差異の哲学ではなかったけ?
ドゥールズ:世界は差異でできている。世界は時間的であって、すべては運動のただなかにある
器官なき身体
ドゥルーズ&ガタリドゥルーズ=ガタリにおける器官なき身体とは、その上にあらゆる生の力場が形成される強度゠ゼロであり、その意味において死のモデルなのだ。器官なき身体を志向することは、生の果てなき脱領土化、あるいは脱コード化を推し進めることを意味する。生から制約や抑圧を取り払い(脱コード化)、別の生(別の性、別の人種、等々) に成ること、それは別の側面から言えば、生成変化のたびに
思弁的実在論。ベンジャミンノイズが否定的に命名したもの
ニック・ランドにとっての導きの糸になっていたのはドゥールズガタリのアンチオイディップス
欲望に規制をかけ、動きを減速させることではなく、むしろニーチェ言うように、過程を加速すること。
SF作家ロジャーゼラズィの光の玉で、革命的変革を求めるグループが神々が独占していたテクノロジーを開放することで社会をより高いレベルへ進めようとする。この集団を加速主義者とよんだ
民主主義という名の大衆迎合的なシステム兼イデオロギーの否定、そして独立した小都市国家が乱立する政治システムこそが最善であるという結論
都市国家は企業的な競争理念によって運営され、住民は自由に所属する都市国家を選択することで都市国家の間で競争が発生するようにする。つまり、都市国家を運営する者は住民の要求に応え満足させるインセンティブが発生
共同体内でひとたび暴力が発生すれば、それは復讐の連鎖となって共同体を最終的に絶滅に追いやる。この「相互的暴力」の伝染を防ぐために共同体がとる解決策が 供犠 というシステムである。共同体の全員が満場一致で成員の一人を身代わりとして、すなわち 贖罪 の 生贄 として共同体から追放する。この共同体の内部から暴力を浄化する供犠という儀式を通じて、共同体に安定と秩序がもたらされる。この暴力を追放する暴力
壊れてもよいから前に進むことで修復できる
VCとして働いていく限りは基本的にはe/acc(Effective Accelation)を信じるべきだと個人的には思う
そうでないならば、IRRやマルチプルがそんなにつくことはない
Change is our profitっていう感じがVCには必要
社会が平穏になること、StableにねることはVCにとっては好ましくはない
ニックランドと新反動主義
ドゥルーズ&ガタリドゥルーズ=ガタリにおける器官なき身体とは、その上にあらゆる生の力場が形成される強度゠ゼロであり、その意味において死のモデルなのだ。器官なき身体を志向することは、生の果てなき脱領土化、あるいは脱コード化を推し進めることを意味する。生から制約や抑圧を取り払い(脱コード化)、別の生(別の性、別の人種、等々) に成ること、それは別の側面から言えば、生成変化のたびに
多元主義(pluralism)
哲学や政治学の文脈で、社会に複数の原理・価値観・権威構造などが併存していることを認め、それらが互いに排除しあわず共存するべきだ、という立場を示す。
「社会における正統とされる価値観は一つではない」という意味合いが強い。
加速主義 資本主義の疾走、未来への〈脱出〉
文明進化の極限的な収束点は実は複数的であり歴史は「多元的な終焉」を迎えるのだろうか? 文明の変革を予測することは勿論容易ではなく、仮に容易であればそれはそもそも変革ではないだろう。
加速主義 資本主義の疾走、未来への〈脱出〉
ニック・ランドランドは、フランス現代思想と当時のサイバーカルチャーとを交差させながら、社会とテクノロジーの対立自体を無効化した。言い換えれば、この対立を曖昧にし、「社会的諸関係」の問題を不問にすることで、ランドは資本主義とテクノロジーを同一視した
ニックランドと新反動主義
https://julesevans.medium.com/accelerationism-amphetamine-philosophy-and-the-death-trip-bb67ff079f8
加速主義 資本主義の疾走、未来への〈脱出〉
自動化の導入によって、「労働者は低下する賃金と増大する貧困化に直面する」( 17) という事態も引き起こしてしまうだろう。 しかし、にもかかわらず、スルニチェク/ウィリアムズウィリアムズは自動化の波をゆるめよとは主張しない。むしろ彼らは、「完全なる自動化は、それがすでに進められているかどうかにかかわらず、達成されうるものであるし、達成すべきものである」( 18) と主張する。
カテドラルとも呼ばれるもの
ポリティカル・コレクトネスのもとに、メディアをもとに構築したもの
ニック・ランドいわく、メディアと学の複合体
加速主義 資本主義の疾走、未来への〈脱出〉
モールドバグが 大聖堂 と呼んだ、現代のメディアとアカデミズムの複合体によって行われているマインド・コントロールであり、思考の抑圧である。だが物事が押し潰される場合でも、押し潰されたものが完全に消えてなくなるわけではない。そうではなくそれは、場所を移され、その身を隠すための 陰 の中に避難して、そして時により、怪物へと姿を変えることもある。 大聖堂 の抑圧的な教義が、様々な形で、また様々な意
加速主義 資本主義の疾走、未来への〈脱出〉
加速主義派政治宣言」などで主張するように、この人物像は「抽象化・複雑性・グローバル性・技術からなる近代性にしがらみなく向き合う」、加速主義政治の構成員像と重なるものだろう。彼らの加速主義において、旧来の左派政治の主体となるような「ローカリズム・直接行動・ひたむきな水平主義」は、このような人物像が先導する加速主義の達成を阻害する素朴政治(フォーク・ポリティクス) 的であるとして批判の対象
加速主義 資本主義の疾走、未来への〈脱出〉
新反動主義運動が、自由の称揚のもとに「啓蒙」を嫌悪し、民主主義社会からの脱却を志向するのは、彼らの次の理解による。西洋社会は、本来であれば個人の自由を大幅に制限するはずの民主主義や平等といった啓蒙主義的な概念を受け入れてきたことによって、自らの弱体化に寄与してしまった。その結果が、九・一一以降後を絶たない西洋にたいする攻撃の多発であり、弱体化のトラウマを経た西洋社会では今、「[啓蒙の後に
加速主義 資本主義の疾走、未来への〈脱出〉
団結することがオルタナティブに対するオルタナティヴである以上、これまで以上に完璧な団結に対するオルタナティヴなど存在しない。かつてオルタナティヴなものが見い出された地点を探索し、自由が未だ出口を意味した地点を、そして弁証法を空間の中で解消する地点を探索した末に、保守主義が今やようやく辿り着いたのは、 大聖堂 の影として、あるいはそのなくてはならないパートナーとして作り出された、 おぞまし
ユニバーサルベーシックインカムの構想
加速主義 資本主義の疾走、未来への〈脱出〉
UBIは、労働と資本との間に存在する権力の非対称性を、転覆する可能性をもたらしてくれるものだという。「プロレタリアートは、生産手段および生活手段から自分たちが切り離されているということに規定されている。それゆえ、プロレタリアートは自分自身を労働市場において売りに出すことを余儀なくされ、それによって生存するのに必要な収入を得ている」( 43) という現状に対し、UBIの導入は、「仕事に頼る
主体的真理、あれかこれかと主体的に選ぶことが大事。実存の三段階,1美的実存(感覚的に生きる)2,倫理的実存(正義を自己表現)3、宗教的実存(神の前で単独者)
キルケゴール:絶望して自己自身であろうと欲する絶望=この世のすべてのことに絶望していながら、宗教に救いを求めない段階
加速主義 資本主義の疾走、未来への〈脱出〉
キルケゴールが言うように、 破滅が避けられない ということは、可能性を信じる者もよく理解している。「人間的には自分の破滅がすぐそこにあることを理解しながら、 それでも 可能性を信じること、これこそが信じることである」( 23)。死に至る病としての消尽において、もはや避けられなくなった破滅に対して、「それでも」という逆接によって、消尽しないものを、死の向こう側を、希求すること。そうすること
加速主義 資本主義の疾走、未来への〈脱出〉
ランドによれば、近代性を特徴づけるのは、「生産」と「批判」であるという。ここで言う生産は資本主義におけるそれ、批判はカント的な意味におけるそれであるが、ランドは後者について、その「超越論的な動力」を強調している。両者に共通するのは、それらが 本質的に停止することができない という点
資本の超克を求める代わりに、資本がつねに妨害してきた能力、別の言い方をすれば、生産すること・ケアすること・享楽することの集合的能力に焦点を合わせなければならない」
加速主義 資本主義の疾走、未来への〈脱出〉
資本主義の生産様式から生じる、三つのありうべき結果を予測する。 [1]資本の完全なる自律化 ―― すなわち機械的ユートピアという結果であり、そこで人間は引きつづき遂行的な役割を与えられると同時に、自動化されたシステムのたんなる装飾品となる。 [2]人間の変異、あるいは種の変容 ―― すなわち完璧にプログラム化可能な存在者の生産という結果であり、そこではホモ・サピエンスという種の特徴のす
加速主義 資本主義の疾走、未来への〈脱出〉
ポストモダンに蔓延するニヒリズムと悲観主義を乗り越えて、この「退屈なディストピア(boring dystopia)」を打破するオルタナティブな地平を切り拓くこと。悲観主義ではなく楽観主義を、ディストピアではなくユートピア
加速主義 資本主義の疾走、未来への〈脱出〉
ニック・ランドの軌跡を追いながら、新自由主義が ―― 新反動主義を介して ―― 新封建主義へと再編されていく未来を察知するとともに、もう一方でマーク・フィッシャーの軌跡を追いながら、新自由主義によって鎮圧されてきた潜勢力が ―― アシッド共産主義を介して ―― 現勢化されていく未来を触知
加速主義 資本主義の疾走、未来への〈脱出〉
啓蒙という歴史的プロセスがもつ不可逆性である。ひとたびそれがはじまると、啓蒙はその前後を、つまり進歩(゠啓蒙゠左派)と保守(゠反動゠右派)というふたつの立場を生みだす。だが理性の光がもつ「自明」な正しさによって、保守の立場はあらかじめ不利な、というよりもそもそも「矛盾した」状況に置かれることになる。近代的な二項対立にあって保守の立場は、「基本的にFワードが意味するもの」でしかないのだとランド
民族未来主義
https://ideasforgood.jp/glossary/ethno-futurism/
エスノ・フューチャリズム(Ethno-Futurism)とは、土着的・先史的を意味する「エスノ」と、先進的な未来主義を意味する「フューチャリズム」を掛け合わせた言葉。文化史における過渡期に、グローバル化を背景として、人々が自らの文化的なルーツに取り組む過程であると考えられている。
具体的には、1990年代に崩壊したソビエト社会主義共和国連邦(旧ソ連)で起きた、国際的な芸術運動がその代表だ。日本語では、「民族未来主義」とも呼ばれる。以降、エスノ・フューチャリズムのことを民族未来主義と述べることとする。