総和としてのタスク管理(仮称)(玄武)
本文中に記載があるとおり「間のデザインとしてのタスク管理」は概要は以下のとおりである。
何かしらのインプット(入力)があり、何かしらのアウトプット(出力)がある。その間の処理を担当してくれるもの。それが私にとってのタスク管理である。
きわめて部品的、あるいはモジュール的な捉え方であると言えるだろう。
ここでは、上記の文章の後に続く私自身がタスク管理として採る「総和としてのタスク管理」について考えたい。
もちろん、もっとHolisticな捉え方もありうる。要素還元的に分割して捉えるのではなく、総和としてのタスク管理を見据える、というものだ。言い換えれば、「タスク管理」の範囲をより広く採るといってもよい。そのような視点に立てば、タスク管理が持つ奥深さを包摂できる。
総和としてタスク管理を考えるきっかけとなるやりとりがある。
生産性の定義は難しい。難しいので、簡単なものに飛びつきやすい。わかりやすいのは「早さ」という生産性であろう。例えば1日で10個しかできなかったことが20個できたとする。そのときに生産性は2倍であるといえよう。
さて、その2倍の生産性を得たときに次の日に体調を崩して1日休んだとしよう。さて生産性はどうだろうか。元の1日で10個できた生産性に戻ったか、むしろ体調を崩したことによる見えない部分での悪影響が残って蓄積してマイナスにカウントされるかもしれない。
どこに着目するか、どこに価値を置くのかで評価が分かれてくる。2倍の生産性を得たときを正とし、常に2倍の生産性を生み出すことを求めるのか。それとも体調を崩したことを避けようとするのか。
普段から体が丈夫で多少の無理も効くような人であれば、常に2倍の生産性を生み出すことに価値をおき、2倍の生産性を求めるかもしれない。反対にあまり無理が効かないとわかっている人は、2倍の生産性ではなく健康に価値をおき、体調を崩したことを避けた上で生産性を保とうとするかもしれない。
両者の価値観によりお互いが異なる方向性を持つ。お互いの意見がぶつかることもあるだろう。それもまた一つの問題かもしれないが、より問題となるのは、あまり無理が効かないとわかっているのに、2倍の生産性の価値を求める場合に、行き着く先に待ち受けるのは悲劇かもしれない。価値観の多様性が生産性の多様性を生み出しているようである。
本来この悲劇を避けるのもタスク管理との付き合い方次第である。人がタスク管理をやるときに期待することの中にも「早さ」という生産性が含まれることが多い。しかし、それは特にマーケティングの戦略としてビジネス寄りのタスク管理に付随させている付加価値のように思う。
タスク管理という考えに触れたときにイメージする中にビジネス寄りの余分な付加価値を抜いてみる。文字どおり「タスクを管理する」こと本来の価値。総和としてのタスク管理で「タスクを管理する」こと本来の価値を考えていきたい。
上記に以下のことを追加するかも
GTDのHorizonモデルに価値観があることは一考したい
Re:visonのトークイベントに出ていたTwitterのタイムラインを見て1時間経っていた(溶けていた)時の生産性
次に書く予定の記事
タスク管理と管理
「生産性」の次として「管理」
タスク管理の境界線はない
未使用
“早くしようとする者は遅くなる”
“「早く出来るように頑張る」ということが最終的な生産性を圧倒的に下げていた”
プログラミングというより物事が出来るようになる思考法|牛尾 剛
タスク前とタスク以後(タスクと認識するまでとタスクと認識して以降の話)
タスク前である「タスクと認識するまで」と、下に書いたタスクを実行している時はタスク管理している意識がないというその間にだけタスク管理が存在する
まるで弁証法でいう「否定の否定」のよう
タスクを実行している時は「タスク管理」をしている意識がない(のではなかろうか)
同じことが「タスク管理というタスク」を実行しているときにも言える
(すなわちそれは)タスク管理そのものを楽しんでほしい。(言うなれば)タスク管理そのものにマインドフルネスで取り組む様(さま)。タスク管理にマインドフルネスが役立つのではなく、タスク管理そのものにマインドフルネス
仕事に役立たせるためのマインドフルネス。ではなく、仕事でマインドフルネスという方向性。
問い
なぜ「体調やメンタルを整えて、目標に注ぐエネルギーを高めること」をタスク管理に含めないのだろうか。
仮説
タスク管理なんて非俗なものでは扱ってはいけない崇高なもの?対象を矮小化させている感覚になる?
自問
「体調やメンタルを整えて、目標に注ぐエネルギーを高めること」を含めて「個人の生産性」を検討することが必要はごもっともだが、一介の個人が行うには荷が重すぎるのではないか。
母性原理を思い出す。
「加工される部品の精度は、その部品を加工する工作機械の精度によって決まる」
つまり、「個人のプロダクティビティを考えたり(いわゆるタスク管理)、そのシステムを作る」ことさえもままならない状態で、「体調やメンタルを整えて、目標に注ぐエネルギーを高めること」などできないのではないかということ。
上記記事中にもあるように母性原理の矛盾を突破するのは、「機械には超えることができない精度の壁は、実は「人」自身の手によって超えて」いくものなのかもしれない。
ここでいう人とは個人という閉じたものよりオープン、パブリックな状態
インターパーソナルという単語が頭をよぎる