ブックカタリストBC139用メモ
二冊からテーマを取り出すという試み
本を眺める二つの視点
本をつなげて読む
もともと本はつながっている
本はつながっているとは言え、そのつなぎの取り出し方に妙がある
程々で、意外なつながりが面白い(非研究者向け、市井の知的生産・知的生活)
第一回は『ケアと編集』と『遊びと利他』の二冊
フラクタルな構造
二つを並べる本を二つ並べる
岩波書店 2025/4/22
著者:白石正明さん
1958年生まれ。医学書院(2024年に定年退職)。編集者。2000年にケアをひらくシリーズ 目次
Ⅰ いかにして編集の先生に出会ったか
1 ケアとは
2 べてるの家との出会い
3 編集の先生
Ⅱ ズレて離れて外へ
1 問いの外に出ざるを得ない人たち
2 分母を変えるのが編集
3 吃音者は分母を変えて生きていく
4 面と向かわない力
Ⅲ ケアは現在に奉仕する
1 ケアと社交
2 消費と浪費と水中毒
3 今ここわたし
4 ナイチンゲールを真に受ける
Ⅳ ケアが発見する
1 原因に遡らない思考
2 手を動かすより口を動かせ
3 同じと違う
4 いつも二つある
Ⅴ 「受け」の豊かさに向けて
1 蘭の花のように愛でる
2 受ける人
3 いい「波」はどこから来るか
4 受動性と偶然性
Ⅳ 弱い編集――ケアの本ができるまで
1 山の上ホテルのペーパーナプキン
2 魔法と技術のあいだ
3 弱いロボットの吸引力
編集とケアは似ている?
著者を励まし、応援し、執筆に向かわせる仕事はたしかにケアっぽい
それ以外の点でも似ていると著者
さまざまな賞を授賞しているが、それ以上に
ケアという行為そのものが難しい。ケアについて書くのはもっと難しい
なぜケアは難しいのか
今の世の中の基本的な価値観と逆のことをやっている
自律・自立志向や、効率志向ではない
志向性そのものとの距離感「→未来の目標のために現在を手段にする」
むしろケアは「現在志向」だと思う。今を少しでも楽にする。痛いことはしない。この場にある不快をとにかく除去する。そこに居られる「現在」をつくる。
→刹那的
「今、ここ」で困っている人に手を差し出せる人は、太陽や空気や地面と同じように、この世界をどうにか存続させている基底的な条件である。こうした人たちが世界のバグを始終補修して、手入れしている。ケアはこうして「今、ここ」を成立させている。
そうやって整えられた舞台の上で、自己啓発とかリスク管理とかコスパとか一獲千金とか革命の夢とかが、スポットライトを浴びながら歌ったり踊ったりしているわけだ。
著者にとっての編集の先生
北海道にある精神障害者の生活拠点「べてるの家」のソーシャルワーカー、向谷地生良(むかいやち いくよし)
後から振り返ったときに、自分の仕事(編集)をしている中で、向谷地さんが編集の先生だったと事後的に思い当たった
医療と介護
最初は「介護系の雑誌をつくってほしい」と依頼があった。福祉系出版社から医学書院という医療系出版社に移った(1996年)。その10年前に、介護福祉士という国家資格ができたこともあり、介護が社会的な注目を得ていた。
しかし、医療系専門職向けの書籍や雑誌をつくってきた既存のシステムでは、福祉の本はつくれそうになかった。
なぜか。医療は、具体的な「技術」と専門用語の世界。論理構造も明確で、「こうやればこうなる」が成立する。どう書くのかもおのずと決まる。さらに医療は「肉体そのもの」を扱う。それ以外の要素(当人の性格や貧富の差など)は「ノイズ」として扱われる。
福祉はその「ノイズ」こそを正面から取り上げる。その人が、具体的にどんな人であり、どんな環境で生活しているのか、何を欲しているのかを無視しない。医療は、客観性ベースの世界だが、福祉は関係性ベースの世界。
実務では、まだそこにいる人を起点に「チーム」ができるが、文字列だけになると難しい。
たとえば?「個別性」の扱い。うまくいった事例が報告されたとして、「1件だけでしょ」 or「汲むべき知恵が潜んでいる」
編集から営業に移ると、さらに替わる。端的に言えば可処分所得が違う。
→よって当初の雑誌作りは諦めて、精神科領域の看護雑誌をつくることに『精神看護』
→いろいろな精神科病院を回ったりしているうちに「べてるの家」
非常にかわった場所で、いろいろなイベントが行われている→「幻覚&妄想大会」
その一年でもっともすばらしかった(仲間同士をつなげた)幻覚妄想を表彰する
精神病はコミュニケーション不全の病
やがて「本」を書いてもらうことに
軽く差し込まれる「当事者研究」についての説明
当事者研究とは何でないか?
自分語りではない→「自分」ではなく当事者、「語り」ではなく研究
ひとり作業ではない→複数人で行う。自分のことは自分がいちばん知っている/知らない
反ではなく非
『べてるの家の「非」援助論 そのままでいいと思えるための25章』
最初は「反」だった。
「反」というのはなんか貧しい。
精神医学と反精神医学
幻聴に対してのつき合い方
少々の薬を飲み、"幻聴さん"と名づける
二項対立をずらしている
両極から見れば「中途半端」→むしろ積極的にそう
以降、「あれかこれか」と問いつめられるような真面目な場所からはさっさと逃げる方向で〈ケアをひらく〉シリーズは続いていく。
編集の先生として
まったくしゃべらなくなった女性→あるとき、講演の舞台に上げる
著者もの上でしゃべったが、緊張はしなかった
試されている感じがしない
それはおそらく「ありのままでいい」とか「ふだんのままでいい」という言い方で表されるような事態ではあるのだが、そういう積極的なニュアンスではない。むしろ「何があってもいい」ぐらいの投げやりなニュアンスであって、その感覚自体を向谷地さん自身が漂わせていて、会場もその雰囲気に包まれている。
「試されている感じがしない」というのをもっと正確に言えば、ある理想の姿と現在の姿の差分を見られている感触がないということである。それは「あなたにはもっと可能性があるんだ!」みたいなことでもない。可能性といった時点で、今よりよき将来像のほうに軸足がある。(中略)そうではなくて、今ここの時点のこの姿でもう十分だよ、という感じ。成長を求めないという意味では諦めといえば諦めだが、こうした諦めの視線はつねに今この現在を肯定する。
もっと言えば、否定も肯定もしない。肯定しようが否定しようが、自分がそこにいる。「評価より存在のほうが強いのだ」
認める
摂食障害の当事者研究でまずやること→「どうやったら食べ吐きがうまくできるか」
彼女たちには、長年培われたノウハウがある。ポッと出の医療者なんかに負けるはずがない。こうした研究成果を発表して、聴衆に大ウケしているうちに、摂食障害を恥じていた彼女自身がなんとなく変わってくる。
「いいも悪いもなく、そんな貴重な経験をして、自分の身体で実験をしながらオリジナル技術を開発しているあなたのことについて教えてほしい」というおんが彼のいつものスタンスである。
「あるがまま」を承認するだけでもない
図はかえないけど、地をかえる
精神にかかわる病気の場合「手術して病巣を取り出して終わり」とはいかない。
「それは本当に取り出すべき病巣なのか?」
そこだけを切って取り出せるのか?
環境次第では長所になるようなものなのではないか?
講演で舞台にたち、話をして、受ける→社会的な承認が得られている
きちんと生活して地域で認められることからはじめるべき?
でも、その基本は実は難しいものなのではないか(健常者にとって簡単だとしても)?
医療的編集とソーシャルワーク的編集
治療という名で「改変」するのが医療
モノ自体には手をつけずに周囲との関係を改変するのが向谷地さんのソーシャルワーク
→医療的編集とソーシャルワーク的編集
「こんな文章では読者には理解されない」という建て前のもとに、自分で理解できる範囲に著者の思想を縮減しているだけなのではないか?
「未知」というノイズを削り取ってしまた結果、「既知」のことしか書かれていないから、直した本人としてはすっきりわかりやすいが……。
集英社新書 2024/11/15
著者:北村匡平(1982年生まれ)
映画研究者、批評家、東京科学大学リベラルアーツ研究教育院准教授。専門は、映像文化論、メディア論、表象文化論、社会学。
主な著作『椎名林檎論 乱調の音楽』、『24フレームの映画学――映像表現を解体する』『彼女たちのまなざし 日本映画の女性作家』『アクター・ジェンダー・イメージズ』
【目次】
序 章 21世紀の遊び場
第一章 利他論――なぜ利他が議論されているのか
第二章 公園論――安全な遊び場
第三章 遊びを工学する――第二さみどり幼稚園
第四章 遊びを創り出す――羽根木プレーパーク
第五章 森で遊びを生み出す――森と畑のようちえん いろは
第六章 遊学論――空間を組み替える
第七章 学びと娯楽の環境
終 章 利他的な場を創る
まえがき
偶然性の欠如→観光と旅の対比
無駄のない営み、ファスト映画、コスパ、人よりもはやく
すべてに共通するのは、目的(ゴール)が設定され、それを達成するためにいかに無駄や脱線なく、効率的にたどり着くか、という思考でしょう。
→管理化、効率化が進んでいる。フィルターバブル的なもの
インターネットに限らない→「遊び」の空間にも浸透している
洗練されている公園:豪華な複合遊具、そして障害の有無にかかわらず誰でも遊べる安全な遊具(インクルーシブ遊具)
→多様性の時代に合わせた環境
しかし、実際の子ども遊びを観察していると、違和感を覚え始めた
公園は時代の変化を体現する場所であり、社会の縮図でもあります。遊び場は、私たちの社会を映し出す鏡といってもいいでしょう。
→それを内側から観察し、社会の危機的状況を描く、というのが本書。
効率は社会の運営においてたしかに必要だが、はたして「遊び」までそこに含まれるのか?
遊びの豊かさを取り戻すために注目したいのが「利他」
著者は利他ときくとちょと身構えてしまう。「利他主義」という言葉は自分とは違う立派な人の振るまいに思える
ではなぜ「利他」に注目したのか?
たまたま。→偶然性
利他は難しい。利他的であろうとすればするほど、利己的なものに反転してしまうことが少なくない
本書では強い意志をもって利他的になろうという発想を捨て去ることからスタートします。むしろ、人間というより、どのような空間や環境が利他的な力を作動させるのか、という視点を重視しています。
→遊び場からいかにして利他が立ち上がるのかを考える
序 章 21世紀の遊び場
遊びと学びの連続性(娯楽と遊びの違い)
コロナ禍で、子どもを公園に連れて行くことが増えた。自分の認識の公園と大きく異なっていることに衝撃を受けた
遊具も異なるが、子どもの遊び方も異なる
第一章 利他論――なぜ利他が議論されているのか
他者に開かれた利他的な遊び場と、そうでない利己的な遊び場がある
利他主義(Altruism)(オーギュスト・コント)、日本では平安時代の空海
利他主義の系譜、ANT(アクターネットワーク理論)との接続
メディアとしての遊具
第二章 公園論――安全な遊び場
使える年齢ごとに分けられるトランポリン遊具
入り口と出口が決められ、回数が決められているブランコ
遊具によって「遊ばされている」
想定していない遊び方をする子どもたち
第三章〜第五章
第二さみどり幼稚園、羽根木プレーパーク、森と畑のようちえん いろは
第六章 遊学論――空間を組み替える
遊びの研究
現代社会では、「めまい」(ミミクリ)の要素を奪っている
遊び場から危険性を取り除き、計算可能なもので埋め尽くし、陶酔や混沌を体感させる要素
カイヨワによれば、文明への道は、「模倣+眩暈」を除去し「競争+運」を上位に置く
混沌の社会から、計算の社会への変化
翻訳者の多田道太郎が、社会学者作田啓一を参照して整理した図
https://gyazo.com/575c9eaa18c70bd72428afa554840f9e
近代社会への道筋は、「模倣+眩暈(混沌/脱自我)」→「競争+運」(計算/脱所属)だが、子供の遊びにおける創造力や利他の契機を考えると?
ミミクリ→他者のイメージや見立て、イリンクスは崇高さ、危険性や自らの限界を知る、興奮した身体とのつき合い方
遊びにおいて自分の限界まで挑戦して達成感を味わうために、眩暈体験はなくてはならない要素だといっていい。
暇や退屈とうまく付き合えない子供→能動的に遊びを生み出すのが苦手になっている?
大人がやるべきは、ひたすら「待つ」こと
何かが子供から能動的に生まれてくるのをじっと待つ──。子供から暇や退屈を奪ってしまうのではなく、創造性のために放っておく。そこで与える遊具や玩具は、画一的な遊びを規定するモノではなく、余白があり、インスピレーションを刺激する存在である方がよい。
寛容と歓待
遊具
グローブジャングルとドーナツ型のスーパーノヴァ
https://gyazo.com/d295c8e0f453b7e9f933bd06f76906ed
斜めに設計されている点が面白い
その中動態的な遊びのありように、おそらく遊びの利他性が潜在しているのではないか。自らの楽しさのために動かす行為が、思いがけず別の人の楽しさになっている。
遊具が遊び手に一方的に画一的な遊びを強要するのではなく、遊び手が自らの潜在能力を発揮して、遊びの歓びを味わうこと、逆に遊び手はモノの多様な側面を引き出してその存在を活かしているかも重要な要素である。
「斜面」だけで子供は喜んで遊ぶ。
第七章 学びと娯楽の環境
2000年代に大学から、「サードプレイス」の機能を持つ空間がなくなってきた
早稲田大学の地下部室とラウンジのサークル・スペース、東京大学では駒場寮の学生が強制退去
管理できないものを公共空間から締め出す
学びの空間はいかにあるべきか
「半透明な空間」であるべき
有る程度間違いが許される中間的な空間
大学でも「正しさ」が追求される。「悪」について論じるのが難しくなっている
完全に計画的なシラバスが良いシラバス
既知のものは安心だが、未知なるものは不安で恐ろしい。これは子供の頃、恐ろしいものや危険なものを、大人があらかじめ遠ざけてきたからだろう。
学びの場から不安や危険、恐怖といった負の要素で感情を刺激するものが排除されていき、安心でき、刺激の少ない、心地よいものばかりが求められる環境になりつつある。このままでは負の感情を引き起こすものに遭遇したとき、自分の感情と向き合えなくなる。
その意味で読書は「旅」に似ている。「観光」とも「旅行」とも違う、旅程が明確に決まっていない「旅」。
Part3:二冊から導かれるテーマとは?
偶然性と意図(意志・自我)