2025/4/17
本日は木曜日
本日は結婚記念日
妻の体調次第で、どこかにでかけるかも。
計算が間違っていなければ20年目
『転生したらスライムだった件14』を読み終えた。
お昼に食べたチキンたつた
https://gyazo.com/a58016401de2680a1dde78b06d67a564
昨日読んだ記事を思い出している
これこそが「知的生産だよな」という雰囲気
誰かがいったことの繰り言ではなく、その人なりに「新しいこと」を言おうとしている。
それは、「新しいこと」を言うことそのものが目的ではなく、その人なりの実践を積み重ねたことの結果を発表したら結果的にそうなった、ということ。
既存の方法ではうまくいかなかった、ということからはじまる探究・研究がその「新しさ」を支えている
言い換えれば、そのうまくいかなさ、その人の身体性にねざした「凸凹」こそが新しさの源になっている
重要なことはベクトルを外部の方法論に向けることではなくて、外部のノウハウを起点にしたベクトルを自分自身に向けて考えることだと思います。
付言すれば、そうやって考えながら、自分と外部(ノウハウや他者)についての思考を行ったりきたりすることが大切であるように思う。
そのいったりきたりを続けている間は、シェイクされている=完全に固まっていないが、かといって何もかもが流動的というわけでもない、という状態になれるのではないか
リキッド・モダニティへのアプローチは、流動性のある固体という在り方を志すことではないか 逆に言えば対象についてよくわかっていない状態で、作業も強制されている場合は自分のこだわりが持てません。
たしかに。
たとえば、戦争難民で住む場所もまともに見つかっていない状態でこだわりを持てるかというと無理だろう。生きるのに精一杯なはずだ。
ナチスの収容所で、囚われた人たちがあたかも牢屋の中に淑女がいるかのように振る舞ったら、人々の振るまいに一定の秩序が生まれた、という話を読んだ記憶がある。そういうのがなければ野放図に(もっと言えば、野生の動物に近く、あるいはもっと無気力に)生きていた人たちの振るまいが変化した。これも一つの「こだわり」の作用であろう。
もちろん、その中の生活が幸福であったと言いたいわけではない。
「こだわり」が生きることに、どのような変化を与えうるかの考察。
そういえば、音声入力がはじめてまともに使えるようになった時期に、先駆的にそうしたものを利用して原稿を書いているといっていた人の文章がスカスカだったことを思い出した。
昨今の、生成AI主導原稿(いい表現だ)に感じた気持ちとの類似性について思いを馳せる
自宅で作業することが増えてきたので、骨伝導イヤフォンの導入を検討する
特にこだわりはない
〜〜〜観察メモ〜〜〜
思いつきを書き留める
疑問や仮設
豆テーゼ
読んだ本、読んでいる本(あるいは他の媒体)のタイトルを書く
その本を読んで思いついたことを書く(本についての全体的な感想ではない)
ある思いつきからの発展を書く
書いた後で、それが以前書いた思いつきと関連を持つことに気がつく
関連付けるとき何が起きているか?
一行ごとに入力
それぞれの行はIDを持っている。それは人間に扱えるIDになっている
新しい行を書くときに、以前の行に「リプライ」できる。あるいは「引用RT」できる。
テキストファイルベースで、リンクの解釈はビュアー(エディタ)によるようにすれば普通に使える。
よって、行リンクは行番号と対応しているのが好ましい。
そもそも削除することを想定していないので。
そうすると、アウトライナーのようにある行の下に追記するような書き方はできない。
追記は常に新しい行とリンク構造で書き足されることになる。つまり、追記とはリプライを意味する。
あるいは、つなげるメモ術とまったく同じように、連番を自分で振っていくか。そうすれば追記は可能になる。
倉下はこれとは違うイメージを持っている。
変転していく着想・思いつき・アイデアとどうつき合うのか
こんな感じで、ある書き込みが時間的に後の書き込みと関係する(もつれ合う)。そして変化する。
どちらかと言えば、それは種が成長するモデルに似ているが、完全に同じではない。
こんな感じで、知的生産のプロセスをどんなモデルで捉えるのかというのは大切な点だが、しかしモデルが先にあるのではない。まず、実践していき、その実践を観察したときに、どのようなモデルでとらえうるか、を検討して見出すという手順が大切だ
知の痕跡としてのメモ(走り書きメモ)
注意・注目と意志について
なぜ僕たちはかくも簡単に、自分の指針を義務化( mandatory )してしまうのだろうか。
フーコーの視点から何か補助線は引けるだろうか。
料理における風味と、文章における文体
人はカロリーだけを摂取するにあらず
〜〜〜ここまで〜〜〜