textLineからの移行分
思考力の高低
思考力の高低というのは線形ではなく、段階的に相転移していくものではないだろうか。
二人で書けば楽か
というとそうでもない。なんとかの法則っぽいものが起こることもある。
作家の一人性
共著がおおい分野とそうでない分野がある。
物書きは、他人と協調できないから物書きをやっている。
一人の人間の頭の中にある世界観を具現化させることが本であるならば、二人ではやりにくい。
しかし、キャラクター小説ならばどうだろうか。これは案外できるし、そういう未来が切り開かれて行く可能性は高い。
紙の本
共著がおおい分野とそうでない分野。
他人と協調できないから物書きをやっている。
一人の人間の頭の中にある世界観を具現化させることが本であるならば、二人ではやりにくい。
しかし、キャラクター小説ならばどうだろうか。これは案外できるし、そういう未来が切り開かれて行く可能性は高い。
紙の本
読書の弊害を本で語り、本の有用性をWeb記事にする。そういう変換というか「橋渡し」が必要な場合もある。でもって、そこに含まれる戸惑いというか異化の感覚が、さらなる思考を導く。
歯車
歯車というよりも、関数な気分。
引数を受け取り、結果を返す。
価値
価値とは見出されるものである。
あなたが世界の価値を見出す。
誰かがあなたの価値を見出す。
価値は見出されるもの
自分にとっての世界の価値
見出せる力が、世界の価値を決定する
都市ー人間の人工性と自然性
人間には、理性と本能がある。
「人間らしさ」は、機械と対峙されるとき、動物的な部分が強調され、他の動物と対峙されるとき、理性的な部分が強調される。本当は両者が織りなすものが人間らしさであろう。
コンビニとドラッグストア
数年前までは、各食品メーカーがさまざまな切り口の新商品を発売していた。ソフトドリンク然り、お菓子然り、カップ麺然り。しかし、最近、ものすごく話題になるような新商品が激減している。
コンビニとドラッグストアの違いはいろいろあれど、新商品を積極的に並べるという点が大きかったように思えるが、この新商品の力不足のせいで、コンビニの優勢が崩れて、ドラッグストアの攻勢につながっているのではないか。
宿題とパズル
宿題は人に任せたくなる気持ちはある。クロスワードやナンクロはぜひとも自分で解きたい。
自分で使うツールのアルゴリズムを考えるのはどちらになるか。
コンテンツとコンテキスト
コンテンツは点、コンテキストは流れ、コンテキストのコンテキストは面を構成しはじめる。
課題がタスクであるとは限らない
ワンアウトラインは雑多を許容する
「ワンアウトラインの思想」と「雑多」は、響き合う概念。
沼と価値
家に本がたくさんある人は、本がたくさんあるところを喜ぶ。そこには収穫逓減のようなものはほとんどなく、むしろネットワークの外部性に似たものがある。たくさん何かを売りたいときは、そっちに注目したほうがよい。
平等と個体差
人には個体差がある。すべての生物がそう。個体差があるから活きている。
が、主としての共通点もある。「平等」とはそのことだろうか。
あるいは、個体差があるからこそ、その上に築かれる概念だろうか。
複数のプロジェクトはいかに管理するか
この場合の「管理」とは具体的に何を意味するのか。
リマインド、記録の引き継ぎ、あとは?
憧れと磁力
私たちは何かの指針が必要だと感じる。
妻の行動が移るというのはどういうことか
人間はどのように自分の行動を決定しているのか
家計を支えていた人の職業形態
本を書く上で苦労したこと
物語を書くことに興味はあるか?
人間が生きる上で執着心とどのように付き合えばいいのか
無視する?無くす?それとも?
雑多と誤配がフィルターバブルを突き破る
フィルターバブル対策は、送り手と受け手の二つの視点がありうる。
現代のインターネット
「気になる」
「わかった気になる」
脳のmode
説明文を書いている脳では、小説は書きにくい。
コードを書いている脳では、アイデアは言葉ではなく関係性のイメージのように思い浮かぶ。
システム分析
エンジニアリングからの再構築
読み手への橋渡し
読書の弊害を本で語り、本の有用性をWeb記事にする。そういう変換というか「橋渡し」が必要な場合もある。でもって、そこに含まれる戸惑いというか異化の感覚が、さらなる思考を導く。
想像と行動の橋渡し
理想は想像であり、踏み出す一歩は現実である。
すべての意見は傾聴する価値があるのか
どれだけ愚かしく、間違っているように見えても。
あるいは罵倒でしかないものでも。
想像と行動の橋渡し
理想は想像であり、踏み出す一歩は現実である。
「考える」には何が含まれるか
深く考えるとは何か?
思考の分布と様式を捉える
分類についての学問はあるか
『分類思考の世界』など。
私たちは、何気なく分類するのか。それとも、何かに沿って分類するのか。
分類は技術なのか、そこに高度さや熟練度合いは存在するのか。存在するとしたら、そこにある差異とはなんだろうか。
「学ぶ」とは何なのか
具体的にそれはどのような行為・営為を意味しているのだろうか。
そのことを私たちは、どのように「学ぶ」のだろうか。
説明することと人に技術を伝達すること
そこでのノウハウ
説明にはいくつかポイントがあり、技術の伝達には実践が欠かせない。
教習所は何をしているのか?
習熟には、意識の関与が必要で、それを全体的に行うか、個別的に行うかの差がある。
全体的を目指すと、時間がかかるが、急激に全部できるようになる。
個別的は、一つひとつをステップアップして身につけるようにする。ただし、結局は最後まで通してできるまで時間はかかる。違いは、途中に自信が生まれるかどうかだろう。
自分のレジの教え方を振り返ってみてもいい。
有害なプロセス提示
「○○(行為)は、▽▽(結果)を得るためのスタート地点です」というのを、「○○していれば、▽▽が得られます」と歪めて伝えるのは、結構害があるのではないか。単純に情報が欠落していることもそうだが、適切な失敗が生まれにくいような気がする。
プラグインを例に考えてみる。既存のシステム(系)にプラグインをインストールする。そのプラグインは、絶対に完全な動作を保証すると謳われている。で、それを導入すると不具合が生じる。なんならコピペでもいい。間違ったコードが提示されていて、それをコピペする、とする。そうなると、不具合が生じるのは、プラグインではなく、もともとあるシステムのような感じがする。そうして、変えなくてもいいところを変えてしまい、より混乱が深まる。状況も改善されない。でもって、無力感の学習が行われる。
「〜を書く」で満ち溢れたタスク
それが意味するのは何か?
問いについて考える前に
「〜〜をしているから、○○になるのではないか。では、どうしたらいいか」と考えるのはあまりうまくない。ここには二つの前提が組み込まれている。対象の人たちは〜〜をしている。〜〜をしている人たちは○○という結果になる。この両方が成立している状態においてのみ、「では、どうしたらいいか」を考えることに意味がある。
すべてをワンラインにまとめると小さいものの数が圧倒的になる
思考の巧拙
「考える」をスキルとした場合、そこには当然巧拙が生まれる。ただしそれは、線形は変化ではない。言い換えれば、何かのボックスにアイテムが一つひとつ増えていくような変化ではない。ある閾値を超えると、急激に状態が変わるような変化だ。そこにあるのは、おそらく「問い」との付き方、処理の使い方についての質的な変化だろう。
知識は古くなる、読み物はどうか。
そうしたとき、巨大なアーカイブは何を意味するか
一度一通り書き、その後分解して、入れ換える
考えるときに頼りにするもの
自分なのか、他の誰かなのか。森先生の本からインスピレーション
分類するから樹形図となる
分類とは、一意にさだめるということだ。排他的なポジションをそれに与える、ということになる。
だからこそ、一意に定まる樹形図と相性が良い。分類は、樹形図(ツリー思考)を呼び込む。
就寝時間と自分
自律神経。自分で眠ることができない。そのときの「自分」とは何を差しているのか。
「自分」不全。
プロジェクトのスイッチングと継続的思考
気になることはうつろう。でも、継続的な思考は必要となる。
以前考えていたことが必要となる。
それをいかに担保するのか。という点で、プロジェクトノートは必要となる。
今することはどうやって決めるのか
プロジェクトはいかに管理するか
一週間分の原稿領域をあらかじめ作成するか
書籍はどうなるか
タスクの扱い方は一種類ではない
でも、チェックリストは一通りしか機能しない
この点に大きな問題がある。
頭の良さとは何か
何を持って頭が良いとするのか。
知的生産の技術を分類すると?
生産よりか、生活よりか
アウトプットかインプットか
個人で必要か、集団で必要か
何に注目するかで分類の仕方も変わってくる
箇条書きの方がザッピングしやすい
Scrapboや、バレットジャーナルで箇条書きが重視されている一つの理由。
モードレスとシームレス
ここで出てくる「モードレス」は、writingstopが目指しているものと近い。私の中ではそれはシームレスとなっているが。
執筆工程におけるモードとモードレスについて考えたい。
必ずしもモードレスだけで構成されていればよい、というものではないだろう。
ただし、モードレスな方がいいこともある。
これは、プロジェクトによってファイルを分類しない、という話とも近い。
でもって、最近の「アプリ化」によって、むしろ知的作業のモード化が進んでいる、という点はある。その点紙のノートは、モードレスなことが多い。
デコード・エンコード・レコード
読むこと、書くこと。解釈すること。
コードがあるからこそ、これらが発生する。
話し言葉は、コードだろうか。
本が売れないは本当か?
何が売れているのか
もともと本は売れないもの
読み手に届けるための手段は変わりつつあるかもしれない
面白い本は生まれているのか
独学の反対は?
「学び」ということのそもそもの意味は?
カードに与える操作には何があるか
リンク
配置(移動9
グループ
原稿用紙は有限家の装置である
マス目があるから、書ける。
マス目が限られているから、書ける。
どれだけ進んだかは枚数で計算できる。
でも、とりあえずは目の前の数百文字に集中できる
エントロピーと再生産
デジタルだからできること
本作りと材料を育てることの違い
粒度によって必要なことは異なる
配置こそが情報である。
言葉の並びが意味を発生させる
情報伝達のうえで必要なものはどの粒度までなのか
それ以外はどんな形になっていればいいか
自分は何について、どう考えているのか
それをどう把握し、どう管理するか
テーマは日本語で何というか?
主題、題目など。
思考の主題
習慣がその人なら、意識はどう位置づけられるか
アリストテレスは間違っていたのか
思考の技術と知識の技術
この二つは同じだろうか、違うだろうか。
違うとしたら、どう違い、どう影響しあっているか。
質問によってのみ引き出される暗黙知
本人に自覚がないので、wikiに書いて下さい、とは言いづらい
アイデアメモ管理における肝
アイデアメモの管理においては、普通に想像してつけられるタグではなく、それらのタグを関連づけたり、あるいは統合して一つ上のタグを作ったりすることが重要な気がする。
個人の知を集団の知にどう繋ぐのか
はじめから集団で蓄積するのか、それとも個で溜めた知を変換し集団へ送り込むのか
名前空間
名前空間のないインターネット。
タスク管理話も、それで混乱している。
道具作りは大切
人類は道具作りを繰り返して文明を作り上げてきた。
最初に小さな道具を作り、その道具を使って中くらいの道具を作る。再帰的に道具作りは繰り返される。
だから、小さい道具でも公開することは大切だ。特にそれが、別の何かを作り出すための道具であれば。
メンテナンス性
オブジェクト指向は、プロジェクトが大規模になったことで、メンテナンスの重要性が上がったことで注目された、という。
だったら、ノウハウはどうか。
面白い小説は売れるのか、そして文学は死ぬのか。
>「小説は中身では売れない」藤井さん。ひいいいい。「はじめから前のめりじゃない人を引き込まないとだめだよね」ぐえっ。でもほんとそうだよなあ。<<
小説の「面白い」とは何か。
プロダクトとしての面白さ(マッサージのようなもの)、文学としての面白さ(ナイフのようなもの)。
市場主義は適者生存。プロダクトとして評価される。文学としては評価されないばかりかマイナスになる。
ビッグデータで文学は生まれるか問題
では文学は死ぬか。
死ぬわけがない。無茶苦茶天の邪鬼で、こだわりが強い人たちが、紡いできたものだ。
それは大半は忘却されるだろうが、時間が経てば誰かがそれを掘り出すということはあるかもしれない。そういう「場」があれば、なおさらだ。
文学は、死なない。
人類が、死なない限りは。
雑多なるものの可能性
雑多なるもの 多様な可能性を持つ。しかし、それはソートを求めている。ソートの先駆け。
それは配列されていないもの。組織されていないもの。順序立てられていないもの。混ざり合ったもの。異なるものが交じり合ったもの。複数の顔を持つ者。多方向・多方面に属するもの。 すなわち汝の名は、雑多。
ワンアウトラインとマルチコンテキスト
雑多とは、マルチコンテキストのことである。
ワンアウトラインであるから、必然的にコンテキストのるつぼになり、
それがコンテキストの交じり合いを促す。
別の仕方のコミットメント
ある種のコミットメントの限界を感じているときに、デタッチメントに逃げることも有用な手段ではあろう。相対化はできる。しかし、デタッチメントにも限界がある。
必要なのは、別の仕方のコミットメントではないだろうか。
世の中を嫌うことで一定の心の安定は手に入るかもしれないが、社会へのコミットを欠いてしまうと、いろいろなものが壊れていくかもしれない。
人嫌いは嫌われる
他人のことが嫌いな人は、大抵他人から嫌われる。
しかし、そのことに無自覚であることが多い。
共同で作り出すもの
将棋は一人ではさせない。囲碁漫画でも良く出てくるセリフだ。
社会は一人では成立しない。
自分がやっていないことは、他の誰かがやっている。
自分がやっていないなら、誰かがやってくれている。
mobは単なるmobではない。
そういう認識を持つこと。
ポストトルゥースとは「個人的真実」
客観的、公共的な真実ではない。
それはつまり、公共空間の消失を意味している。
個がたくさん存在するだけの場所。
社会ではないような場所。
脳のメモリを解放する
だいたいのことはすぐに決定すること。
もし、しばらく考えて結論が出せないようなならば、今は結論を出さないと決定する。
そうして、どこかに書き留めておく。
それが脳のメモリを解放する、ということだ。気になることをずるずると引きずっていてはいけない。使わないタブは消す、使わないアプリケーションは落とす。そうして脳に余裕を持たせる。
それでもなお、まだそこに火が灯っているなら、僕はそれを目指して進もうと思う。これ以上の暗闇など、もうどこにもありはしないだろうから。
ビッグブラザー=ビッグナラティブ
ビッグブラザーとは支配者のことであり、大きな一つの視点でもある。それはすなわち物語だ。
人々が持つ物語が、その大きな物語と完全に同調している状態。それが『1984年』では語られる。
社会に住む人々の物語の力が弱まるとき、ビッグブラザーは降臨する。
人は物語なしには生きていけない。自分でその物語を紡げないのならば、その隙間に誰かの物語が滑り込んでくる。
自分真理のでき方
自分の体験を安易に一般化して呟く→同じ体験をした人は共感する、そうでない人は反発する→フィルターバブル内では後者がシャットアウトされる→真理であるように感じられる
ノウハウと情報の調理法
ノウハウ本はその本で完結するように書かれている。しかし、他の本の内容との衝突までは考慮されていない。また、すでにノウハウを持っていることも想定していない。そのままだと、ノウハウ同士の衝突が起こりうる。
なぜそのノウハウが必要なのか、それはどのように機能しているのかを考えないと、うまく使えない。情報を調理しなければいけない。その調理力がないと、情報を活かせない。「この本には役立つことが書かれていない」という感想抱く場合、本当にその本が薄っぺらい場合もあるが、単に自分に調理力がない場合もある。スッポンを裁けなければ、美味しい部分は食べられない。それと同じ。
共感に疑義を挟み込む
人は自分が信じたいものを信じやすい傾向がある。
だから、他の人の話を聞いて「ああ、そうだな」と共感しそうになったら、一旦立ち止まって、「でも、本当にそうだろうか」と疑義を挟み込んで見るのが良い。これは、普段からそれは間違っているだろうと思うことに対して、「それは間違っている」という意見を見た場合でも同様だ。ウンウンそうだよな、と頷くのではなく、一旦もしかしたら間違ってはいないのかもしれないと疑義を挟み込んで見る。それが考える、ということだろう。普段の自分が思惟していることをなぞるのは、考えることではない。だからこそ、読書は役に立つのだ。他の人の考えに触れることで、自分の思惟を揺さぶること。その点において、ショウペンハウエルの「読書について」は簡単に論駁できる。
教えることの難しさ
何かしらの説明文を書いていて痛感するのが、教えることの難しさ。言い換えれば、自分が分かっていることを、相手に分かるように伝えること。説明文を書くのが難しいのは、ようするに機能するように説明するのが難しいということだ。
しかし、なぜか会社などでは、先輩(≒その仕事ができる人)であれば皆仕事が教えられるかのように扱われる。そこでは、教えることの難しさがあまり考慮されていない。
知識の伝達が軽んじられているならば、その組織における知識活用は確実に減少するだろう。そしてそれは社会一般に敷衍しても言えるのではないか。
マインド・レストア
inbo
ゴミ箱
タスクリスト
プロジェクトリスト
気になることの扱い方
電子書籍の普及の鈍さと漫画村の拡張
「権利」についていろいろ考えなければならない。
一方漫画村はそんなことは一切無視できる。ユーザーにとって便利なものであれば、コピーとかそういうのはどうでもいい。たぶん、ブラウザから閲覧できるのだろう。アカウントとかも気にしなくていい。どちらが無法地帯で「勝つ」のかは自明だが、そちらに寄せればいいという単純な話ではないだろう。
私の中では電子書籍は、もはや生活になくてはならないレベルになっているのですが、残念ながら周囲を見渡してみると、まだまだ電子書籍が普及している感じはしないのですよね。そのくせ「漫画村」のような違法性のある(彼らは違法性はないと主張している)サイトが隆盛を極めていたりと、ちぐはぐな状況が続いています。
むしろ違法だからこそ、隆盛を極めるのだろう。ステークホルダーが多くなるほど、細やかな配慮が求められる。
Wiki汚染
そもそもwikiではない問題。
この問題をどう考えるか。
企業が参画することでだいたい悪くなる?
@wikiの情報などは不十分なところもありつつ、うざさはない。有志の力。企業的に運営すると、効率化されてしまう、という問題。
ライフハック的
ブラウザ上のエディタ、ホバーしないとメニューが表示されない仕様なので、タイマーのスタートボタンを押し忘れる自体が頻繁に発生。UIの見直しが必要。
逆に考えればいい。メニューを隠したければ、スタートボタンを押すしかない、とする。
こういうときに、「がんばって覚えておくようにしよう」としないのが、ライフハック的な思考法だとは思う。
バッファーの設定
すぐさま実行に移すのでもなく、今日のタスクリストに入れるのでもなく、いったんメモしておいて、いつやるのかは後から考えるというのが、リストをクローズする、ということの小さな実践でもある。
それが、バッファーを設けるということであり、システム2を働かせるということでもある。
自分についての不十分な理解
自分についての理解は不完全である、という理解。
自分の限界は自分で決めるな。
時間はほとんどない、ということ。
両方が成立する。
配られたカードでは、どう結び付くか。
これは「自分」の話か。
二人目の著者か編集者か
マルクスとエンゲルス
ソクラテスとプラトン
彼らは編集者だったのか。
著者がその文章をどのようにジャッジメントするかが大切
創造性とはゼロから何かを作り出すことではなく、あまたの選択肢の中から著者がどれがよいかと思ったかの結果である。
猿が叩いたタイプライター原稿の中からたった一つの「マクベス」を見つけ出せるのは、シェイクスピアだけであろう。それが創造性の真な力だ。
いきなり問題を片付けない
「2分で片付くものはすぐやってしまう」という精神は大切だが、その精神にのっとりすぎるとゴミを大量生産しかねない。
アイデアは二つ以上の問題を解決するものである、という定義もあるが、ある困った問題と別の困った問題があって、それらを一挙に解決するすんばらしい思いつきというものが降ってくることもある。
しかし、早めの対処を心がけていると、場当たり的対応が増えて、上記のような抜本的な状況変化を伴うような問題解決の必要性が生じないことがある。
「少し遅らせること」。スピード社会では、案外重要な指針かもしれない。