2025/3/11
本に関するメモはどういうものでも読んでいて楽しい
一応最近読んだ本がトップ画面に並ぶから出来ないわけではないが、何にせよアプリを開くと、いきなり本が開くので選ぶより先に読むが発生してしまうのがつらい。
ショートカット.appとかでKindleアプリの特定の本を開くことができるならば、「本Aを開くショートカット」「本Bを開くショートカット」とかをホーム画面に並べておくという手はありそう。
むしろ、Kindleアプリではこの本を、BookWalkerアプリではこの本を、という渡り歩きがよさそう。
そうかこれも一つの「トランジッション」なわけだ。
どういう表示が具合が悪いのか?
iPhoneからだとホーム画面で最近の本が2〜3冊しか表示されない(スライドが必要)
別件で開いた本が、表示順列をかき乱す
「この5冊」という状態を維持するためには、それ以外の本を開いてはいけないことになる
改善案
セレクションした本で「コレクション」を作り、そこから読むようにする
これなら上記の問題は解決できそう、な予感。
生成AIがあるからノートはいらないとか、自分で文章を書く必要がない、みたいな話はぜんぜんわからない
というか、話が大雑把すぎている
絨毯爆撃のよう
高度が非常に高いと点に向けての攻撃が、地表では面に向けての攻撃になる
むしろ生成AIがあるからノートが必要だろう
あと、生成AIをうまく使うためには、当人の知的能力の高さが欠かせない。その意味で、知的トレーニングとしてのノーティングという役割も依然として高い。
「生成AIに書けない文章を書く」という目標もよくわからない
そういう競争はしんどいだけだと思う。
文章を書くことって第一に書いていて楽しいからやるのではないか。
その後の価値の発生というのはもちろんあるが、一義的にはそこに価値があるわけで、それが見えなくなると方向がどんどんズレてくる気がする。
なんにせよ生成AIは今後も知的にパワーアップしていく。今は自転車と競争しているだけかもしれないが、数年後には新幹線と競争ということになって、はなからムリゲーということになるだろう。
「こんなことは生成AIにはできないだろう」みたいな予測は、数年前までAIでまともな文章を書くのは無理だ、という予測があったことを失念している。
ゲームを変えないといけない
ひさしぶりに見た。
digging
書いた。
これで準備編は終わりにする。
あとは「どう使うか」という用途のまとめをしておきたい。
デジタルノートツール、時間が経つごとに「いや、そうじゃないんだよ」感が増えてくる
Cosenseは本当に稀な存在。
僕がやっている「メモ」もつまりはこういうことで、その対象範囲が広い。
「ジャーナリング」という用語がもう陳腐化しているのであまり使いたくないが、しかし用途の適切な説明ではある
等閑視という言葉をひさびさに見かけた
いいかげんに扱って、放っておくこと。なおざりにすること
自分で勝手に定義をこしらえて、その定義にプンスカ怒る、あるいは困惑するという事態が起こる
そういう状況はどうやったら解除・解体できるだろうか。
不安定な状態では絶対的な存在が要求される。
だとしたら、何が言えるか。
不安定な状態では「私は(これは)絶対的ですよ」というアピールがより強く成される
自分のことを受容してもらいたい人は、今は不安定な状態ですよとあおり立てる
大学生の姪っ子に、大学の勉強で使えるデジタルノートを進めるとしたらなんだろうかなとちょっと考えた。
ぜんぜんパソコンを触ったことがないという前提
スマートフォン、タブレットの操作経験はあり
OneNoteは、導入は簡単
Evernoteは有料前提なのでオススメしにくい
Cosenseは非常によいが、講義ノート(板書ノート)に合うかどうかは判断しかねる
Notionは、わりとよい気がする
講義自体が定形的だし、そうしたものの扱いはやりやすい
Obsidianは、教えなければならない情報が多すぎる
向上とは変化の一形態だ。
変化を拒絶している限り、向上は望めない。
素朴政治学としての、現在のアメリカ
準備や段取りを軽視するのは、民主主義を軽視する視点に似ている。
たしかに無い方が楽だ。
政治家だけでなく民衆にとっても手間が減る
長期的な結果がどうなるかは別にして
何よりも、自分が自分の人生に退屈しないようにつとめて生きる
その他、倫理的な"規定"もいくつかがあるが、「退屈しないように」はかなり大きい比重を持っている
楽しむこと、楽しめるように「なる」こと。
「つまらなさ」を固定させて、それが変わらないものであるかのようには生きないこと
『仕事ができる人は4つのことだけを考える』という本のタイトルを見かけた
その4つが何なのかを、実際の本を見る前に考えてみよう
まず「成果」だろう。そして「場・環境」。あとは「プロセス」と「パターン」かな
もちろん、ぜんぜん違う。
他人の成果物から連想して(あるいはそれをダシにして)考えるという発想法の訓練
何が一つかは、文脈・視点の高さで変わってくる
「今日あったことを書く」も、今日の出来事という一つの文脈に沿って書いている。
どう利用したいのかというだけの話
だから「今日あったことを書い」て、その中からまた個別に切り出していい。
フラクタル・トピック方式
「パンとバラを食卓に」
今日は隣町の図書館まで
https://gyazo.com/5fc516928d8f108c310bdff06eb4c5c2
国立国会図書館関西館でやっている催しのよう
行ってみたい
世の中の出来事には何かしら事情がある
それがわかると「まあ、そういう事情もあるしね」となりやすい。
すべてを許せるわけではないが、それがそうなっている納得感みたいなものは生まれる。
調子が出ないときは、無理しない。生きる上での鉄則。
僕も妻も、目の前の困っている人を放置してできない傾向があるのだけども、性質が違う気がする。
妻は親切、僕は気配りという感じ。