間のデザインとしてのタスク管理(倉下)
タスク管理とは何か。その問いに答えようとして浮かんでくるイメージは下図のようなものだ。
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何かしらのインプット(入力)があり、何かしらのアウトプット(出力)がある。その間の処理を担当してくれるもの。それが私にとってのタスク管理である。
きわめて部品的、あるいはモジュール的な捉え方であると言えるだろう。もちろん、もっとHolisticな捉え方もありうる。要素還元的に分割して捉えるのではなく、総和としてのタスク管理を見据える、というものだ。言い換えれば、「タスク管理」の範囲をより広く採るといってもよい。そのような視点に立てば、タスク管理が持つ奥深さを包摂できる。
しかしながら、この二つの見方はそこまで明確に対立するものではない。総和としてのタスク管理を見ても、その中にはいくつもの「部門」が見出せるはずだし、モジュール的にタスク管理を捉えてもそこに相互作用が生じることは避けがたく確認される。
結局同一の対象を見ているのだから、実体やその性質が変わらないのは当然である。とは言え、あえてモジュール的な捉え方を強調することには一定の意義があると筆者は考える。
その際にポイントになるのが、「間のデザイン」である。
=== 入力と出力の間にある
モジュール的観点を採用すると、まず二つのことに気がつく。
・入力と出力に「接続」できている必要がある
・入力と出力に「影響」を与える
まず前者から見ていこう。
タスク管理をモジュール的に捉えると、それは「入力」を裁き、「出力」につないでいくための仕組み(システム)だと言える。ごく単純に考えて、「入力」と「出力」が異なれば、適切な仕組みの形も異なるだろう。この観点が極めて重要である。
ある人が使ってうまくいっている「タスク管理」の手法が、別の人でもうまくいくわけではない。それはそれぞれの人の性質や個性による部分もあるが、それ以上に「入力」と「出力」が異なるからだ。
ブラック企業で働く人のタスク管理と、出勤時間が自由で作業の裁量が100%近くある企業で働く人のタスク管理手法が同じでいい、ということがあるだろうか。だいぶ現実をねじ曲げて想像しないと、それにYesと答えるのは難しいだろう。
どんなタスクがどんな頻度と強度で、どのくらいの数発生するのか、という「入力」は人で違う。
当然「出力」も違っている。いくらでも締め切りを延ばしてもらえる人気作家と、入ったばかりの新入社員は求められている「結果」が異なる。さらに言えば、そうした行為を通して「何を為したいのか」も異なる。残業さえなければなんでもいい、という人と、一秒でも早く出世したい、という人でもやっぱり手法は異なるだろう。軽トラックとフェラーリのエンジンは違うのだ。
もちろん、どのような状況においても、行為としての「タスク管理」は必要である。しかし、その捉え方では、「タスク管理と呼ばれるものをやればなんでもうまくいく」という認識を生みかねない。それは相当に非効率だし、ときに危ない状況もある。
「タスク管理」を漠然と捉えていると、入力と出力に合わせた適切さ、という観点が出てきにくい。しかし、それは必要なことだし、もっとも大切なことだと言える。一口に「タスク管理」と言っても、いろいろなものがあるよね、という理解から更に一歩進めて、「入力と出力に合わせて、その間をデザインしよう」と考えた方が、よりその人の環境に適した仕組みを考えやすいだろう。
これがモジュール的観点を採用する理由の一つだ。
=== 入力と出力に影響し合う
もう一つのポイントは、タスク管理は入力と出力にそれぞれ影響を与える、という点だ。
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たとえば、何かしらのタスク管理手法を採用しているときに、あまりうまくいかないという「結果」(出力)が確認されたとしよう。そうしたら、タスク管理の手法を見直すことになる。結果がフィードバックとなって、手法に変化を与えるわけだ。
それだけではない。それがさらに「入力」にまで影響を与えることがある。たとえば、あまりにも発生する作業の数が多いので、ミスが頻発するなら「もっとこなせる作業を増やそう」というのではなく、「そもそも作業の量を減らせませんか」と上司に相談することもあり得るだろう。
独りで仕事をしている場合なら、作業ばかりでまったく休憩が取れておらず疲れが蓄積しているという「結果」を受けることで、そもそもタスクにするものを減らそう、という判断ができる。
こうした判断は、「タスク管理」をしていないと、なかなかなしえないことである。作業をたくさんしすぎている、という自覚がまず生まれないし、どの程度の量が多いのか、という数値も出せない。そういう状態では、上司に訴えかけても説得力は生まれないだろう。適切な管理をした上で、それでも起こる「問題」について提起するからこそ、はじめて耳を傾けてもらえるようなところがある(むろん、それで望み通りの解決が訪れるとは限らないのが会社員のつらいところではある)。
このように、タスク管理を「間」におくと、それが調整装置であることが見えてくる。
ときどき、あまりに管理手法を「信奉」する余り、その手法に合うように入力や出力を従わせるような人を見かけるが、さすがにそれは原理主義的すぎるだろう。「タスク管理手法」が全体の統括者になるのではなく、むしろ入力と出力の間に入って、その調整を行う存在だと捉えた方が、無理な「ねじ曲げ」を行わなくても済むだろう。
=== それぞれの人にとっての間のデザイン
以上のように、タスク管理を「間のデザイン」だと捉えることで、もう一段整理した議論ができるようになるのではないか。
もちろん、ここまで確認したように、モジュール的とは言っても孤絶的なものではない。出力から影響を受け、入力に影響を与える。そのような影響の関係性があることで、基本的にタスク管理は「すべて通じる」要素を持っている。それは間違いない。
一方で、あまりにそれを強調しすぎると、「タスク管理万能論」が生まれかねない。「タスク管理」(だと自分が思っていること)さえやっていれば、すべての問題が綺麗サッパリ消えてなくなる、という幻想である。さらにそこに単一手法信仰が重なると、その手法を崇め、それ以外を見下すような視点が生まれてしまう。
これはあまり健全な態度とは言えないし、議論が活発になることもないだろう。
*やっかいなのは、そうした幻想を用いて自分のビジネスを展開させようとする人が一定する存在することだ。
私たちはそれぞれの人生において、それぞれに異なる入力と出力を持つ。私たちはその間のデザインとして「タスク管理」について考える。自分の「間」をデザインする。
よって、自分と近しい入出力を持つ人であれば、その人の手法は参考になるだろう。逆にまったく違う人は、その逆のやり方を考えてみることでうまくいく、という発想の刺激剤としても活用できる。どちらにせよ、他人の方法論や自分の「間のデザイン」において有効なのである。
ともかく、単一の原理ですべてを解決しようと考えるのはやめにしよう。何が「正しい」のかはこの際どうでもよい。何が「機能する」のかを検討すればよい。
それぞれの人にとっての、それぞれの間のデザインを。
それが今後検討していきたい話である。