設定と言語化の比較
このキャラはこういうコンセプトの作りなので、ここからこう判断できる
つまるところ一問一答で答えていく訳でもないのなら、設定とは『何もかもを端から端まで決めておく』事ではなく、『コンセプト』という、迷ったり新規に質問が来たりした場合に、『このキャラはこういうコンセプトの作りなので、ここからこう判断できる』という、判断の芯、基準があるかないかになる。
この引用元における「何もかもを端から端まで決めておく」に注目すると、「言語化」に似ている
考えを明示的にまとめあげて確定させる
言語化は推奨されるか
https://x.com/geekdrums/status/1904205210396033069
「言語化」というのは、いわば「思考停止の終着点」なのではないか、と気づいてしまった。
言語化がありがたがられるのはそこで、危険なのもそこ。言語化するまでは非常に複雑な思考をしているのだが、言語化して気持ちよくなった瞬間、「そうではない別の表現」をすべて消し飛ばす力が生まれる。
コンセプトと違って、固定される
確定する
選択肢がなくなる
https://x.com/geekdrums/status/1904522108064956559
私自身も自己批判を進めると、やはり言語化は終着点としてではなく「経由地点」として必要なんだ、と思われます。モヤモヤのままでは一瞬で消えてしまう、他人にも伝えられない、それを不完全でもいいから言語化という楔を打って、そこを足がかりにして進む。
前述のコンセプトは、融通が利く半面メンテナンスが求められる
固定されていないから自分で面倒を見る
すす払い、虫干しが必要
そうして、コンセプトの中に「経由地点」が認められるようになる
これが「何もかもを端から端まで」をやると、途端に怪しくなる
一度言語化されたものが、その後メンテナンスされている光景はそうそう見かけない
言語化できたなら、実践も必要
そうしないと現時点の所感を導き出せない
経由地点にできない
メンテナンスもされなくなる
実践して気に入ったなら続けてみる
経由地点になっている
違った、と思ったら一度メンテナンスも挟める
研究対象は自分