2025/6/11
それもあって知的生産の「整理」や「カード法」など、過去を振り返ることへの関心が薄かった気もします。
最近、「倉下忠憲の事語り」などで整理作業を行っているが、あくまでニュアンスとしての目的は過去を振り返るというよりは、「自分を知る」が近い。自分という存在はいったい何を考えてきたのか、という一つの知的好奇心から"研究"しているようなイメージ。もちろん、そこで行われているのは過去の振り返りなわけだけども。
もっと言えば自分だけの街をつくるようなイメージかもしれません。
とてもよくわかる。
今の倉下は、街ではなく森(自然)を思い浮かべた。
いいね。新しい概念は大好物だ。
この言葉からぱっと思いついたのは、
のようなページ。文章があり、それが同時にインデックスにもなっている(実際は索引とは違うわけだが)。
とりあえず、言葉そのものの意味に立ち返るならば、文章を書くということがベースで、結果的にインデックスが生成もされる、というようなこと。
★人はいかにして問いを持つのか?
『問いを問う』
『問いの立て方』
『なぜと問うのはなぜだろう』
『問いこそが答えだ! 正しく問う力が仕事と人生の視界を開く』
『問いのデザイン: 創造的対話のファシリテーション』
『問いの技法: 明晰な思考と円滑なコミュニケーションのために』
『「問い」から始まる哲学入門 (光文社新書)』
『問う方法・考える方法』
『マッキンゼーで叩き込まれた「問い」の力』
自分はどのように問うているのか?
問いからはじめる知的生産
マルチウィンドウが人の思考に与える影響、という広範囲な議論につなげることもできる。
Notionで知的生産
ネタリスト編
https://gyazo.com/82aafc1c549aace332cddc40e8f2fbbb
Capacitiesで知的生産
3つオブジェクトをつくる。メディア、テーマ、ネタ(カード)
https://gyazo.com/9479e1b49210f7fd4e00ad1136369b70
https://gyazo.com/3c85a9acfa22cae3370228c428b609b7
https://gyazo.com/63b3797fb23cc9d1d0e44a50ee052eee
やりたいのは、MediaとTheseをtags的に扱うことだな。
まあ、バックリンクでもいいのだけども。
★そもそもZettelkastenは文脈的に書くのではないか
「脱文脈的に書く」はどこから生まれたか?
プログラマーのオブジェクト指向とカード法が融合している
Evergreen note titles are like APIs.のような表現からもそれはわかる
wikiの前身であるパターンコレクションもおそらくはオブジェクト指向と源は似ている
そもそもある論旨を意識してカードを配置する時点で文脈的だと言える。
一方でその中に出てくる固有名詞は脱文脈的で、それはZettelkastenでは文献カードということになる。
梅棹のカードは豆論文であり、それだけで読めるものだから脱文脈的に書かれていたと言える。
昨今のデジタルツールで行われいる手法も、オブジェクト的に扱うことがほとんど。
むしろZettelkastenが例外的なのかもしれない。
『TAKE NOTES』では、「永久保存版のメモには、必要な情報が、自己完結したかたちで、いつでも理解可能な文章で書かれています」とある。これはどう理解できるか。
これは「必要な情報が、自己完結したかたちで、いつでも理解可能な文章」で想起される文章のイメージだろうか。もっと豆論文っぽいものをイメージしていた気がする。
ここにミスリーディングがありそう。
「自己完結」がうさん臭い。その表現が、独立的=オブジェクト的なイメージを引き寄せる。それは脱文脈的ということにもなる。
デジタルツールの場合、何かしらの形で「タイトル」が要請される。そもそもプログラミングは基本的に名づけの文化である。だからEvergreen Notesにおいて、アトミックであるという主張はその精神性と調和している。しかし、Evergreen Notesと、ルーマンが書いていたカードはイコールではない。『TAKE NOTES』(の原著)以降、Zettelkastenはデジタル的な運用に引き寄せて再解釈されてきたのではないか? つまり似た別の手法ということ。
Zettelkastenはオブジェクト指向というよりも、GOTOがある従来型のプログラミング(手続き型プログラミング)や、関数型のイメージが近いかもしれない。
ルーマンが書いたカードは、「この議論についてはこのカードを参照」のような使い方はできるが、Cosenseで文中に埋め込むリンクのような使い方はできない(タイトルがついているカードはできるが、いきなり本文のようなものはできない、というのが正確)。
ルーマンは常にslip-boxの中で考えていた。それはカードの並び=文脈において考えていた、ということ。カードの並びが文脈をつくる。その文脈を踏まえて考えていた。あるカードが文脈的に書かれているか、脱文脈的に書かれているかはそう大きな問題ではない(両方のカードがあったはず)。著名、人物名、テーゼは脱文脈的になるし、考えを書き留めたものは文脈的になる。その文脈的なカードと脱文脈的なカードの配置・組み合わせによって文脈を(それも巨大で複雑な文脈を)形成していた。そしてその文脈は、基本的にルーマン自身にしか扱えないものだった。だから、僕らがルーマンのカードをいちまい取り出しても、あまりその「意味」は見えてこない。
以下、「脱文脈と文脈依存」と「文章と文脈」と「「考え」を書くことの二重性」に展開
脱文脈と文脈依存
文を組み合わせて文章にすれば文脈が生まれる。
文章を組み合わせてより大きな文章にすれば、そこでも文脈が生まれる。
では、脱文脈的に(文章を)書く、とはどういうことか?
たとえば、徐々に議論を積み重ねていくタイプの文章において、三つ目の文章を取り出しても成立しない。その文章は前後に挟まれておかれることははじめて「意味」をなす。
脱文脈的に書く、ということの第一義は、上記のような書き方をしない、ということだ。
「上記のような書き方」という行はその行だけを取り出すことができない。この表現は文脈的(文脈依存的と表現するのが適切か)である。
仮にこの行を切り出す(最上位に上げる)ならば「上記のような」の部分を具体的な表現に置き換える必要がある。これが脱文脈的になおす、という操作になる。
では、ルーマンのカードはどうだったか。
21/305 パーソンズのシステム理論について 1
パーソンズは機能の概念に依拠している。それは、支配的な理論をそこから導き出す限りにおいて、システムにおける「要素」の貢献に基づくものである。3 彼の理論の特異性、そしてその問題は、あらゆる行動システムにおける機能的ニーズの充足を、単一の行動理論からすべて導き出すことができるという点にある。この導出は、システム・スキームがまず純粋に直感的に得られるという結果を招き、応用を考慮せず、機能的整合性を実現するための現実的な可能性も考慮しない。それゆえ、あらゆる経験的および機能的分析にとって優位性はなく、むしろ必要最小限の要求という点で貢献する。
vs. ゴデリウスの批判 1959年 244頁以降より。パーソンズ
注記:Hの点において部分Aは理解される。
これは文脈依存的な記述ではない。前後に挟まれないと「意味」をなさない、というわけではない。
一方で、この記述は、ある記述の次に置かれることによって議論の一部を成している。つまり、文脈を形成している。
「文脈」というのが多層のレイヤーになっているから話がややこしくなる
そのカードを取り出しても、文の「意味」が取れないようにはしない、というのが脱文脈的に書く、ということの第一義。
「上記のような」というような文脈依存的な表現はしない。一方で、「詳細は43を参照」というのは文脈依存的ではない。詳細以外の大きな枠組みはそのカードだけで理解できるように書いてあればそれで成立している。
あきらかにこのカードは「パーソンズ」という存在の理解に依拠している。でも、ルーマン的にそれは問題はない。これは公共図書館に置かれるカードではなく、彼のカードだから。彼の文脈は前提にしていい。
言葉は文脈におかれて初めて意味をなす。だから文脈性ゼロという言葉はありえない。しかし、文脈は多層のレイヤーをなしている。そこである層の文脈をなしにしてカードを書く、というのはありえる。そのカードを並べることで、文脈を意識するということも同時にありえる。
ちなみにルーマンがカードの並びを使ってそのまま論文を書いていたならば、そこには明確に論旨=文脈があったはずである。
「脱文脈的に記述する」という言い方が適切か。
キャッチーに言えば、脱文脈的に記述したカードを、文脈を意識して配置する
非文脈依存的に記述した、という言い方もできるがちょっと長い
文章と文脈
これはルーマンの方法とは異なる、デジタルならではの新しいカード法として位置づけたほうがいい。
オブジェクティブ・カード法
オブジェクティブ・カード法ではタイトルが重要で、オブジェクトの独立性=再利用可能性が重要
最近、議論されているデジタルZettelkastenは、概ねこういう話をしていると予想する。ルーマンの新しい解釈で、むしろ異なる新しい手法の生成。
「考え」を書くことの二重性
日本語の「考え」は、英語ではthinkとthoughtがある。倉下が恣意的に線引きすれば、以下の二つ。
考えの流れ
考えた結果、生成されたもの
考えの流れとは、今まさにこうして書いていること。思索。頭の中の言葉の展開や発展。これが「思考」である。「考えを書く」とはそうしたものをありありと記述することを含む。
もう一つ、いろいろと思索を進めた結果、何かしらのまとまりが生まれたとする。名づけえるもの。仮にそれがGTDというメソッドであれば、その「GTD」は考えた結果、生成されたものだ。「考えを書く」とは、GTDというものを書き留める(たとえば辞書に、たとえばノートに)という行為も意味する。
「考えた結果、生成されたもの」は、フレーズ、概念、テーゼとして表出する。それはオブジェクトであり、1枚のカードに書かれるものだ。そのように生成されることで、明日の自分や明後日の自分がそれに言及するのが容易くなる。それはつまり、他の人でも扱えるようになる、ということだ。自分の考えの流れから生まれたものを「外部」に向けて切り離すこと。
この外部化は、フラクタルに起こる。つまり、フレーズ、概念、テーゼだけに限らない。私が自分の考えの流れをブログの記事として仕上げれば、それは他人からも参照できるようになる(ただし、概念化ほど取り回しはよくない)。その場合でも、タイトルやURLなど「名指すための何か」は必要で、それはつまり全体としてオブジェクト化されることを意味する。
たとえば「二節の指針」というネーミングは概化かであり、それは倉下の「前後の文章」に依存しない形で他の人に使えるように道具化したものである。こうすると、あらゆる文章=文脈の中で登場することになる。使いやすくなる。
こうしたカード化=オブジェクト化=概念化を意識しておくと、今の時点よりも未来の自分、ないしは他者がそれを使いやすくなる。そうしたものを増やしていこう、というのが昨今のデジタル知的生産の基本的なコンセプトであろう。
一方でその議論が表層的に受け取られるときに、「考えの流れ」のようなものの姿が見えにくくなってしまう弊害がある。しかし、「考えた結果、生成されたもの」を生み出すには「考えの流れ」が必要なのだ、という点は留意しておきたい。
あと、部品=オブジェクト的なものがいくら増えても、議論の流れはそれだけでは発生しない。ルーマンはむしろ議論の流れから部品を位置づけていた。
もうブログ記事3つ分くらい書いた感触がある
RINK(Relational Index of Networked Knowledge)
細かなことはひとまず置いといて、現段階で明確に欠点と言えるのが「ノートのタイトルが長すぎて超気持ち悪い感じになる」(と思う人が多くいそう。だから、初見の人にこれを進めるのがめちゃくちゃ難しくなるかもしれない)ということ。
MDノートA5横罫2冊目
https://gyazo.com/2b280a687c88dc73e92adb9606c6addc
英語の勉強など、連続的なものの扱いはやっぱり綴じノートだと思い、無罫のノートはすでにあったのだけども罫線が欲しかったので購入。以前より書き上げるペースは落ちそうだけども、とりあえずこれを使っていく。
まあ、ルーズリーフでも大きな問題があるわけではないのだけども。