2025/6/16
昨日は何を書いたか?
そうなると以下のふたつのノートのタイトルは、たしかに内容を表しているけれどもノートの要点は不明瞭です。
キリスト教入門が思いのほかおもしろかった理由
倉下が(ブログなどの)記事のタイトルの書き方と、カード法におけるタイトルの書き方の違いをよく言うが、その違いがよく見えてくる。
記事のタイトルの書き方は、内容はなんとなくわかるけども詳細はわからないものになっている。そうした名づけは本文を読みたくさせる効果がある。Webなら、クリックしたくなるタイトルをつける、という技法と言える。タイトルを見ただけですべてがわかってしまうならば、クリックはされなくなるわけだからして、そうではないタイトルをつけるのが得策ということになる。
そうしたWeb記事のタイトルを書く気持ちで、カード法のカードのタイトルを書いてはいけない、ということ。
いけない、というか、いちいちクリックしないと中身のことがわからないならば、それは「視点を一つ上にあげる」効果が薄いということ。
両方とも呼称としては「タイトル」なので、自分がタイトルに持っている通念がシームレスに適用されてしまう。
『知的生産の技術』の中では、こうある。
そのかわり、豆論文にはかならず「みだし」をつける。カードの上欄にそれをかいておけば、検索に便利である。「みだし」は、豆論文の標題でもいいが、むしろその内容の一行サマリーといったもののほうが、いっそうその目的にかなっているだろう。
標題と一行サマリー、という対比。
標題は記事のタイトルに相当し、一行サマリーが内容の要約に相当する。
例.上の引用を書き留めるカードがあるとして、それにどんなタイトルを与えるか?
例の解1. 豆論文の「みだし」の書き方
例の解2. 豆論文の「見出し」は標題ではなく一行サマリーを書く
1が名詞的(wiki的)な書き方、2がテーゼ的な書き方
一般的にこうした情報の扱いではテーゼ的に書くことが推奨されるが、要約した結果ニュアンスがズレていることには注意が必要。梅棹は「標題でもいい」と書いているが、要約したタイトルはそれを禁じているように読めてしまう。
すると、
例の解2の修正. 豆論文の「見出し」は標題でもいいが、できれば一行サマリーを書く
というのがよい。
問題は、要約したときに自分の解釈に寄せていることに気がつかないことがある、ということ。これは学術論文などを読んでいても、恣意的に引用文を解釈していることを見かけることもあるので、人間の知的な情報処理一般に起こりやすいことだと肝に銘じたほうがよいのだろう。
ナレッジベース、デジタルガーデン、セカンドブレインといった呼称がされるとき、そこに集められる情報の「タイトル」はどのような形がイメージされているか。
テーゼ集なのか、wikiなのか。
これによって随分違ってくるはず。
名詞的でもテーゼ的でも「情報を再利用しやすくする」という目的は同じ。ただ利用の仕方が違ってくる。
また例を思いついた
記事タイトルの例:「そのクリックには驚きがあるか」
これはクリックして読みたくなる
カードタイトルの例:「リンクをクリックしたときに自分に驚きが生まれるようにしておく」
これはまあスルーかちょっと気になったら読む、くらいか
本のタイトル(書名)は、名詞的なものと記事的なものの両方がある。論文はカード的なものもある。
サマリーと視点が上がること
サマリーを読めば、中身を見なくてもだいたいわかる。視点を下にさげる必要がない。つまり、本文レベルよりも一つ高い視点で知的作業を進めることができる。
現状のツール状況をどこかでまとめておこう
★あえてやめることの難しさ
惰性・習慣の力があるので、何かを続けることは(一度軌道に乗りさえすれば)難しくはない。
逆に、そうして軌道に乗ったものをやめるのは難しい
日本語ワープロ方式では、いったん移動や複写の操作に入ってしまうと、(操作を完了するか中断するまで)他の機能が使えません。したがって、範囲の始点を指定した後はカーソルキーで終点までひたすら移動していくほかありません。
星をつける仕事
日ごとノートの抽出で、重要なものに星をつけている。
つけないと抽出が大雑把になる→見た目がよくない→手直ししたい
という気持ちにドリブンされて、一日前のノートを読み返す行為が動機づけられる