「自分」の研究
あたらしい自己啓発
確率論にさらされた自分
分人と自分
規範について。ある規範を絶対的な基準として受け入れるのではなく、あくまで暫定的な(自分で選択した、あるいはたまたま授与された)基準として認識する。カギ括弧つきの規範。
規範の弊害を認識したときに、その絶対的な解体に進むのではなく、ある種の規範性の必要を認めた上で、それを限定的(あるいは保留的・半決断的)に受け入れる。いつでも変えられるような、しかしそれを認めている間は、守り続けるような規範。
の規範には、計画・目標・管理システムなどを代入してもいい。目標なら『「目標」の研究』が、管理システムなら #やるおわ がその問題にリーチしている。 ビジネス的なものとか怪しい自己啓発とかもそうだけど、「何かしなければいけないと思うが、それが何かはわからない」という漠然とした不安感に、「こうすれば、こうなります」と単純な解法を示すのは実に「効く」のだろう。
漠然とした不安感と対峙し、それを受容するのではないから、ずっと「こうすれば、こうなります」に依拠し続けることになる。
海に沈んでいるときには浮力は必要でも(カウンター)、海面まで上昇できたらそれ以上はいらないよね、というかそこからまだ浮力を増やしたら、今度は空中に浮かんでしまって地に足がつかないよね。
自己否定とのバランスというか、カウンターとしての自己肯定の高揚、というのならまだわかるけど、原理主義的になってくるとさすがにちょっとな、とはたしかに思う。
自己啓発書の中に自己啓発への毒を微量に含む本と言えるかもしれない。免疫を作る程度に微妙の。
今まで生きてきて「自分は絶対こう」と思ってきたことが、何度ひっくり返されてきたことか。
べき条
「〜べき」→目標→理想
なぜ、今の自分を肯定できないのか。
肯定できない自分はダメ、という肯定できなさの循環構造
困った状況に対処する→ノウハウの基本
人税全般を「良く生きる」という大きな状況に対処しようとして、話が大きくなる
フラットさ。権利としての平等ではなく、自と他が同じだと思うこと。たとえば、物書き3年目の人間と、物書き10年目の人間の「できること」が同じだと思ってしまうこと。敷衍すれば、能力の差を無視して、期待しうる成果を同一視してしまうこと。
逆に言えば、それは自己理解が薄いということ。自他の差異がぼやけているから、自分についてよくわかっていない状況になる。暗中模索。
#やるおわ のデルタ状の実践。小さなことからスタートするというのは、単にノウハウを少しずつ身につけていく、ということに留まらない。それは、ある実践を通して、自己理解を深める、ということ。机上の自己像ではなく、リアルな現象としての自分に触れる。そこから始めること。 たとえ少しずつであっても、いろいろなことに一気に手をつけようとすれば、その把握が遠ざかる。デルタ的差異を見極められず、何がなんやら、という状況になる。その状況を打破するために、いろいろなことに一気にをつけようとすると、以下繰り返し
過度の一般化(あるいは過度の特殊化)というのは、ある「物語」の構造を支えるために要請されるのだろう。
試行錯誤して「自分の方法」を作っていく、というスタイル。ある正解を知って、それで処理するのではなく。
たぶんそれが、(広義の)研究ということなのだろう。
生きることは(あるいはそれに内包される行為は)基本的に難しいものなのだ、という認識。ある調整された領域においては平易になるが、そうでないものは簡単にはなせない。だからいろいろな苦労がつきまとう。
その上で、試行錯誤してその知見をシェアし、苦労の領域を少しずつ小さくしていく。そういう姿勢。
たいてい、苦労は自分だけがしょいこんでいるように感じられるが、街行く人々のそれぞれが多様な苦労を抱えて生きている。その上で、じゃあ自分はどうするのか、という話。
角を取るつもりでせっせと磨いていたら、いつのまにか中身まで削り取っちゃうかもしれない。