「エモい」とは日本のカウンターカルチャーのガラパゴス的発展である。「エモさ」の帰納的構造分析
一旦頭にあるやつをなるべく乱雑に書いてみた。
このムーブが日本以外でも起こってることを考えるとそこまでガラパゴス的発展っていうのもよくない気がするな〜。けどこれ以上にいいワーディングが見つからない。
-.icon
目次
前書き
「エモい」とは日本のカウンターカルチャーのガラパゴス的発展である。
どのように防衛しているのか?
人生観に対して
なぜこの防衛が起こったのか?
おじさんに表層的に「エモさ」を利用され思想が形骸化していく様子
前書き
あとでかく
「エモい」とは日本のカウンターカルチャーのガラパゴス的発展である
カウンターカルチャーとは
1960年代のアメリカやヨーロッパを起点として、西側社会(主に資本主義システム)、旧来のキリスト教社会(同性愛、自由な性行為、離婚、中絶の禁止、厳しいものは自慰、避妊も禁止、多神教への不寛容と軽蔑、人間中心主義)に対する文化的な対抗、権威主義(家父長制、男性中心主義、国家主義、警察の暴力、戦争、徴兵、パワハラ)や保守主義(女性差別、人種差別、他文化への不寛容、民族主義)、エスタブリッシュメント、政治家、資本家・大企業(商業主義、金欲主義、弱者搾取、自然破壊)への反発などの抵抗は、ヒッピーなどの若者を中心にしたカウンターカルチャーとして発展した
ただ、重要な点として従来のカウンターカルチャーのように明示的に「反抗」を示すことはなく、「防衛」を重視しているところにある。(この理由に関しては後ろの方で述べるから気になったらそっち先に読んでね〜。
何に対する防衛なのか。
まずここで何に対しての防衛なのかを明記しておきたい。具体的には高度経済成長期及びバブル崩壊前に日本国内で浸透していた価値観である。今だと40代〜50代ぐらいの人間が抱えている価値観であり、いわゆる「おじさん」的と揶揄されるものが多い。
規範
労働
24時間働けますか?的な労働至上主義とも言える勤労態度
終身雇用などをベースとした生活
健康を重視する性質
早寝早起き朝ごはん
家父長制が強く残った恋愛観
「女性は慎ましく」「男性は男らしく」という性規範
「結婚」がゴールとなった恋愛観
しっかりとステップを踏んだ上でのお付き合い
大量消費文化
3種の神器などの新しいモデルが出るたびに買い換える文化
また、それに伴う拝金主義。
いい女、いい車、いい家などを追求するというもの
大量消費文化に対するエモさ
「エモい」カルチャーが提唱するものは新しい家電製品を買い替え、マイホーム、マイカー、ブランド品を追い求めるライフスタイルに対する防衛である。
ワンルームマンションというエモさの中心地
昔はイタリアにブランド物を買いに行ってアッシーとメッシーがいっぱいいたのよ〜。などと親世代が言うのをよく聞いてきたが、我々の世代ではそのような華やかな話をほとんど聞くことがない。代わりに失われた30年に始まり「若者の車離れ」、「若者の持ち家離れ」と言う経済事情に関してはネガティブなことを言われ続けた世代である。唯一華やかな話を聞くとしたら「パパ活でパパからブランド物とマンションの部屋とお金もらった〜」とどこからとなく流れてくる話であろうか。
となると文化が「金を稼ぐこと」ではなく「足るを知る」的な美学に向かうのも納得がいくことだろう。エモいカルチャーはまさにその潮流にいるのだ。高級なオーディオセットの代わりにレコードプレイヤー、シャングリアの代わりに間接照明。タワーマンションではなくワンルームマンション。
金銭的にリッチなものを部屋に揃える文化ではなく文化的にリッチなものを目指す文化となっているのだ。
「エモい」と称されることが多い「マリマリマリー」、「Study Girl」、「あいみょん」で部屋がどのように描写されているかを見ていてもその流れが見えるだろう。
マリマリマリー
https://gyazo.com/f4b50ad86e524da3b8b97edc41ea4099
https://gyazo.com/c641fcc180ae398c289a13f35c858e0e
Study girl
https://gyazo.com/f92d8827290329e6b26f42bf8d15c369
https://gyazo.com/ca41353277bfe285a26e5b2dc0d2e1ad
あいみょんの楽曲「愛を伝えたいだとか」
https://gyazo.com/503d6d3c90ed0b1654cae6d1a2cff2d3
あいみょんが出したフリーペーパー
https://gyazo.com/17452aafbf743b4336739b73480cfbb7
狭そうだけど文化リッチすぎる
ファスト消費と均一化に対抗せよ
社会学者ジョージ・リッツァは1993年の著書「マクドナルド化する社会」に於いて、「マクドナルド化」という概念を提唱した。簡潔に要約すると「グローバル化による文化の世界的な均質化に関する最近の(定量化)思想の中で、ファストフード店の原理がますます多くの分野を支配するようになること」だ。 エモいカルチャーは高速的に均一化が進む世界に対するカウンターとして昨日しているのだ。
エモいカルチャーの中心となっている00年以降の生まれの人々は遅くて小学生の頃にはスマートフォンの誕生を目の当たりにして、ボタンひとつしかないシンプルなインターフェースが主流になっていくのを見ていた。その進化は、手間のかかる操作は全て削ぎ落とされて、どんどんシンプルにわかりやすさと再現性を追求したが無機質になっていく進化だった。この効率性の追求と余白の喪失と無機質さに疲れ、温かみを求めているところに現れたのが「エモい」文化なのである。10年前の一眼レフよりもいい写真がスマホで撮れるようになっても、色が霞んでしまうフィルム写真に熱狂し、CGが発達し、進撃の巨人のOPに代表される「神作画」が量産されるようになっても、AKIRAのようなセルアニメのビビッドな色使いとどうしても入ってしまうノイズに憧れを抱くのだ。 エモいカルチャーの「昭和への懐古運動」とも見える性質もそれが理由なのだ。決して昭和の華やかさに憧れているわけではない。現代の冷たさに対するオルタナティブとしての温かみのある「昭和性」に需要があるのだ。この「素早い消費」と均一性から逃れようとする運動はフィルムカメラやアニメ以外にも確認することができる。(この下もっと書く)
食文化
スターバックスではなくてカフェにいこ
ダイソンではなく銭湯の扇風機
Spotifyも聴くけど、好きなものはレコードで。
エモいカルチャーに内包されているオブジェクトで重要な物としてアナログレコードであろう。
アナログレコードなど「ゆっくり性」の典型と言っていいだろう。spotifyなどが高速に新しい音楽を開拓することに極めて特化しているメディアに対してLPレコードは極めてゆっくりと同じアルバムを聴くことに特化したメディアと言ってもいいだろう。
ファストファッションではなく古着
自明だろこんなの
手書き文字vs機械フォント
https://gyazo.com/ddb1798c2488a07d4591086ec71923f8
レコーディングvsFirst Take
Youtube上でそのアーティストの「一発撮り」を収録するチャンネルが人気となっている。確実に「エモい」文脈に沿った物ではないにせよ、人気が出ている理由はエモいカルチャーの考察から納得がいくだろう。
夕焼け
我々は空を余裕を持って見る機会がそもそも減っている中で「ゆっくり夕日を見る」という体験に大きなエモさが内包されているのだろう。
屋上に対するエモさなどもそれだろう。
規範に対するエモさ(流石にもっと書き足す)
早寝早起き健康に防衛せよ
ピアッシング
夜ふかし
エモいカルチャーのメインフィールドとして夜の世界がある
シーシャ、タバコ
「健康」
タトゥー
精励恪勤への対抗
「24時間働けますか?」
家父長制に対するエモさ
家父長制に対するエモさ
自由恋愛という家父長制の解体
セフレカルチャーが持つ「エモさ」
@yoshiryo_1995: 『純猥談』は悲劇のヒロインを気取りながらセフレ沼にハマってるメンヘラ女さんのお涙頂戴エピソードを、可愛らしい絵柄とそれっぽい表現でなんかエモい感じにしてるだけ感が凄いので苦手 @_ona5_: たまにはセフレの話でもするか。シェフの話。仕事疲れてるのに呼ばれたからお邪魔したら餃子鍋作ってくれてたんだけど、ビールがうますぎて飲み過ぎてベロッベロの状態で、ホットカーペットの上で寝てたらいきなりバックで挿入されて目覚めた。ひたすらオナホ状態のセックス、エモい。以上。質が悪い。 @secret_reality_: マカロニえんぴつの恋人ごっことか香水とかドライフラワーとか、キモいものをエモいように認識する時代の流れが嫌い。セフレはせフレだし元恋人は元恋人だし、本当に運命があったなら付き合ってるんだから今隣にいない時点で合わなかったんだろ。 これらの発言を見るに、「セフレ」「浮気」という事象がエモいと捉えられていることは共通認識として持っていいだろう
性に奔放な女性というパターナリスティックな思想ではタブーな概念がエモい文脈では大きく支持されている。
個人の選択の重要視って意味で、シモーヌ・ド・ボーヴォワールっぽさがある。
在学中に出会ったジャン=ポール・サルトルとは、実存主義の立場から自由意思に基づく個人の選択を最重要視し、婚姻も子どもを持つことも拒否。互いの性的自由を認めつつ終生の伴侶として生きた。
この文化を象徴させるものとして「純猥談」がある。
純猥談とは
佐伯ポインティによって作られた映像、文章を中心としたメディアである。
扱っている内容としては、セフレ文化や性に奔放に生きる女性の切なさがテーマとなっている場合が多い。単行本一冊めの副題、「一度寝ただけの女になりたくなかった」からもその様子は窺えるだろう。連綿と注がれてきたキリスト教的な「清く正しく」の文化を拒絶するかの如く、「友達」と性行為を行う。
https://youtu.be/wayGtiN9O3k
純猥談: 一度寝ただけの女になりたくなかった
セフレ文化がエモい文脈の中で存在感を放っているのも明確な理由がある。
旧時代的な恋愛観
上野千鶴子は結婚を以下のように定義した
「自分の身体の性的使用権を、特定の唯一の異性に、生涯にわたって、排他的に譲渡する契約のこと」
大和撫子という幻想
態度や表情が穏やかで、容姿端麗、清楚で言葉使いが美しく、男性を立てるような女性)
男性を喜ばせるさしすせそ
「さ」=「さすがですね!」、「し」=「知らなかった!」、「す」=「すごい!」、「せ」=「センスいい!」、「そ」=「そうなんですか!」
これらは全て女性が下に立ち、男性を立てるという構造となっているが、エモいカルチャーを取り巻くセフレ文化はこれが逆転しているのだ。
まず上野千鶴子の批判的結婚論に対しても自分の体の性的使用権を「友達」にも譲渡するという形で抗っている。
また、日本の大和撫子に求められ続けた「慎ましさ」「穏やかさ」「清楚さ」というものの真逆にたつ行為だと言っていいだろう。
そして、男性を喜ばせるのではなく、自分の身体の決定権を自分に置いている女性が多く描写されているのも特徴であろう。(要検証)
マスキュリニティから逃走せよ。エモい文脈における男性像
エモいカルチャーに投影される男性において、筋骨隆々な男性はほとんど存在しないといってもいいだろう。その代わり、痩せていたり、太っていたり、従来の男性像から離れた姿のものが多い。以下例である。
vaundy
https://gyazo.com/d9fb381052d0f0677ececf8e45545f1f
藤井風
https://gyazo.com/488df932586158299ecc6649ef874e5c
対抗ではなくて防衛なのはなぜか?Optimistic nihilismからの分析
先述した通り、これらはもっと遡れば、1960年代から連綿と継がれてきた「カウンターカルチャー」が2010年以降の日本でガラパゴス的に発展していったものだと言っていいだろう。(以下カウンターカルチャーの解説)
1960年代のアメリカやヨーロッパを起点として、西側社会(主に資本主義システム)、旧来のキリスト教社会(同性愛、自由な性行為、離婚、中絶の禁止、厳しいものは自慰、避妊も禁止、多神教への不寛容と軽蔑、人間中心主義)に対する文化的な対抗、権威主義(家父長制、男性中心主義、国家主義、警察の暴力、戦争、徴兵、パワハラ)や保守主義(女性差別、人種差別、他文化への不寛容、民族主義)、エスタブリッシュメント、政治家、資本家・大企業(商業主義、金欲主義、弱者搾取、自然破壊)への反発などの抵抗は、ヒッピーなどの若者を中心にしたカウンターカルチャーとして発展した
しかし、彼らのように明確な「カウンター」を見せることはない。
どちらも基盤にあるのが社会に対するニヒリスティックな視点であるが、その先の行動が全く違うのだ
アクティビストたちが古典的な積極的ニヒリズムのようにニーチェが言う神の代替としての「超人」になろうとしているのに対して、エモいカルチャーの間で無意識的に浸透しているのはOptimistic nihilismである。 しかし、現代で流行しつつあるニヒリズムは今までのものとは異なる「陽気なニヒリズム」というのがガーディアンの主張。従来型のニヒリズムが「人生に重要なものなんてないんだ…… 私の人生は、一体なんなんだ……」といったものであるとするならば、陽気なニヒリズムは「人生に重要なものなんてないんだ!だったら人生を楽しもう!」というような考えだとのこと。
タバコ、夜遊びなどに見られる刹那的な今を楽しむ姿勢こそにそれが投影されている
@aaaaaatanaka: 他者を尊重しつつ、あくまでこの世は自分が楽しむために存在してると心から思いながら生きられたらとてもよいね 音楽的媒体でも同じようなことが見えてくるだろう。
80年代の対抗性を象徴する音楽として尾崎豊の「15の夜」がある。有名なフレーズとして
盗んだバイクで走り出す 行き先も解らぬまま
暗い夜の帳りの中へ
誰にも縛られたくないと 逃げ込んだこの夜に
自由になれた気がした 15の夜
2020年代の対抗性の象徴と言ったらAdoの「うっせぇわ」だろう
はぁ? うっせぇうっせぇうっせぇわ
あなたが思うより健康です
一切合切凡庸な
あなたじゃ分からないかもね
嗚呼よく似合う
その可もなく不可もないメロディー
うっせぇうっせぇうっせぇわ
頭の出来が違うので問題はナシ
大人的文化からの解放を望む姿勢や、夜に逃げ込む点など共通点は認められるが明確に違う点として、「盗んだバイクで走り出す」というフレーズがあるだろう
尾崎豊が大人たちに対して、「バイクを盗む」と言う大人たちに影響を及ぼす反抗をおこなっているのに対して、Adoに関しては「うっせぇわ」「頭の出来が違う」ともはや拒絶しているのだ。
ぱて氏のうっせぇわ論でもこのように語られている
この曲は「大人への抗議」を歌っていない。抗議とは、コミュニケーションである。若者が、盗んだバイクで走り出したり校舎の窓ガラスを割って歩いたりしなくなってもうずいぶん経つ。若者が大人世代に反発心を持っているなら、それは自分たちにわかるかたちで表現されるだろうと思う大人世代は、楽観的である。若者は、あなたの前では最後の直前まで「優等生」で「模範人間」だろう。
「うっせぇわ」が描いているのは、大人への断念であり、実際には語られることのない本音である。言うなれば、飲み会で年長者と談笑した翌日に辞表を出す若者の内面だ。事が起こったときにはそれは終わっている。コミュニケーションは必要とされない。
2022年の大晦日番組でお笑い芸人のたかまつなな氏の発言が象徴的だ。 「私は(『日本は立て直せる?』とする質問に対し)×にしたんですけども、理由としては日本社会でもう諦めがはびこってると思うんですね」
「実際に日本は『社会は変えられる』と思う若者が2割くらいで、これは先進国の中でもものすごく低い数字なんですね。企業や政治を見ても、年功序列で変な慣習とかが残ってたりとか、非効率だと感じているのに惰性で続いていることが多いと思うので、私は若者に権限を委譲したりとか、若者がどんどん社会を変えていくことが必要だと思って。そのために私は、やっぱり教育が必要だと思うんですね」
教育云々の話は本論と一切関係がないが、前半の日本社会に「蔓延る諦め」に対する分析、そしてそれを理解できない田原総一郎氏の「だったらこの国から出ていけ」という発言も「未来に希望があって世界を変えられてた世代」vs「それをもはや諦めてしまっている世代」のギャップが生じている明確な証左であろう。超人 vs Optimistic nihilismを参照するとわかりやすいかも また、エモい文化が気候変動のデモなどの左派運動との結びつきが確認できないのも同じような理由である。
本来なら家父長制の解体運動など、アクティビストが担った側面であろう。第三波以降のフェミニズムのフォーカスがそこに置かれていたように。しかし、我々はもう変わらないことを諦めた上で今を楽しむという文化がすでに浸透してしまっている。
故に何か働きかけをかける前にはもう拒絶して今を楽しむ価値観がすでに浸透してしまっているのだ。
もはや明示的に抵抗などするのではなく、諦める。そして頻繁に批判される若者の「冷笑」という形でのみ表にはそれが現れる。
エモさのこれから。形骸化とその先に
「エモさ」がもはや無視しきれない一つの潮流となった結果、巨大資本によるマーケティング手法として表面的に「エモさ」を攫って利用する形骸化が現在深刻なスピードで進行している(エレンウィリスのロック批判っぽさがある)以下はパッと頭に思い付いた例だ。 メトロアドエイジェンシーの社員が出した論文
選挙ギャルズ
俺たちのエモいを搾取するな!!!商業的なエモさに対抗しろ!!!これは僕たちが僕たちのエモさを戻すための宣戦布告だ!!!!
-.icon
以下執筆用メモ
家父長制に対する防衛としてのエモさ
自由恋愛
セフレカルチャーが持つ「エモさ」
@yoshiryo_1995: 『純猥談』は悲劇のヒロインを気取りながらセフレ沼にハマってるメンヘラ女さんのお涙頂戴エピソードを、可愛らしい絵柄とそれっぽい表現でなんかエモい感じにしてるだけ感が凄いので苦手 @_ona5_: たまにはセフレの話でもするか。シェフの話。仕事疲れてるのに呼ばれたからお邪魔したら餃子鍋作ってくれてたんだけど、ビールがうますぎて飲み過ぎてベロッベロの状態で、ホットカーペットの上で寝てたらいきなりバックで挿入されて目覚めた。ひたすらオナホ状態のセックス、エモい。以上。質が悪い。 性に奔放な女性というパターナリスティック思考では必ずタブーな概念がエモい文脈では大きく支持されている。
大量消費に対する防衛としてのエモさ
音楽
YoutubeやSpotifyによって音楽をインスタントに消費しては直ぐに飽きると言う
洋服
ユニクロなどのファストファッションが台頭してきて、大量に服を買っては捨てるを繰り返す文化になっている
それに対する防衛として「古着」
高度経済成長に対する防衛としてのエモさ
イケイケドンドンカルチャーに対しての気だるさ
「エモい」とされるものの例(執筆用。一旦列挙しておく)
インスタントカメラ
フィルムカメラ
古着
セフレ
短歌
セルアニメ
ネオンライト
LoFi Hiphop
レトロ喫茶
クリームソーダ
FIRST TAKE
シーシャ
夜遊び
タトゥー
ピアス?
レコード(LPレコード)
カセットテープ
短歌
Vaporwave
(傍流ではあるかもしれないけど、ピアッシング、タトゥー、リストカット)
純猥談
枕元の有線で宇多田ヒカルの『Automatic』が流れ始めた。「ねえ、懐かしくない? 」きっとまだ子どもだった頃の曲なのに、彼女は小さく鼻歌を口ずさみながらブラジャーのホックを外している 。
地元
枕元(気だるさ)
有線(音楽の大量消費に対する抵抗)
宇多田ヒカル
ブラジャーのホックを外す(家父長制に対する)
下北沢はエモい。だけど再開発はエモくない
ジェンダー、気候変動運動はエモくない。なぜ?
エモいを利用するおじさんたち
再現性がないことが大事で、さらに、本質はそのできごとの中にはなくて、その時の心の動きである その心の動きをなぞるようなものや場面に出くわすと懐かしい気持ちになる、ということ これがエモい
@aaaaaatanaka: あ、再現性がないという部分をもう少し補強したいな、「その心の動きをなぞるが、決してその時の動きそのものを再現することはできない、その違いにもう戻れないことを痛感させられる(こともある)」にしておこう エモさをおじさんに奪われていく今
今悩んでいること:「何か」に対する対抗なのはわかった。今はそれをおじさん文化とか親世代の価値観とか名前をつけているけど全くしっくりこない。(下の文章で防衛しているものが頻繁に変わっているのはそう言う理由だったりする)まあつまり機能法的分析がまだ完了していないんだけど...
防衛しているものとして
家父長制
大量消費文化
機械文明的な速さ
規範
「エモさ」とはアメリカのカウンターカルチャーの日本の回答である。
これがいいのかな?これを最初に出した上で、じゃあ「エモい」とは何に対する対抗なのか?を示した上でカウンターカルチャーとの違いって構成にするか
なんか今のところエモいとはxxxである!!みたいなわかりやすいフレーズが存在しない
元々「おじさん文化」に対する回答ってしてたけどそこまでわかりやすくない
そこから「大人世代」とか言い始めたけどやっぱ美しくない。
ガラパゴス化したカウンターカルチャーである。とかかな〜
これ面白いな。これにするか。
「ガラパゴス化したカウンターカルチャーとしてのエモさ」
public.icon「エモい」とは日本のカウンターカルチャーのガラパゴス的発展である。「エモさ」の帰納的構造分析
一旦頭にあるやつをなるべく乱雑に書いてみた。
このムーブが日本以外でも起こってることを考えるとそこまでガラパゴス的発展っていうのもよくない気がするな〜。けどこれ以上にいいワーディングが見つからない。
-.icon
目次
前書き
「エモい」とは日本のカウンターカルチャーのガラパゴス的発展である。
どのように防衛しているのか?
人生観に対して
なぜこの防衛が起こったのか?
おじさんに表層的に「エモさ」を利用され思想が形骸化していく様子
前書き
あとでかく
「エモい」とは日本のカウンターカルチャーのガラパゴス的発展である
カウンターカルチャーとは
1960年代のアメリカやヨーロッパを起点として、西側社会(主に資本主義システム)、旧来のキリスト教社会(同性愛、自由な性行為、離婚、中絶の禁止、厳しいものは自慰、避妊も禁止、多神教への不寛容と軽蔑、人間中心主義)に対する文化的な対抗、権威主義(家父長制、男性中心主義、国家主義、警察の暴力、戦争、徴兵、パワハラ)や保守主義(女性差別、人種差別、他文化への不寛容、民族主義)、エスタブリッシュメント、政治家、資本家・大企業(商業主義、金欲主義、弱者搾取、自然破壊)への反発などの抵抗は、ヒッピーなどの若者を中心にしたカウンターカルチャーとして発展した
ただ、重要な点として従来のカウンターカルチャーのように明示的に「反抗」を示すことはなく、「防衛」を重視しているところにある。(この理由に関しては後ろの方で述べるから気になったらそっち先に読んでね〜。
何に対する防衛なのか。
まずここで何に対しての防衛なのかを明記しておきたい。具体的には高度経済成長期及びバブル崩壊前に日本国内で浸透していた価値観である。今だと40代〜50代ぐらいの人間が抱えている価値観であり、いわゆる「おじさん」的と揶揄されるものが多い。
規範
労働
24時間働けますか?的な労働至上主義とも言える勤労態度
終身雇用などをベースとした生活
健康を重視する性質
早寝早起き朝ごはん
家父長制が強く残った恋愛観
「女性は慎ましく」「男性は男らしく」という性規範
「結婚」がゴールとなった恋愛観
しっかりとステップを踏んだ上でのお付き合い
大量消費文化
3種の神器などの新しいモデルが出るたびに買い換える文化
また、それに伴う拝金主義。
いい女、いい車、いい家などを追求するというもの
大量消費文化に対するエモさ
「エモい」カルチャーが提唱するものは新しい家電製品を買い替え、マイホーム、マイカー、ブランド品を追い求めるライフスタイルに対する防衛である。
ワンルームマンションというエモさの中心地
昔はイタリアにブランド物を買いに行ってアッシーとメッシーがいっぱいいたのよ〜。などと親世代が言うのをよく聞いてきたが、我々の世代ではそのような華やかな話をほとんど聞くことがない。代わりに失われた30年に始まり「若者の車離れ」、「若者の持ち家離れ」と言う経済事情に関してはネガティブなことを言われ続けた世代である。唯一華やかな話を聞くとしたら「パパ活でパパからブランド物とマンションの部屋とお金もらった〜」とどこからとなく流れてくる話であろうか。
となると文化が「金を稼ぐこと」ではなく「足るを知る」的な美学に向かうのも納得がいくことだろう。エモいカルチャーはまさにその潮流にいるのだ。高級なオーディオセットの代わりにレコードプレイヤー、シャングリアの代わりに間接照明。タワーマンションではなくワンルームマンション。
金銭的にリッチなものを部屋に揃える文化ではなく文化的にリッチなものを目指す文化となっているのだ。
「エモい」と称されることが多い「マリマリマリー」、「Study Girl」、「あいみょん」で部屋がどのように描写されているかを見ていてもその流れが見えるだろう。
マリマリマリー
https://gyazo.com/f4b50ad86e524da3b8b97edc41ea4099
https://gyazo.com/c641fcc180ae398c289a13f35c858e0e
Study girl
https://gyazo.com/f92d8827290329e6b26f42bf8d15c369
https://gyazo.com/ca41353277bfe285a26e5b2dc0d2e1ad
あいみょんの楽曲「愛を伝えたいだとか」
https://gyazo.com/503d6d3c90ed0b1654cae6d1a2cff2d3
あいみょんが出したフリーペーパー
https://gyazo.com/17452aafbf743b4336739b73480cfbb7
狭そうだけど文化リッチすぎる
ファスト消費と均一化に対抗せよ
社会学者ジョージ・リッツァは1993年の著書「マクドナルド化する社会」に於いて、「マクドナルド化」という概念を提唱した。簡潔に要約すると「グローバル化による文化の世界的な均質化に関する最近の(定量化)思想の中で、ファストフード店の原理がますます多くの分野を支配するようになること」だ。 エモいカルチャーは高速的に均一化が進む世界に対するカウンターとして昨日しているのだ。
エモいカルチャーの中心となっている00年以降の生まれの人々は遅くて小学生の頃にはスマートフォンの誕生を目の当たりにして、ボタンひとつしかないシンプルなインターフェースが主流になっていくのを見ていた。その進化は、手間のかかる操作は全て削ぎ落とされて、どんどんシンプルにわかりやすさと再現性を追求したが無機質になっていく進化だった。この効率性の追求と余白の喪失と無機質さに疲れ、温かみを求めているところに現れたのが「エモい」文化なのである。10年前の一眼レフよりもいい写真がスマホで撮れるようになっても、色が霞んでしまうフィルム写真に熱狂し、CGが発達し、進撃の巨人のOPに代表される「神作画」が量産されるようになっても、AKIRAのようなセルアニメのビビッドな色使いとどうしても入ってしまうノイズに憧れを抱くのだ。 エモいカルチャーの「昭和への懐古運動」とも見える性質もそれが理由なのだ。決して昭和の華やかさに憧れているわけではない。現代の冷たさに対するオルタナティブとしての温かみのある「昭和性」に需要があるのだ。この「素早い消費」と均一性から逃れようとする運動はフィルムカメラやアニメ以外にも確認することができる。(この下もっと書く)
食文化
スターバックスではなくてカフェにいこ
ダイソンではなく銭湯の扇風機
Spotifyも聴くけど、好きなものはレコードで。
エモいカルチャーに内包されているオブジェクトで重要な物としてアナログレコードであろう。
アナログレコードなど「ゆっくり性」の典型と言っていいだろう。spotifyなどが高速に新しい音楽を開拓することに極めて特化しているメディアに対してLPレコードは極めてゆっくりと同じアルバムを聴くことに特化したメディアと言ってもいいだろう。
ファストファッションではなく古着
自明だろこんなの
手書き文字vs機械フォント
https://gyazo.com/ddb1798c2488a07d4591086ec71923f8
レコーディングvsFirst Take
Youtube上でそのアーティストの「一発撮り」を収録するチャンネルが人気となっている。確実に「エモい」文脈に沿った物ではないにせよ、人気が出ている理由はエモいカルチャーの考察から納得がいくだろう。
規範に対するエモさ(流石にもっと書き足す)
早寝早起き健康に防衛せよ
ピアッシング
夜ふかし
エモいカルチャーのメインフィールドとして夜の世界がある
シーシャ、タバコ
「健康」
タトゥー
精励恪勤への対抗
「24時間働けますか?」
家父長制に対するエモさ
家父長制に対するエモさ
自由恋愛という家父長制の解体
セフレカルチャーが持つ「エモさ」
@yoshiryo_1995: 『純猥談』は悲劇のヒロインを気取りながらセフレ沼にハマってるメンヘラ女さんのお涙頂戴エピソードを、可愛らしい絵柄とそれっぽい表現でなんかエモい感じにしてるだけ感が凄いので苦手 @_ona5_: たまにはセフレの話でもするか。シェフの話。仕事疲れてるのに呼ばれたからお邪魔したら餃子鍋作ってくれてたんだけど、ビールがうますぎて飲み過ぎてベロッベロの状態で、ホットカーペットの上で寝てたらいきなりバックで挿入されて目覚めた。ひたすらオナホ状態のセックス、エモい。以上。質が悪い。 @secret_reality_: マカロニえんぴつの恋人ごっことか香水とかドライフラワーとか、キモいものをエモいように認識する時代の流れが嫌い。セフレはせフレだし元恋人は元恋人だし、本当に運命があったなら付き合ってるんだから今隣にいない時点で合わなかったんだろ。 これらの発言を見るに、「セフレ」「浮気」という事象がエモいと捉えられていることは共通認識として持っていいだろう
性に奔放な女性というパターナリスティックな思想ではタブーな概念がエモい文脈では大きく支持されている。
個人の選択の重要視って意味で、シモーヌ・ド・ボーヴォワールっぽさがある。
在学中に出会ったジャン=ポール・サルトルとは、実存主義の立場から自由意思に基づく個人の選択を最重要視し、婚姻も子どもを持つことも拒否。互いの性的自由を認めつつ終生の伴侶として生きた。
この文化を象徴させるものとして「純猥談」がある。
純猥談とは
佐伯ポインティによって作られた映像、文章を中心としたメディアである。
扱っている内容としては、セフレ文化や性に奔放に生きる女性の切なさがテーマとなっている場合が多い。単行本一冊めの副題、「一度寝ただけの女になりたくなかった」からもその様子は窺えるだろう。連綿と注がれてきたキリスト教的な「清く正しく」の文化を拒絶するかの如く、「友達」と性行為を行う。
https://youtu.be/wayGtiN9O3k
純猥談: 一度寝ただけの女になりたくなかった
セフレ文化がエモい文脈の中で存在感を放っているのも明確な理由がある。
旧時代的な恋愛観
上野千鶴子は結婚を以下のように定義した
「自分の身体の性的使用権を、特定の唯一の異性に、生涯にわたって、排他的に譲渡する契約のこと」
大和撫子という幻想
態度や表情が穏やかで、容姿端麗、清楚で言葉使いが美しく、男性を立てるような女性)
男性を喜ばせるさしすせそ
「さ」=「さすがですね!」、「し」=「知らなかった!」、「す」=「すごい!」、「せ」=「センスいい!」、「そ」=「そうなんですか!」
これらは全て女性が下に立ち、男性を立てるという構造となっているが、エモいカルチャーを取り巻くセフレ文化はこれが逆転しているのだ。
まず上野千鶴子の批判的結婚論に対しても自分の体の性的使用権を「友達」にも譲渡するという形で抗っている。
また、日本の大和撫子に求められ続けた「慎ましさ」「穏やかさ」「清楚さ」というものの真逆にたつ行為だと言っていいだろう。
そして、男性を喜ばせるのではなく、自分の身体の決定権を自分に置いている女性が多く描写されているのも特徴であろう。(要検証)
マスキュリニティから逃走せよ。エモい文脈における男性像
エモいカルチャーに投影される男性において、筋骨隆々な男性はほとんど存在しないといってもいいだろう。その代わり、痩せていたり、太っていたり、従来の男性像から離れた姿のものが多い。以下例である。
vaundy
藤井風
オレンジスパイニクラブ
対抗ではなくて防衛なのはなぜか?Optimistic nihilismからの分析
先述した通り、これらはもっと遡れば、1960年代から連綿と継がれてきた「カウンターカルチャー」が2010年以降の日本でガラパゴス的に発展していったものだと言っていいだろう。(以下カウンターカルチャーの解説)
1960年代のアメリカやヨーロッパを起点として、西側社会(主に資本主義システム)、旧来のキリスト教社会(同性愛、自由な性行為、離婚、中絶の禁止、厳しいものは自慰、避妊も禁止、多神教への不寛容と軽蔑、人間中心主義)に対する文化的な対抗、権威主義(家父長制、男性中心主義、国家主義、警察の暴力、戦争、徴兵、パワハラ)や保守主義(女性差別、人種差別、他文化への不寛容、民族主義)、エスタブリッシュメント、政治家、資本家・大企業(商業主義、金欲主義、弱者搾取、自然破壊)への反発などの抵抗は、ヒッピーなどの若者を中心にしたカウンターカルチャーとして発展した
しかし、彼らのように明確な「カウンター」を見せることはない。
どちらも基盤にあるのが社会に対するニヒリスティックな視点であるが、その先の行動が全く違うのだ
アクティビストたちが古典的な積極的ニヒリズムのようにニーチェが言う神の代替としての「超人」になろうとしているのに対して、エモいカルチャーの間で無意識的に浸透しているのはOptimistic nihilismである。 しかし、現代で流行しつつあるニヒリズムは今までのものとは異なる「陽気なニヒリズム」というのがガーディアンの主張。従来型のニヒリズムが「人生に重要なものなんてないんだ…… 私の人生は、一体なんなんだ……」といったものであるとするならば、陽気なニヒリズムは「人生に重要なものなんてないんだ!だったら人生を楽しもう!」というような考えだとのこと。
タバコ、夜遊びなどに見られる刹那的な今を楽しむ姿勢こそにそれが投影されている
@aaaaaatanaka: 他者を尊重しつつ、あくまでこの世は自分が楽しむために存在してると心から思いながら生きられたらとてもよいね 音楽的媒体でも同じようなことが見えてくるだろう。
80年代の対抗性を象徴する音楽として尾崎豊の「15の夜」がある。有名なフレーズとして
盗んだバイクで走り出す 行き先も解らぬまま
暗い夜の帳りの中へ
誰にも縛られたくないと 逃げ込んだこの夜に
自由になれた気がした 15の夜
2020年代の対抗性の象徴と言ったらAdoの「うっせぇわ」だろう
はぁ? うっせぇうっせぇうっせぇわ
あなたが思うより健康です
一切合切凡庸な
あなたじゃ分からないかもね
嗚呼よく似合う
その可もなく不可もないメロディー
うっせぇうっせぇうっせぇわ
頭の出来が違うので問題はナシ
大人的文化からの解放を望む姿勢や、夜に逃げ込む点など共通点は認められるが明確に違う点として、「盗んだバイクで走り出す」というフレーズがあるだろう
尾崎豊が大人たちに対して、「バイクを盗む」と言う大人たちに影響を及ぼす反抗をおこなっているのに対して、Adoに関しては「うっせぇわ」「頭の出来が違う」ともはや拒絶しているのだ。
ぱて氏のうっせぇわ論でもこのように語られている
この曲は「大人への抗議」を歌っていない。抗議とは、コミュニケーションである。若者が、盗んだバイクで走り出したり校舎の窓ガラスを割って歩いたりしなくなってもうずいぶん経つ。若者が大人世代に反発心を持っているなら、それは自分たちにわかるかたちで表現されるだろうと思う大人世代は、楽観的である。若者は、あなたの前では最後の直前まで「優等生」で「模範人間」だろう。
「うっせぇわ」が描いているのは、大人への断念であり、実際には語られることのない本音である。言うなれば、飲み会で年長者と談笑した翌日に辞表を出す若者の内面だ。事が起こったときにはそれは終わっている。コミュニケーションは必要とされない。
2022年の大晦日番組でお笑い芸人のたかまつなな氏の発言が象徴的だ。 「私は(『日本は立て直せる?』とする質問に対し)×にしたんですけども、理由としては日本社会でもう諦めがはびこってると思うんですね」
「実際に日本は『社会は変えられる』と思う若者が2割くらいで、これは先進国の中でもものすごく低い数字なんですね。企業や政治を見ても、年功序列で変な慣習とかが残ってたりとか、非効率だと感じているのに惰性で続いていることが多いと思うので、私は若者に権限を委譲したりとか、若者がどんどん社会を変えていくことが必要だと思って。そのために私は、やっぱり教育が必要だと思うんですね」
教育云々の話は本論と一切関係がないが、前半の日本社会に「蔓延る諦め」に対する分析、そしてそれを理解できない田原総一郎氏の「だったらこの国から出ていけ」という発言も「未来に希望があって世界を変えられてた世代」vs「それをもはや諦めてしまっている世代」のギャップが生じている明確な証左であろう。超人 vs Optimistic nihilismを参照するとわかりやすいかも また、エモい文化が気候変動のデモなどの左派運動との結びつきが確認できないのも同じような理由である。
本来なら家父長制の解体運動など、アクティビストが担った側面であろう。第三波以降のフェミニズムのフォーカスがそこに置かれていたように。しかし、我々はもう変わらないことを諦めた上で今を楽しむという文化がすでに浸透してしまっている。
故に何か働きかけをかける前にはもう拒絶して今を楽しむ価値観がすでに浸透してしまっているのだ。
もはや明示的に抵抗などするのではなく、諦める。そして頻繁に批判される若者の「冷笑」という形でのみ表にはそれが現れる。
エモさのこれから。形骸化とその先に
「エモさ」がもはや無視しきれない一つの潮流となった結果、巨大資本によるマーケティング手法として表面的に「エモさ」を攫って利用する形骸化が現在深刻なスピードで進行している(エレンウィリスのロック批判っぽさがある)以下はパッと頭に思い付いた例だ。 メトロアドエイジェンシーの社員が出した論文
選挙ギャルズ
俺たちのエモいを搾取するな!!!商業的なエモさに対抗しろ!!!これは僕たちが僕たちのエモさを戻すための宣戦布告だ!!!!
-.icon
以下執筆用メモ
家父長制に対する防衛としてのエモさ
自由恋愛
セフレカルチャーが持つ「エモさ」
@yoshiryo_1995: 『純猥談』は悲劇のヒロインを気取りながらセフレ沼にハマってるメンヘラ女さんのお涙頂戴エピソードを、可愛らしい絵柄とそれっぽい表現でなんかエモい感じにしてるだけ感が凄いので苦手 @_ona5_: たまにはセフレの話でもするか。シェフの話。仕事疲れてるのに呼ばれたからお邪魔したら餃子鍋作ってくれてたんだけど、ビールがうますぎて飲み過ぎてベロッベロの状態で、ホットカーペットの上で寝てたらいきなりバックで挿入されて目覚めた。ひたすらオナホ状態のセックス、エモい。以上。質が悪い。 性に奔放な女性というパターナリスティック思考では必ずタブーな概念がエモい文脈では大きく支持されている。
大量消費に対する防衛としてのエモさ
音楽
YoutubeやSpotifyによって音楽をインスタントに消費しては直ぐに飽きると言う
洋服
ユニクロなどのファストファッションが台頭してきて、大量に服を買っては捨てるを繰り返す文化になっている
それに対する防衛として「古着」
高度経済成長に対する防衛としてのエモさ
イケイケドンドンカルチャーに対しての気だるさ
「エモい」とされるものの例(執筆用。一旦列挙しておく)
インスタントカメラ
フィルムカメラ
古着
セフレ
短歌
セルアニメ
ネオンライト
LoFi Hiphop
レトロ喫茶
クリームソーダ
FIRST TAKE
シーシャ
夜遊び
タトゥー
ピアス?
レコード(LPレコード)
カセットテープ
短歌
Vaporwave
(傍流ではあるかもしれないけど、ピアッシング、タトゥー、リストカット)
純猥談
枕元の有線で宇多田ヒカルの『Automatic』が流れ始めた。「ねえ、懐かしくない? 」きっとまだ子どもだった頃の曲なのに、彼女は小さく鼻歌を口ずさみながらブラジャーのホックを外している 。
地元
枕元(気だるさ)
有線(音楽の大量消費に対する抵抗)
宇多田ヒカル
ブラジャーのホックを外す(家父長制に対する)
下北沢はエモい。だけど再開発はエモくない
ジェンダー、気候変動運動はエモくない。なぜ?
エモいを利用するおじさんたち
再現性がないことが大事で、さらに、本質はそのできごとの中にはなくて、その時の心の動きである その心の動きをなぞるようなものや場面に出くわすと懐かしい気持ちになる、ということ これがエモい
@aaaaaatanaka: あ、再現性がないという部分をもう少し補強したいな、「その心の動きをなぞるが、決してその時の動きそのものを再現することはできない、その違いにもう戻れないことを痛感させられる(こともある)」にしておこう エモさをおじさんに奪われていく今
今悩んでいること:「何か」に対する対抗なのはわかった。今はそれをおじさん文化とか親世代の価値観とか名前をつけているけど全くしっくりこない。(下の文章で防衛しているものが頻繁に変わっているのはそう言う理由だったりする)まあつまり機能法的分析がまだ完了していないんだけど...
防衛しているものとして
家父長制
大量消費文化
機械文明的な速さ
規範
「エモさ」とはアメリカのカウンターカルチャーの日本の回答である。
これがいいのかな?これを最初に出した上で、じゃあ「エモい」とは何に対する対抗なのか?を示した上でカウンターカルチャーとの違いって構成にするか
なんか今のところエモいとはxxxである!!みたいなわかりやすいフレーズが存在しない
元々「おじさん文化」に対する回答ってしてたけどそこまでわかりやすくない
そこから「大人世代」とか言い始めたけどやっぱ美しくない。
ガラパゴス化したカウンターカルチャーである。とかかな〜
これ面白いな。これにするか。
「ガラパゴス化したカウンターカルチャーとしてのエモさ」
public.icon