日常的な延命
死にたい」という言動は、「生きたい」を前提とする社会的な規範には馴染まず、叱責の対象にすらなってしまうくらいである。近代国家の権力は人々から単純に自由を奪うものではなく、むしろ人々の生に積極的に介入し、個人の自由そのものを管理し方向づけることで社会全体の秩序を形成するような、より巧妙なものに変わっている。フーコーの観点からいえば、世の中の人々が主体として「生きる」ように管理されるのが近代社会の特徴でもあった。 死にたいという言葉は、その固有の特徴から死にたいものの親密性を狂わせてしまう 「死にたい」という言葉は、生きている者とのコミュニケーションを脱臼させてしまったり、未来の自殺をほのめかすことで潜在的な不安を与えてしまったり、近しい人こそ保護するべきだという責任をも暗に示唆してしまうからだ。「親密圏」の人を困らせたくなければ、「死にたい」人は遠慮する可能性が高くなる。加えて、「死にたい」人のテンションが、生きることを大前提にした人の助言と噛み合わないことも考えられる。生きろ生きろと言われても、どこか根本的な解決にはつながらず、話を聞いてもらっている感じがしない。
それゆえに、「死にたい」という声は「親密圏」の外側へ向かう。それも同じ「死にたい」を共有できる人の元へと届けられる。もちろんそこで助け合いが生まれることもあるだろう。しかし「座間九人殺害事件」のように、殺害犯が「死にたい」の先で待ち構えている可能性もあり得るのだ。
この国を包み込むインターネットの(特にTwiter の)「空気」を無視して、その速すぎる回転に巻き込まれないように自分たちのペースでじっくり「考えるための」情報に接することができる場を作ること。Google検索の引っかかりやすいところに、5年、10年と読み続けられる良質な読み物を置くこと。そうすることで少しでもほんとうのインターネットの姿を取り戻すこと。そしてこの運動を担うコミュニティを育成すること。そのコミュニティで、自分で考え、そして「書く」技術を共有すること。それが僕の考える「遅いインターネット」だ。 (『遅いインターネット』 15頁)
宇野はまず「速度の変化」に注目するわけだが、ただのスロージャーナリズムに落ち着けば良いとも語っていない。スロージャーナリズムと読者コミュニティの関係を前提として支持はするものの、読者を育てられるかどうかというところに要点があるという。どれだけ良質な記事が用意されたとしても、ファストに消費しようとする読者にとっては、目に入れたいものだけを目にして、それを快楽のままに発するための材料にしかならない
からだ。
お金を稼ぐということ、そのために経済を考えることを通して、健康にづいていくというのが坂口の方法論である。とにかく気持ちよく「流れ」を作ることだけ意識して、他者の「流れ」さえも呼び込んでいくような態度が推奨されている。
①好きなこと(声)をみつけ、②日課として継続すること。③その流れている状態を経済と考えて、他者との交流にも活かしていくこと。この過程こそ、坂口が2020年以降の著書を通して強調する自殺予防のための方法だとまとめられるのではないだろうか。 多少の繰り返しになるが、これらの要素をふまえて、「好きなことをしなさい」がすなわち「制作しなさい」へと近づいていることにも注目しておきたい。
これらの特徴をまとめてみると、坂口の自殺予防への方法論としては、まず制作がある。 それは書くことでも絵を描くことでも音楽を作ることでも、なんでもいい。好きなことを見つけ、それをする。だがそれを制作へとつなげていくことで、さらには継続していくことで、経済を生み出していく。経済とは、アテンション・エコノミーを指すのではなく、身近な土地とコミュニティに根付いたものを主眼とする。
薬国移民とは、生きるための国を新たに選び直す意識をもち、元の国でのアイデンテイティを過度に引きずることなく、移住先での変化へと自らを積極的に開いていく人々のことだ。ストレスフルな状況に対して国を棄て、人生をやり直すことになったとしても、それは彼/彼女らにとっての救済なのである。この「棄国」性とは、2010年代における海外移住のひとつの特徴として現れているのではないか。
セラピーとは「自分で大丈夫」と思えるように「物語化」を手伝ってあげることであり、ケアとは、「傷つかない」ように「日常化」を手伝ってあげることなのではないだろうか。そして、カウンセリングの現場でも、ディケアの現場でも、塩梅は異なるもののつねに両者が含まれていることが重要だった。東畑が体験しているような、セラピーとケアが入り混じる現場には、自分の物語✕日常というアプローチが垣間見える。 ポストモダンの受け手としてのベケットの批評性はどこにあるか。佐々木も述べているように、それは「意志の発動」に関係している。たとえばここに、小説というジャンルはどのテーマも書き尽くされてしまっている感があるゆえに「想像力は死んだ」という考えがあったとする。その上で、そこで話を終わらせるのではなく、意志の発動が自在に生じてくる。「想像力は死んだ想像せよ」。つまり論理的な関係性を飛ばして、事実の認識としての「想像力は死んだ」と、意志の発動としての「想像せよ」を併存させるのである。べケットの作品『想像力は死んだ想像せよ(Imagination Dead Imagine)』などは、このような力学を内側に持っている。 2019年1月29日に公開された千葉雅也の「権力による身体の支配から脱すること
。哲学者千葉雅也が考える筋トレの意義」というテクストは、そんなトレーニーや筋トレブームをアイロニカルで懐疑的な立場から見つめたものであった。グローバル資本主義の激化。人々は流動的な世界の中で確実なものを得ようとし、それを原始的に実現してくれるのが筋トレである。権力による身体の支配に対し、自己準拠的な身体を取り戻すことができていない。結局のところ筋トレを通して得られるものは他律的に作られた身体なのだと千葉は論じている。ひらたくいえば、よくわからない不安な世界のなかで、人はなんとか自分を説得してくれるようなものを獲得したい。だがそれが筋肉だという話だけでは単純すぎて権力構造への抵抗にはなり得ないよねということだ。 ミシェル・フーコーが1970年代に提案した「生権力」という言葉がある。それは簡単に言えば、人間を数として、家畜のように管理する権力のことだ。生権力は、みながスマホを持ち歩きビッグデータが日々蓄積される21世紀においては、かつてとは比べようもないほどに肥大化した。いまや人々は、年齢、性別、資産状況から趣味嗜好まで、あらゆるプロフィールが分析され、生のすべてが統計的な予測の対象となってしまうようなアルゴリズムの時代に生きている。自分の欲望や能力にはそれほど固有のものなどなく、世界は自分と似た人たちで満ちていて、そこで成功するか失敗するかは結局運次第といったような、とても過酷な現実が毎日のように突きつけられる。「自分は群れの一尾であって、そこに運命などない」と自然に感じてしまうような状況が存 ノードとして扱われるひと
人はサウナに入ったり、SNSに加工したショート動画を流したりしながら「バーチャルな主体」を癒やしているわけである。自らを溶かしているかのような感覚と「バーチャルな主体」が親和性を持つことに関しては、先の議論から理解もしやすいだろう。それでも、どんなに「癒やし」で現状を先送りにしていたとしても、毛並みを整えるようなその弱い気晴らしの効果は薄れていき、ある時こう思う。なんか死にたいな、死んで楽になりたいな。個別具体的な理由があるわけではない。 おそらく曲霊的「死にたい」とは、郵便的不安なのである。 混乱を避けるために補足しておくならば、郵便的不安とはあくまでも「郵便」の例自体に呼応する、より対象を広く持った感覚であることも忘れてはならない。たとえば自分のところに届いた情報(手紙)がどこから発せられたのか、配達の途中でどのように歪められたのか、自分の投函した情報がどこに届くのかといったことに意識的になる中でも不安は生まれる。社会全体を見渡せるような特権的な視点が機能しづらくなった日本社会では、文化消費などの文脈でも郵便的不安は語ることができるだろう。この雑誌は誰に届いているのか、誰に向けて発せられているのかといった思いに駆られるなら、それは郵便的不安である。現実そのものの確率的な性格が生み出す不安というのも、「郵便」の特徴である。 ゆえに正しくは、幽霊的「死にたい」とは、郵便的不安の一種である
実存の悩みからも生まれる存在論的不安とは異なり、数学的で郵便的な不安は自分の外側、環境から発生する。この環境とは、社会であるとも言える。ただし、安心欲求の不足から直接的に幽霊的「死にたい」自体が生まれているのではない。関係はするものの、安心飲求の不足が理由でなくとも、幽霊的「死にたい」は生まれる。ここが肝心の点である。 どういうことか。
個人的な要因。存在論的不在。それに対して社会的な死にたい。郵便的不安、幽霊的死にたい
こうした状況を振り返ったとき、情報技術への過剰な期待が生まれた背景としての20
10年代に東は注目する。2010年代とは、情報技術の夢が大きな物語として語られた時代だったのである。東は語るのが難しいとされてきた2010年代に関して、2023年の位置から的確な批評を加えている。
とことでいえば、文系の大きな物語が消えたと思ったら、理工系から新しい物語が台頭してきたわけである。
理工系から出てきた大きな物語。この中身が何だったかといえば、ひとつに「シンギュラリティ」にまつわる議論があるだろう。これは人間と人工知能の臨界点を指す言葉で、つまりそれは人間の脳と同じレベルのAIが誕生する時点のことである。一般的には、人間の知能を超えたAIはその後加速度的に進化を遂げていき、人間の生活や文明にも大きな変化が起こると考えられている。シンギュラリティという言葉が注目されるきっかけになったのは、レイ・カーツワイルの言説である。彼は著書のなかで人工知能は2045年には人類の知性を超えると予言しているが、いまではその数字に安直に飛びついたビジネスマンや政治家までもが「シンギュラリティ」の可能性を強調している。 シンギュラリティという大きな物語。落合陽一やハラリのような壮大な物語の提示。東はこれら2010年代に起こった現象を一貫して、「人間の能力が高く評価された」時代だったと述べている。人間には人間の限界を超える技術を生み出す力がある。進化してきた人間は感染症や飢餓、戦争までも克服しつつある。そういったある意味では過剰な人間仰とも呼べる様相を、東は「あまりにも観念的で無責任なように感じられる」と批判している。 人は「死にたい」と発することで延命をはかる。誰かに助けてもらいたい。だがとりわけ身近な家族や友人に相談することは難しい。これが親密圏の持つ問題であった。親密圏の外側に「死にたい」の声を投げかけたとき、SNS上で犯罪に巻き込まれてしまう事件さえ起きてしまった。この日常的な「死にたい」の声が封じられてしまいがちな状況で、どのように「死にたい」事態を補うのか。そのために「死にたい」という声自体も分析の対象に置いてみた。SNSを調査するとそこには承認と安心という2つの願望が現れていることがわかった。しかし後者の安心の願望に関しては、そもそもその存在すら見過ごされがちなのである。承認欲求という言葉の強度によって安心歓求は覆い隠されてしまう