メノン
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基本情報
書籍名: メノン: 徳について
ページ数: 286
金額: 800円+税
Audible: なし
本の感想
普段使う日本語よりも形式張った感じがあるけど、現代語として読みやすかった。
前半160ページまでが「メノン」の和訳、その後260ページまでが訳者解説。
解説ながい!けど、解説がないと、よく分からないままで終わってしまいそうな内容でした
訳者解説すごい。本編で私が見過ごしてきた多くの示唆を拾い上げてくれている。
既知は問わない。不知は問えない。未知はどうか?について知りたくて読み始めました
読み終えて、「探究のパラドックス」と言い出すのは前提が間違っているためと思える
引用
探究のパラドックス(P67)より
ソクラテスはメノンに「まったく知らない事をどうやって探究するのか、探究した結果それがそうであるとどうやって判るのか」と問われ、つまりこういうことかね?と聞き返した内容
「人間には、知っていることも知らないことも、探究することはできない。知っていることであれば、人は探究しないだろう。その人はそのことを、もう知っているので、このような人には探究など必要ないから。また、知らないことも人は探究できない。何をこれから探究するかさえ、その人は知らないからである」
未知を探究しようとしても、結論にはたどり着けない。 つまり、探究する行為は発生しえない。
探究のパラドックス(P95)より
だがわれわれは、自分が知らないことを発見することはできないし、そのようなものを探究すべきでもないというふうに考えるよりも、人は自分が知らないことを探究すべきであると考えるほうが、よりすぐれた者であり得るし、より勇敢であり、 より怠けない者であり得るのだということ――この点については、わたしは自分にできるかぎり、ことばで大いに主張するつもりだし、実際の行動でも十分に示していこうと思うのだ。
人の心は、人の行動によってしか語れない(P188)
ソクラテスは、「動かすもの」に焦点を合わせた、このような人間の行動の「純然たる観察者」としてわれわれが思い浮べることばの意味で通して考えるように、メノンを促したのだと思われます。 「意志の弱さ」は行為の種類をあらわす、とわれわれは日ごろ考えています。こう考えるときにはわれわれはかならず、ソクラテスのここでの言葉づかいではない理解で、善悪と有益・有害を捉えているはずです。「結果の行動に結びつかないようなよさや悪さというものの理解」があるから、甘い物を食べるのはわたしには「よくないこと」だったのに、しかもそれを知っていたのにあのとき食べてしまった、というふうに考えているはずです。そしてこの発想法を全員共有しているから、だれもが「意志の弱さ」に関しては、自分のこととはいえ困ったことで何とか避けたいとか、少しは減らしたいと感じているように思えます。 それでは、以上二点の人工的な手段を使って「意志の弱さ」にあたる行為を消しということは、ソクラテスの(あるいは著者プラトンの)どのような意図をあらわしいるのでしょうか?まず、人の心は、人の行動によってしか語れないという結果になります。そして、もしこの結果を受け入れなければならないとすると、メノンの持心した他の第三の定額は、それだけでたしかに致命的な打撃をこうむることになります。「美しい立派なものを欲すること」も「よいものを欲すること」も、行為をすふだれでもがやれていることになるからです。ことばや心の中の思いに含まれる「そうすればよかった」や「そうしなければよかった」ではなく、現実の行動だけがその人自身の優劣とその人の幸福観や倫理観の優劣を語りうるという話になります。 そうすると 、このソクラテスの議論は、メノンの徳の定義「美しい立派なものを欲し、そうしたものを獲得する力があること」全体に対して、どのような批判をしたことになるのでしょうか? 徳の定義において〈徳〉と〈態でないもの〉を分けてくれるはずのメノンの「よいもの」「美しく立派なもの」ということばに攻撃の照準が合っていることは、明らかです。事実としてすでにおこなってしまっている行動から離れて、だれかが「自分は、他の人が目指さないよいものを目指している。そして自分には、生まれつきの素質も苦労して身につけた力も両方そろっていて、それをわがものにする〈実力)があるのだ」と単純に言い張ることはできない、またそう言い張るからといって徳があるとは言えないという結果になります。たとえば、メノンが、 「自分は他の連中が目指さない大いなるもの(高位の要職、最高の名誉、巨万の富など、一般に凡人が夢見ることのないスケールの繁栄)を目指している。そしてそのための力もあるから有徳だ」と言い張ることはできないことになり、かれの「夢や理想や願望を雄弁に語ることば」よりも、足下の、もっぱらかれが実際にやっていることに注目しないと、かれに「徳」があるかないかは判定できないことになります。――しかし、 メノンの使うこれらのことばについて、定義の後半部「そうしたものを獲得する力があること」に対する次の章句での攻撃でも批判がおこなわれ、その批判はもっと本格的で、完全に破壊的です。そこで、後半部をみてから、前半部の議論の意図についても一緒に最終的に推理することにしたいと思います。
shimizukawa.icon まって。つまり、こういうことか?徳とは行動によってのみ判断できるもので、それを行う者がどのような意図でそれを行ったかは問わない。shimizukawa.iconは「徳とは何かを探究し続けることとその結果の行動」によって定義されると考えたけれども、探究し続けることは他者からは判断できない。また徳は人の属性なので、その人に徳があるかどうかが行動によってのみ判断される。ということは、本人が徳があるかのように見せかけて行動しているか、本当に徳があってそのような行動になったのかは問われない。徳は他者からの観察によってのみ評価される。本人が徳をあるかのように振る舞い続けて漏れなくそのように観察されるのであればそれは徳のある人ということになる。このため、「徳とは何であるか」の答えは(今のshimizukawa.iconの考えでは)多くの他者から良いと考えられる行動をとり続ける者に備わる属性、となる。つまりそれは他者の評価で時代に左右される。実際に徳のある人になりたいと考え、徳とはどのような行為かを突き詰め、それを行動し続けることによってのみ徳のある人という評価に繋がっていく。他者の目を通す以上、環境に左右されるため、その時代では徳のある人と評価されなくても別の時代で評価されるかもしれない。
これは自分で「できる」と言うことと、周りが「できている」と見ることの違い、にも通ずるのではないか?「できる」は本人の評価で、「できている」は他者の評価。このため、「できている」に価値があるという判断は、他者に評価される必要性を訴えている。しかし、何をもって「できている」と評価されるのかを知らなければ(定義できなければ)いけないため、何をすれば良いかを教えてもらう必要があるのではないか?
「良いこと」は「良いことを知っている人」によってより明確に見分けられる
つまり、たとえ見えるものも見る者もそろっていても、間が暗闇であったり煙が充満していたり遮蔽物があれば、 ものは見えません。そこで光が空間を透明にしてくれて、ものを見させてくれているわけで、その光は太陽から送られているというわけです。おなじように、善そのものが知るものと知られるものに作用するのだとソクラテスは主張します。比喻が成り立つには、ものを知るとき曇りなく透明になっているところで知ることができる、といった意味合いが「見ること・見られること」と共通と考えられているはずです。この「太陽の比喩」の「目から鱗」のようなみごとなアナロジーを使って、「メノン」の議論の主張を、表現することができます。つまり、ひとりひとりの人が徳を学習した程度に応じて、その人のよいこと・有益なことの認識は、「透明性をましてゆく」というものである、と言えるでしょう。全知全能の人がいない以上、完全に「透明」になって全部見通せるかたちで知っている人がいるとは思えませんが、それにかぎりなく近づくことは目標にできます。この点を知らないで他の学びの問題をしかるべき形で正面から扱えないと、そして、野心家や目立ちたがりの人がきらう地味な徳の学習に努めないと、自分の内部の状態が原因となって、認識そのものが「違蔽物」 や「暗さ」や「湯り」に類したものであげられることになる、ということが、『メノン」でも、そして「国家」でもプラトンの主張のポイントになっていると思います。 より重要なのは、積極的な帰結のほうだと思います。このような「自分自身の問題」を乗り越えて徳の問題の重要性に気づき、人一倍徳の学びに励んだ上、その他に基づいてよいものを事柄どおりによいものと人々にまさって認知できる人が出てくれば――ソクラテスの否定的論駁はまさにこのような人を生むことを目標にしていたように思われます――、その人の場合には内的なものの力で自分や他人の幸福とほんとうの繁栄、人々の福利について、他の人の及ばない力を発揮できるだろうということになるはずです。これが「仮説の方法の議論」の最終的なメッセージになるように思われます。 ここでは二重の対立関係が重なって語られているように思われます。ひとつは、他人から伝聞的に聞き知る意味での「知る」に対し、「理解して知る」という意味の「知る」ことこそ、人が本来的に「知るに至る」ことであるという考え方です。もうひとつは、まったく新たに学ぶことに対する、むかしの経験の記憶に基づく知の再獲得こそ「学び」なのだという主張です。後者の想起のイメージは鮮烈で、前者を覆い隠しがちですが、この二重性のどちらが探究のパラドクスに対して実質的に歯止めになっているかと言えば、前者の理解に基づく知識把握のほうであると思われます。
shimizukawa.icon 未知の探究とは「理解して知る」こと。メノンの行動は「聞いて知る」(教師に教えてもらう)ことが学び方だと考えているため、教えられないものは知り得ない、という結論(探究のパラドックス)に陥ってしまう。 shimizukawa.icon 「生成AIに聞けば解決できる」は「聞いて知る」こと。「理解して知る」段階にはまだ進んでいない。 理解して知ること
こうして、論証の簡略な形でいえば、
(A)有益なものとは知(フロネーシス )である
(B)徳は有益なものである
という二つの前提 (89A)の組み合わせで、
(C) 徳とは知(フロネーシス )である
という結論(89A)を得るわけです。
(中略)
メノン自身とはがらりと発想を変えて、A~Cの主たる興味は結論のCよりも、AとBの前提側にあると、われわれ読者のほうで考えてみることができます。この「ものの見え方」のもとでは、AとBからCを演繹するというより、AからCへの推論の意味について、推測をおこなってゆくことが問題です。このときAからCへの接し方は、このような推論をするだれか(専門家のような人)がいて、それを「教えてもらう」という態度では済まないものになります。AからCをみせられて、それを推論として組み立てた人はどういうふうに組み立てたのだろうかという、素朴な好奇心のようなものを背景に眺める必要が出てきます。つまり、自分も仮説を立てることに積極的に関与する形で読み解いていこうとすることが要求されます。「仮説を立てる」ことは、「推測する」ことの一種です。Cという自然な考えをどう説明できるか、可能性をいろいろ探して、これでよいのではないかと、なかでももっともまっとうな選択肢をかりに立ててみることです。したがって、もともとこのような仮説を立てているソクラテスとともに、話に加わって、この仮説はどういうものかを能動的に対話の中で自分なりに理解していこうとするとき、われわれは自分も徳の議論で仮説を考えている人のように、想像力や、新しいことに挑む知性のはたらきによってできるだけ大胆に推測し、その推測について自分の責任で、できるだけ精密に評価することが求められます。 shimizukawa.icon やっぱり、推測して獲得しようとしていくこと(理解して知ること)が探究の本質、ということだろうと思う。「徳は教えられるか」は「聞いて知る」行為だけれど、「徳とは、良い行為を探究し続けること(によって理解して知るもの)」なので徳そのものは教えられない。徳を備えている人の性質は「探究していると思われる行動とその結果起きた事」によって表現される。となると思う。
shimizukawa.icon 周りの人がやっていることと同じようなことを「できる」状態になることは、「できている」という点では1つの(最低限の)目標を達成している。しかしそれは、同質性の強化にはなっても「より良い状態」には向かわない。より良い状態に向かうには、「より出来ている状態に向かおうと探究する」ことの方が大事。その探究の結果「失敗」することがあっても、それは許容されなければいけない(そうしないと探究ができなくなりより良い状態には向かえなくなる)。そしてその活動によって外から観察可能となる「行動の結果」が他者から見て結果的に「できている」と評価される。
shimizukawa.icon 「理解して知る」、は、島崎藤村の「三智」の「みづからの体験によって得る智」と同義だと思う。 本の概要
「徳は教えられうるか」というメノンの問は、ソクラテスによって、その前に把握されるべき「徳とはそもそも何であるか」という問に置きかえられ、「徳」の定義への試みがはじまる……。「哲人政治家の教育」という、主著『国家』の中心テーゼであり、プラトンが生涯をかけて追求した実践的課題につながる重要な短篇。 お勧めの読者
哲学入門したい人
扱っている分野
徳とはなにか
哲学的な考え方
動機、価格
入手金額: なし(図書館で借りた)
入手フォーマット: 紙
動機は満たされたか: はい
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