日本の情報産業論と未来学の年表
healthが趣味でつくってほったらかしている未来学についての年表の抜粋 1960年5月 5月11日から16日まで、東京の産経ホール等で「世界デザイン会議」が開催される。この会議のプランニングに関わった建築家(浅田孝、菊竹清訓、黒川紀章、大高正人、栄久庵憲司、粟津潔、槇文彦)、建築評論家の川添登が建築の将来について語り合うグループを結成、世界デザイン会議でこのグループは「METABOLISM/1960 - 都市への提案」を発表、メタボリズム運動の最初の宣言となる。世界デザイン会議は浅田孝が組織・事務局長を務めた。 1963年3月 『放送毎日』に掲載された梅棹忠夫「情報産業論」が改稿され、『中央公論』に転載される。「情報産業論」は話題になり「情報」が注目されるきっかけとなった。
1963年5月1日 加藤秀俊が中公新書から『整理学-忙しさからの解放』を出版する。 1964年 国際軍縮平和連盟(the International Confederation for Disarmament and Peace, ICDP)第一回会議が開催される。そこでRobert JungkによりMankind 2000(人類2000年委員会)が開始される。
Robert Jungkが未来問題研究所(Institut für Zukunftsfragen)を設立する。
1964年1月 『放送朝日』で座談会「情報社会のソシオロジー」が掲載される。ここで初めて「情報社会」という呼称が登場したとされる。その後梅棹忠夫は連載「情報産業論の展開のために」を開始し、「情報産業」、「情報社会」という新語を普及させたとされる。 1964年7月初め 「万国博を考える会」初会合が行われる。小松左京のほか、梅棹忠夫、加藤秀俊、「放送朝日」編集長の仁木鉄、朝日放送営業のY氏が参加。「万国博を考える会」は未来学研究会となった。
1964年秋 浅田孝、川添登、山家(?)が万国博大阪誘致のための会場の利用計画立案を行う。 1965年3月7日 「万国博を考える会」第二回が大徳寺大慈院で開催。梅棹忠夫、小松左京、加藤秀俊、水谷頴介、仁木鉄のほか、当時衆議院議員だった宇野宗佑が参加。
1965年9月 万国博の日本開催が正式に決定される。当時すでに会場は千里丘陵と決定されていた。 1965年12月 万国博の会場基本計画委員会が最終的な基本計画を作成する。飯沼一省を委員長に、東大の丹下健三、京大の西山卯三が委員を務めた。 1966年 社団法人「科学技術と経済の会」が発足する。ここでの議論が林雄二郎『情報化社会』着想の土壌となった。 1966年4月 『20年後の日本:豊かな国民生活への一つのビジョン』が、林雄二郎を中心としたビジョン研究会編集で出版される。日本生産性本部が発行。
1967年 ハーマン・カーンがアンソニー・J・ウィーナーとともに「The Year 2000 A Framework for Speculation on the Next Thirty-Three Years(2000年:今後の33年を推測する枠組み)」を出版する。シナリオ・プランニングが一般に普及する。
1967年6月26日 川喜田二郎が中央公論社から新書『発想法 —創造性開発のために』を出版する。
1967年9月 オスロでMankind 2000(人類2000年委員会)、オスロ国際平和研究所(PRIO)、未来問題研究所(Institut für Zukunftsfragen)により第一回国際未来学会議が開催される。日本からは林雄二郎と加藤秀俊が参加した。次回の国際未来会議を日本で開催することが決定され、日本未来会議発足のきっかけとなった。 1967年4月30日 小松左京編集による書籍『シンポジウム未来計画』が発行される。小松左京、加藤秀俊、川喜田二郎、川添登によるシンポジウム。 1968年 増田米二が『情報社会入門』を発行する。増田による「情報社会」を直訳した“Information Society”が国際会議等で海外に広まったとされる。 1968年1月 香山健一が『情報社会論序説』を発行する。ダニエル・ベルやハーマン・カーンが「脱工業社会」と読んだものを「情報社会」と呼んだとされる。 1968年7月16日 日本未来学会発足。初代会長は中山伊知郎。発起人は大来佐武郎、丹下健三、今西錦司、浅田孝、平田敬一郎。国際未来会議を日本で開催する受け皿として設けられた。未来研究会が母体。
1969年 林雄二郎『情報化社会:ハードな社会からソフトな社会へ』が出版される。10万部以上売れ、「情報化社会」がひろまるきっかけとなった本とされる。「科学技術と経済の会」未来部会のほか、日本未来学会結成前の同人的な集まりである「未来学研究会」に謝辞が述べられている。
1969年 梅棹忠夫が岩波新書で『知的生産の技術』を出版する。
1969年-1972年 風土社から『現代デザイン講座』全6巻が出版される。
1970年 アルビン・トフラーが『未来の衝撃』を出版。
1970年 今西錦司、川喜田二郎、小松左京の鼎談本『鼎談 人類は滅びるか』が筑摩書房から出版される。
1970年4月 京都で第二回国際未来学会議が開催される。第一回会議ののちにパリに継続委員会が設立され、継続委員会と日本未来学会議によって、林雄二郎と加藤秀俊が主催し第二回国際未来学会議が開催された。この会議では1972年のブカレストで開催される第3回会議で提出する憲章の草案が書かれた。
1970年2月-7月 毎日新聞社からシリーズ『情報化社会』全7巻が刊行される。編集は林雄二郎、片方善治、白根禮吉。
1971年 毎日新聞社から『情報化社会辞典』が出版される。監修は片方善治。前年のシリーズ『情報化社会』の総括としての意味合いがあるとのこと。
1971年 学習研究社から『講座・情報化社会科学』全20巻が出版される。
ダニエル・ベルが『脱工業化社会の到来』を出版。
1972年3月2日 ローマクラブが第一回報告書『成長の限界』を発表。「人口増加や環境汚染などの現在の傾向が続けば、100年以内に地球上の成長は限界に達する」と警鐘。 1972年9月 ブカレストで第3回国際未来学会議が開催される。Pavel ApostolとMircea Malitaが主催し、世界未来学連盟(the World Future Studies Foundation, WFSF)設立が合意された。
1973年5月26日 パリで世界未来学連盟の設立会議が開催される。会議は憲章を批准した。
1973年9月 ローマのフレスカティで第4回国際未来学会議が開催される。
1974年3月 世界未来学連盟の第一回総会がパリで開催される。ユネスコの支援を受けた。
1975年 堺屋太一が小説『油断!』を出版。
1980年 アルビン・トフラーが『第三の波』を出版。
1993年 ピーター・ドラッカーが『ポスト資本主義社会』を出版。
1998年11月30日 日本未来学会30周年シンポジウム「人類の未来」が開催される。開会挨拶を林雄二郎、記念講演「人類の未来」を梅棹忠夫、パネルディスカッション「人類の近未来・中未来・遠未来」のパネリストを合田周平、榮久庵憲司、川喜田二郎、菊竹清訓、小松左京が行った。 参考文献
6. 小松左京『やぶれかぶれ青春記・大阪万博奮闘記』
7. 佐藤俊樹『社会は情報化の夢を見る』
8. 五十嵐太郎・磯達雄『ぼくらが夢見た未来都市』
9. 印刷博物館企画展 『1960年代グラフィズム』