メタノウハウ論
僕たちは、ノウハウを得るためのノウハウを持っているか?
何かを読んだだけで、それができるようにはならない。にもかかわらずうまく書かれたものはできる気になってしまう。そこから始まるトラップがある。
現代におけるノウハウ情報とのつき合い方がどう考えても健全なものではないと感じているので、そのことについてはしっかり考えをまとめていきたい所存。
2025年にもなって、「早起きすれば、人生ハッピー」みたいな本が新刊で出版される謎
それが学術論文との大きな違いだろう。既存の研究の「上に」何かを積むようなことになっていない
たぶん何かしらの意味で「新規性」が感じられるものであればそれで条件を満たせる、というところがある
もちろん、そうした営みにも何かしら意義があると想像することはできる
ノウハウ本で書かれていることが「そのまま」役に立った経験はほとんどない
一方で、そうしたノウハウ本が役に立たなかったか、というとそういうこともない。
その間にあるものを考えたい
基礎を固めることも、立ち止まって分析することも、より根本的に考えることもせずに、入ってきた新しいものに対応しているだけ。そういうことが繰り返される。
雰囲気ドリブンの仕事
「ぜんぜんわからない俺たちは雰囲気で株をやっている」
具体的な個々のメソッドが問題というもっと手前に、物事に対するアプローチが決定的に不足している
構造として「君はぜんぜんできない。私が答えを教えてしんぜよう」というタイプのノウハウはゴーレム効果を起こしていそう。
自己認識として「自分はできないやつだ」が刷り込まれる。
それでは自発的な問題解決能力は発揮されないだろう。
「できないやつ」にされてしまう。その状態が維持することも含めて。
たぶん、わかりやすいノウハウ書かつ押しつけがましいノウハウ書は、「できない人」を大量生産している気がする
ノウハウにおける理論と臨床