2025/3/9
数学的知の探究、哲学的知の探究、芸術的知の探究、工学的知の探究、科学的知の探究
それぞれは均一ではない
もらい物のドリップコーヒー
https://gyazo.com/1db4bd305686634f94f19a5ee3fd737a
珈琲豆を切らしていたのであった
あとで買いに行こう
勉強のときに僕がぶつかる問題は、すでにどこかの誰かが解いたものがほとんどだ。だから、それを僕があらためて解いても、偉業を成し遂げたわけではない──客観的には。しかし、主観的には違う。
僕が解こうとすることは、僕にとって意味がある。
上のようにタイムラインに置いておくだけならば「整理」は考えなくていい。
これを一枚のカードに切り出したり、あるいは何かしらでまとめようとすると、上位構造を検討しなければならなくなってくる。
一つのあり方は、本のオブジェクトページ(あるいは書誌情報のオブジェクトページ)の中に加えるというもの。
もう一つのあり方は、引用ノートの中に加えるもの
引用部分をカード化して、二つのノートに所属させることも一つの手ではある。
その際に問題になるのがタイトルで、ここまで長い一文だと全体をタイトルにするのは少々骨が折れる
不可能ではないのだろうか?
仮に不可能でないとして、そのタイトルでアクセスするようなことはあるだろうか。
たぶんそれはない。
これが生きるべきか、死ぬべきか。それが問題だのような引用ならタイトルでアクセスすることはあるように思う。
その違いは何か?
何度も書いているが、ツイートの一番の気楽さはタイトルをつけなくてよい点。
新しいタイプの日付のつけかただ。
これで3バリエーション目
ちなみに倉下は昼間はここの入力をほぼパソコンからやっていて、夕方以降になるとiPhoneの率が高まってくる
もちろん移動中はiPhoneから
慣れればどうってことはない
iPhoneで入力するときは、『』とか()のとじを無視するようにしている
Cosenseでの入力時に、カッコの入力の後にカーソルが真ん中に移動しないから
あとから直せばいい、の精神
こういうのを「とりあえず雑にやっておいて、後から直せばいいや」のマインドセットが、Cosenseと仲よくなるために大切。
他にもマインドセットはありそう。
これまで当たり前だと思っていた、人生における特別なことについて書いてみましょう
まず生きていること
次に、自分のようなろくでもない人間と結婚すると決意し、あまつさえその生活が20年続いている人間がこの世に存在すること
自分の文章が、名前もしらない遠隔地の人に読まれていること
自分が物書きの仕事をしていること
好きな作家が同時代に生きていること
それはそれとして、人はどのようなものを「当たり前」だと感じ、どのようなものを「特別なもの」だと感じるだろうか。
どうも最初、使いづらく感じるらしい。
旧来のパソコンユーザーにとっては非常に使いやすいと思うのだけども、ファイル単位に慣れていないとそう感じるのかもしれない。
あと、存在を知ったときにゴリゴリに使っているユーザー経由だとどうしても敷き居が高く感じられてしまう、というのはありそう。
これは整理と整頓の対比と似た構図ですね。
人は置かれた環境で、「当たり前」を構築する。
人は、自分で自らの環境を選ぶ(ことができる)
その選び方は、自分が積み重ねてきた環境に影響を受ける。
自分への影響がより強まる方の環境を選ぶ、ということが起こる。
プラスのフィードバックサイクルが回りはじめる
そうすると、他の人からみたらトンデモとしか思えないような選択を「当たり前」にするようになる。
知的な営みを、個人の責のレイヤーから一つ上げて捉えることが大切。
どんな人に囲まれ、何を見聞きし、どんな対話・会話をしているのか
それがその人の「世界認識」を構成する。
シン・スコレー/スクールの時代
「スクール(school)」の語源は、ギリシャ語の「スコレー(scholē)」で、「余暇」「学ぶ場所」という意味
生成AIが一般化した社会では、自分で情報を生み出すのは暇人のやることになる。
こうして新しいことの探究=暇人=スコレー=スクール=学者、という構図が生まれる。
まあ、ある意味では、あんまり変わっていないのかもしれないが。
BizArt3rdというタグを削除
おそらくメルマガの「システム開発の支援」に関する二つの原稿についていた
これは会社で使う基幹システムのことではなく、パーソナルなそれ、ということ。
そのままピックアップしよう
原稿のページは、頭に○をつけておく
メルマガの過去原稿でうまく「息をしていない」ものがいっぱいあることが再確認された。
まあ、ここで考えたことは、今の自分の別の原稿に生きているとは言えるけれども。
とりあえずEvernoteからはノートごと削除
あと826タグ
今日はもう晩ご飯を考えるのが面倒
つくる以上に、献立を考える(イメージ、シミュレーションする)のが面倒
むしろ「こうつくりなさい」と絶対者から命令されたらつくると思う。
Notion→Obsidian→アナログのカード
to make it as simple as possible.
Zettelkastenは、「アイデア」を一つの情報単位としている
ただ引用が書いてあるだけのカードは、アイデアはない。
それを読んで何かを思いつくならそれはアイデア
引用の文章の背景になっている考えをまとめればそれはアイデア
でも、引用の文章だけはアイデアではない
よって、純粋なZettelkasten ( pure-Zettelkasten) と引用ノートの相性はあまりよくない
たとえば、エピグラフに使いたい言葉を当面の文脈と関係なく集めておく、という要素はp-Zet には含まれていない。
思考のためのツールは、できるだけシンプルに保っておくこと ( keep it as simple as possible)
複雑な思考をするために、道具は単純であった方がいい。
ノコギリや金槌の単純さと、建てられる建物の複雑さ
四月から環読プロジェクトを再開しよう(またやることを増やす)
https://youtu.be/BEOZ8Qr5Aos?si=6BYAJSGdEc7gU9MC
麻雀で何を切るのかは、自分の手牌14枚だけでは決められない
場状や最終的に目指したい地点といった要素を加味する必要がある
本日の日替わりセール対象
セリアで見つけた丸形の情報カード
https://gyazo.com/b4409f3936c2719abdeb6f82eb39dfe6
何に使うのかは聞いてはいけない
ダルさがやばかったので、体を伸ばした
左右の脇、脇腹
背中、肩甲骨、肩周り
お腹まわり
ここが存外に凝っている
後ろに背を反らすと延びる
考え事をしながら、何をどう考えているのかをメタ的に観察している。
https://gyazo.com/0fcd01b96901b29f18ec0adb0bdd3045
カードとペンを持ち歩くために小さな袋も買った
https://gyazo.com/11ee94cd338826bb6d3bf2ce2ac11c6e
ストーリーテリング・ブックライティング
物語の語り方と本の構成の考え方を重ね合わせる
起点があり、エンディングがあって、そこに向かって流れを考えていく
ストーリーラインがないと()nullだと()、うまく考えることができない。言い換えれば、要素を位置づけることができない。
無限性に開かれてしまう。
その扉は閉じること
まったく同じ行為でも、孤立して行うのと似たことをしている人が(認知的に)近くにいるのとでは、ぜんぜん違うものになると思う。
その違いは、どちらかだけでは知覚されにくいだろうとも思う
いかに「えいや」と行動に移せるかが、考えるために有用。
行動しながら、あるいは行動した結果からしか考えられないことは多い
数学物語
教科としての数学と人間の営みとしての数学
数学ガールシリーズは、後者の意味での数学物語だと言える。
毎日毎日同質性の高い環境で、似たような意見ばかり目にしていたら、それ以外の考えが取れなくなる。
そうした考えが、行動や決断に影響を与える。
もっと言えば、物の見方、物の捉え方にも影響してくる。
そして、似たようなことを口にするようになる。
それがまた、その環境の同質性を高める。
思考をぜんぜん行わない思考力のトレーニングはありえない
思考のフレームワークをまとめてある本を読みました、とかではぜんぜんトレーニングにはなっていない
書くことが一揃いあるときには、何を書かないかが特徴をうむ
何を書かないかと何を書くのかの判断はセット
10万字使って本の紹介をしていいなら、本文をそのまま載せればいい
それと同じであるテーマについて無限の字数が使えるならすべてを網羅すればいい。
それができないから、書くことを選ぶ必要が出てくる。
選ぶことは判断であり、それはセンスに支えられている
いつもぷりぷり怒っている人がいるとしよう
ここでロンドンのタクシー運転手の話を思い出す
彼らの海馬は成長していたらしい
回数を重ねれば、脳はその行為をもっと滑らかに行えるようにネットワークを最適化していくと考えられる。
よく怒っている人は、怒るためのネットワークを強化し、滑らかに()低いコストで()怒れるようになっていくのではないか。
ところで、たぶん「私の趣味はメモです」くらいに言えるのではないか。
今日は一日、紙とペンで考え事をしていました
当然、ここへの入力は減る(多少減る)
https://gyazo.com/006b9f25ec1175508c43beb0180a1b87
イオンのPBベストプライス
おいおいカラムーチョそっくりじゃねーの、大丈夫かよとおもいきや、作っているのは湖池屋
料理という文化は遥か昔から、広範囲にわたって行われてきた
文化的蓄積は大きい
知的生産はどうだろうか
時間は長いが、市井への浸透具合は料理とは比べ物にならないだろう。
つまり、文化的蓄積はぜんぜんまだこれからというところではないか。
効率をマックスで追求する人が、民主主義を壊し始めるのはきわめてナチュラルな流れ