2025/6/26
雷雨の予想だが、さて。
002. 聖域なき情報共有
振り返ると、意外とタスク管理や仕事の進め方って、みんなやっている割には個々人の聖域として、その手法をオープンにしてないような感じがあります。
そういう話し合いをするという文化(習慣)があまりない。
「方法」というコンセプトが生活基盤に根差していないからだろう。
『知的生産の技術』でも、世間では方法についてあまり語らない、という話があった。
★「方法なき社会に、方法を」というのが自分が目指している方向なのかもしれない。
方法から、はじめる。
003. タスク管理はどこまで複雑になりえるか
そのうえで、基本的に毎朝、その日のやることリストを書き出します。仕事中はログをつけつつ、朝に作ったやることリストを消し込んでいく形です。
まず思ったのは、この強度のタスク管理すらやっていない人がたくさんいるということ(これはマジでそう)。で、やっていない人にとったら、複雑なこと、面倒なことをしていると感じられるだろう、ということ。
で、そういう話とは別にして、「結構シンプルな部類のタスク管理方法」ではないもの、つまり複雑な部類のタスク管理では何が行われていて、人間(つまり認知的限界を持つ生物)はその複雑さにどこまで耐えられるだろうか。
慣れる、鍛えることをすれば、ある程度複雑さに対応できる(無意識下で処理できることが増えるので)
問いのアレンジを考える
タスク管理はどこまで複雑になってよいか
★タスク管理における複雑さとは何か
005. 学ぶことを面白いと思ってくれさえすれば
学ぶのおもろいと感じてもらえればそれでいいわけで。学ぶのおもしろい、は学ぶことによってもたらされる。
たしかに、学ぶのが面白いと感じてもらえれば大部分はOKと言える。知らない何かがあり、それがわかるようになる感覚、何かができるようになる感覚。それは端的に快であって、その快を覚えれば自発的に人はいろいろなことを学びはじめる。学びのサイクルが回りはじめる。 一方で、「学ぶのおもしろい、は学ぶことによってもたらされる」ということは深刻なジレンマを含んでいる。学ぶのがおもしろいと知らない人に、学ぶことが面白いと知ってもらうためには、まず学ぶことをしてもらう必要がある。仮に「それが面白いと知っていないことは真剣にやりたくない」という態度を崩さない人間がいるとしたら、学ぶことの面白さをまず学んでもらって知ってもらう、ということそのものが難しくなる。
循環
「学ぶことの面白さを学ぶこと」という風に問題を定式化できるだろう。
再帰、メタ
005.01 得意なことと面白さを感じていること
学校の勉強において、「得意である」ということはすぐにわかる。つまり、強い努力をしなくても、テストの成績がよければそれは「得意である」ということだ。それは遺伝的な要素と、それまで得てきた経験によって大部分が決定される事柄だろう。
で、数学が得意であるからといって、地理が得意であるとは限らない。(私はそういう高校生であった)
科目が「得意であること」は閉じている(他の科目に越境しない)
一方で、「勉強が得意である」は科目を越境する。ある種の勉強の仕方に通じている、ということ。これは平均的なテストの点数が高い、という結果で示される。
問題は、そうした得意であることと、それが好きであること、ないしはその科目を面白いと感じているかということが相関を持つとは限らない点。
数学のテストの問題にうまく解答できるからといって、数学の魅力に通じているとは限らない。
数学の魅力を感じている人は、意欲的にその分野に精通して、テストの結果が良くなるということは予想できるが、一方で必ずそうなるとも言い難い。その分野のぜんぜん別のところに興味を持ってテストなんか放り出す、ということもありえるから。
もちろん、相関する場合は多い。歴史が好きな人は、歴史のテストの点数が良い、というのは普通に多くあった。ただ、そうではない場合もある、という考慮は必要だろう、という留意。
「勉強が得意である」というのは、おそらく塾的なものが目指す方向だろう。
それはそれで一つの技能である
一方で、何かしらの分野・科目を学ぶことが面白いと感じるのは、また違った方向性であると思う。
提示された問題をテクニカルに解けることが得意になり、面白く感じるようになるのとは違う、ということ。
極端なことを言えば、学生時代のときに「ああ、これめっちゃ面白いやん」と感じてもらえれば、テストの成績が少々悪くても、その人は生涯にわたってその分野に興味を持ち、少しずつその知識を開花させていくだろう。それ以上の「教育」があるとすれば、いったいなんなのか、という話になる。
逆に問題を解く技能に精通して好成績は得たものの、卒業したら一切その手の分野から興味を失う「教育」とはいったい何を教えていたのか、という疑問にもなる。
教育とは、「人間」を完成させる営みなのか、それとも将来への種を蒔く営みなのか。
もちろん、両方の側面があることは承知した上であえて二項対立にしている。
006 タスク管理が好きな人と仕事が好きな人
タスクを管理することそれ自体に興味を持って取り組んでいる人と、仕事をするのが好きで必要を感じてタスク管理をしている人がいたら、同じ「タスク管理」について言及していてもおそらく話は噛み合わないだろう。
007. 100冊の本
考えてみると「自分を作った100冊」と「これから読書をはじめる人にこういう本を読んでおけばポイントが押さえられていいんじゃないかな、な100冊」はラインナップが異なる。
無理に統一するのではなく、個別に考えてみることにしよう。
008. 100の物事
本は100冊を上げることは余裕
逆に10冊だけだと厳しい
漫画は100作品は可能だろうか。アニメはどうか。
声優さんなら100人は余裕。
音楽は100曲なら簡単だが、100アルバムならどうか
ゲームも100はおそらく可能だが、10くらいでいいかもしれない。
10のカテゴリで10個ずつ要素を上げれば(リストを作れば)合計100になる
ただし好みの深さ、広さが違うので均一に扱うのはそうとうアクロバティックなことをする必要がある
自分のログなら別として、他の人が読むコンテンツならある程度数を絞っておきたい
仮組み
読み物(ノンフィクション・フィクション・漫画・ブログ)
遊ぶこと(アナログゲーム・デジタルゲーム、各種ギャンブルや投資)
観ること(アニメ・映画・動画)
聴くこと(音楽観賞、演奏、ラジオ、ポッドキャスト)
食べ物・飲み物(食事・料理・お酒)
使うもの(アナログ・デジタル・ガジェット・端末)
行くところ(本屋、図書館、お気に入りのスポット)
作ること(DIY、表現、発信、制作、執筆)
整えること(物の整理、情報の整理、知識の整理、考えの整理)
仕事すること
たとえば「インターネット」という項目を立てて、他の項目に散らばっているものをまとめることもできる。
結局、唯一の正解というものはない。
「読書」や「本」というカテゴリを立てるならば、「インターネット」という項目があるのは良さそう。
一方で上記のような包括的な立て方をすると、「インターネット」は粒度がズレてくる。
自分の「歴史」を追いかけようとするときには、本を読むこと、漫画を読むこと、アニメを見ること、コンピュータを使うこと、インターネットを使うこと、という形で項目を立てるのがいいだろう。
目次と索引の関係に近いか
上記の仮組みは、索引に近い。
008.01 人生の経路図
そして、その連鎖は単一の鎖に制約されていない。
漫画を読むことは、本を読むことにもつながり、アニメを観ることにもつながる。アニメを見ることは、映画を見ることにもつながり、声優さんのラジオを聴くことにもつながる。
こうしたものをパソコン上で簡易に表現できるツールを知らない(mermaidは簡易ではない)
ゲームで遊ぶことは、パソコンでゲームをすることにつながり、それがプログラミングと文章の執筆にもつながっていく。
流れを無視した独立的な捉え方も間違っているし、単純な線形の連鎖だけで捉えるのも間違っている。
008.02 ひとまずのナンバリング
00~09 読み物(ノンフィクション・フィクション・漫画・ブログ)
00小説、01SF、02ハードボイルド、03ミステリ、04ライトノベル、05哲学・思想、06科学 07実用
08漫画
09Web記事、ブログ
大ざっぱに括れば、こういう感じでナンバリングができる。カテゴリの大きさが非常にマチマチであることが気になると言えば気になる。
で、どう運用するのかを考えたときに、単純なラベルとして使うのと、本家decimalのように07.01のようにサブも使っていく運用が考えられる。
たとえば、「07.01 仕事術」というカテゴリを作り、その中にそこに位置づけられる本の記録を増やしていく、というやり方。あるいは、書誌情報のページに、このカテゴリを割り当てる。
一方で、「07.01 『hoge』」のようにサブ番号に一冊の本を対応させるやり方は、100を越えてしまう可能性が高いので、うまくいかない気がする。まあ仕事術というカテゴリで100冊読むのかはわからないが、SFというカテゴリならありえるだろう。
07の区分で100冊扱えるならば、00~09で、1000冊の本が扱える。しかし、1000冊では足りない。
年間100冊の読書なら10年でオーバーフローする。
「00.03 ミステリ」という作り方もあり得るが、その倍「本格ミステリ」と「それ以外」というサブサブ区分を設ける必要が出てくるかもしれない。サブサブが出てきそうなものははじめから上に上げておくのがよいだろう。
ともあれ、「07.01 『hoge』」のように二つの組み合わせで本を位置づけるのではなく、ラベル(タグ)を位置づけるのがよいのではないか、というのが現状の予想。
Cosenseにおいて、番号をつけることのメリットは、「ライトノベル」と「04_ライトノベル」を区分けできることだ。「ライトノベル」は、ライトノベルそのものについて論じるときに使いたいので、自分の区分のラベルとしては別枠を設けたい。つまり「@ライトノベル」というような別の記号を用いたい。
その効果を付与しつつ、その位置を設定できるのが「04_ライトノベル」の効果。
ライトノベルの場合は、ジャンルで分けることも出来るがレーベルで分けることもできる。
すなわち、「04.01 電撃文庫」とする。
で、ここに読んだ本の情報を時系列で追加していく。
倉下が読んでいるレーベルはそこまで数が多くないのでこれで整理は成立するだろう。
ラベルの解像度の高さは、自身の経験に影響を受ける
008.02.01 レーベルのハッシュタグ
Cosenseにある書誌情報のページに「電撃文庫」というタグを付けるのと、「04.01 電撃文庫」というタグをつけるのは何が違うだろうか。
そうしたタグをつけておけば、そのタグで同レーベルの本を一覧できるという点は同じ。
「電撃文庫」というタグをつける場合、仮に私が文芸批評で「電撃文庫」を論じようと思ったときに、自分が読んだ本の一覧と、「電撃文庫」について思考したメモが混ざり合うことが起きる。
名前空間の衝突
「@電撃文庫」というタグならばそうした衝突は避けられる。
その上で、「04.01 電撃文庫」というタグをつけることの意義は何かあるか。
タグを付ける、という行為をするだけであれば、「@をつければいいんだね」と思い出すことでケアできる。つまり、ライトノベルに関する情報は04系統に保存されている、ということを思い出す必要がない。今まさに電撃文庫と認識している(からタグを付けようとしている)ものにタグを付けようとする場合、「@ 電撃」あたりを入力すれば問題なくそのタグを見つけられる。
ここで必要とされているのは大量の検索結果から、上記の用途のタグを絞り込むことであって、それは割り当てた記号があればそれで十分に事足りる。
一方で、10個までしか作れない、という思考の制約のおかげで、むやみやたらに数を増やすことは避けられ、また階層構造的な整理が進む点はある。
情報にタグ付けしようとするとき、それが(ある程度)客観的な分類や属性を与えようとしている行為と、「自分のカテゴリ」を与えようとしている行為に違いを設ける、というのは一つの考え方だろう。
街を歩いていて、「あっ、あれは電車だ」と認識することと、自分という人間は電撃文庫というレーベルを読んできた(これからも読んでいく)ということを確認することは違う、ということ。
自分にとっての〜〜〜、ということを考える。
自分の文脈をつくる
なんとなく、「04.01 電撃文庫」というタグ付けはおさまりがよいし、格好よい気もする。
その印象にひっぱられるのは適切なのかどうか。
一方で仮に「@電撃文庫」というつけ方をしたとして、それだけではCosenseではそうしてつけているタグそのものの一覧は出てこない。どこかのページで管理する必要がある。
番号を振れば、一覧はないにしても、100個(というか100×100か)の「場所」は確定している。
番号を起点に検索していけば、それぞれの項目と再会できるし、その順番も任意で設定できる。
008.02.02.01 Decimalの上限
decimalでは00~99までの百個のカテゴリをつくり、それぞれのカテゴリは.00から.99までのエントリを持つことができる。
つまりトータルで100×100個(1万個)のエントリを持つことができる。
「読んだ本」(漫画は除く)、という行為を追跡する場合、一生のことを考えれば2000というオーダーでは足りない。仮に60年の読書期間があるとしたら、6000冊くらいの「容量」は欲しい。ということは、decimalの大半の空間が埋まってしまう。
漫画でも、シリーズでⅠエントリならともかく、1冊で1エントリなら相当の容量を使うだろう。
そうしたメディアの経験を、1万の「箱」で収めきるのは難しい。
めちゃくちゃ巨大なカテゴリは、decimalの中にdecimalを入れるというフラクタルで対応することができる。
ファーストdecimalの中に「本」を作り、その「本」で別途decimalを作る。
「本」のdecimalは、ようするにサブということで、ファーストdecimalから見れば「01.04.05」というものを、「本」のdecimalでは、「04.05」のように扱うということ。
すべてのdecimalの項目にサブをつくる必要はない。あくまでめちゃくちゃ多い要素だけ。
あるいは、個別のエントリは扱わず(つまり、一冊一冊の本をエントリとせず)、自分が自分の情報を分類するときに使えるタグを1万個に限定し、それを位置づけるものとして使う、というやり方も考えられる。
さすがに1万個あれば、タグの運用は可能だろう。
個別のエントリーは、そのタグの中の「テキスト」として扱う(ナンバリングはなく、時系列で並んでいるだけにする)
つまり、「04.05 哲学書を読む」のような一種のプロジェクトとして扱い、それぞれの哲学書を読む行為は、このプロジェクトの途中経過として位置づける。
名詞的分類か動詞的分類か
そもそも、どれだけのタグがあれば「自分のカテゴリ」は運用できるだろうか。
009. ★プロジェクトとして捉える
最近『分類学からの出発』という本を読んでいる。Amazonを検索したときにたまたま見つけて古本で買った。
そのときに、分類についてちょっと知ろうという気持ちがあったことはたしか。
行為としては「本を読む」にカテゴライズされるが、一方で「分類について知る・学ぶ」というプロジェクトを実行しているとも捉えられる。
本当にそういうプロジェクトが動いているわけではない。
あくまでたとえとして、そう言えるというだけの話。
そういう視点で追跡することはできるだろうか。
010. 読書の裏で走っているテーマ
単純な興味で本を読む場合もあれば、何かしらテーマがあって読む場合もある。
テーマがある場合、短期的に集中して読むこともあるが、多くは間欠泉的にぼつぼつと思い出したように似たテーマの本を読んでいる。
意識に上ってくることがない場合もある
それを記録して「つなぐ」ことは、意義があるかもしれない。
自分が読んだ本の記録、あるいはリアルナ本棚は、そうした「記録」と同質の側面を持っているかもしれない。