
nishio.iconさんの意見整理
造語が知的生産ではなくて、知的生産してて有用な概念が出てくる
その概念を扱うために名前をつける(造語)
名前のついたその概念が他の人も使われていくことで有用性が証明されていく(社会的証明)
「概念」だと広すぎる
どういう概念が有用なことが多いのかをもっと詳細化した方が良いと感じた
概念をつくること自体は別にむずくない
概念を作ることも全く難しくない、たとえば「10進表記を逆順にすると平方数になる数」を「逆平方数」と名付けることができる。あまり有用ではない。
僕自身はどう捉えてるか改めて考えてみたsta.icon
その上でnishio.iconさんとの違いを整理したい。
営みとして以下二つがあると思う
1 名無しの概念を捉える(仮にCapture
2 それに名前をつける(仮にNaming
どうも僕は1+2を造語と呼んでいる
なので「10進表記を逆順にすると平方数になる数」を「逆平方数」と名付けるは「Captureの対象が甘い」感じ
つまり、
知的生産とは有用な知をつくることである
ここまではたぶん共通している
では造語は?
ここが違う
nishio.iconさんの「造語」はNamingなので、しょうもない対象に名前つけたところでしょうもないよね → 有用とは限らないよね → 造語は知的生産とは言えないよね
sta.iconの「造語」はCaptureも含んでいて、有用な対象を選ぶところも含んでるので造語も知的生産である、というより造語こそが知的生産である、となっている
さらに言えば、sta.iconは「僕は有用な対象を選べる天才」だと思っている(今のところうぬぼれだけどw
しかし知的生産という意味では、言うまでもなくCapture & Namingよりも手を動かして仮説検証した方が良い
前者は頭でっかち
僕も本当は後者になりたいけど、能力とモチベがない
特に人を巻き込む(社会的な活動)部分が向いてなさすぎてくじけてしまう
なので前者で済ませられないか、ともがいている
前者でこねたものを、後者できる人に丸投げしてあとはよろしくーでメシ食えないかとか
あとは知的生産の定義にも違いがありそう
nishio.iconさんは「有用」と表現している、役に立つか
sta.iconは「有益」と表現することが多い
有用も含む
他も含む、たとえば「楽しめるか」「浸れるか」「うっとりできるか」
最近はこっちに振った方がいいのでは、とも思ってる。芸術とかsta.icon*2
以前も「知的生産は発明と哲学の間」と表現したりしてた
あるいは場と体験の演出
例: SFプロトタイピング
「概念」の詳細化
nishio.iconさんの「切り口」 /nishio/切り口
少しやってみるかsta.icon
課題:当事者が認識してる
問題:当事者が認識してない
研究者の腕の見せ所でもある。問題を探すとか設定するとも表現される
たとえばRemotism Bookでは「コミュニケーションという営みそのものの限界がある」と定めた
制約
文化、メンタルモデル、ルールやガイドライン、システム、道具 etc
たとえば日本人の「ネガティブフィードバックは1対1のクローズドで、間接的に行う」も制約
異文化理解力では「間接的なネガティブフィードバック」と名付けている
構造?
「人」や「生物」を概念にしていいかは迷ってる
nishio.iconさんという生物にnishioという名前がついてる、sta.iconという生物にstaという名前がついてる
別の名前をつけてもいい
sta.iconを「頭でっかち」と名付けることもできる
概念 = 名前をつけることのできる対象?