ラ・メトリ
1748『人間機械論』
賢者は自然や真理を研究するだけでは十分ではない。思考する意思と能力を持つ少数の人々のために、あえて真理を述べるべきなのだ。
人間本性論に向けた方法論
経験と観察が唯一の指針となる。この二つは、哲学者であった医師たちの記録の至るところに見られるが、医師でなかった哲学者たちの著作には見られない。前者は人間の迷宮 を旅して照らし出し、彼らだけが、私たちの目から多くの不思議を隠している外皮の下に隠されている[生命の]泉を裸にした。彼らはただ一人、私たちの魂を 静かに観察し、その惨めさにも栄光にも何千回となく驚かせ、第一の状態では軽蔑することもなく、第二の状態では賞賛することもなかった。繰り返すが、この テーマについて語る権利があるのは医師だけである。
そこでデカルト、マレブランシュ、ライプニッツ、ヴォルフを挙げ、彼らの合理論的帰結を次のように批判する。そして、そうした合理論的「哲学者たちの戯言に耳を貸さず、経験の杖を手に取ろう(...)この杖なしでもやっていけると考えるのは、最悪の盲目である」と訴えるのである。
人間は非常に複雑な機械であるため、事前に機械の明確な考えを得ることは不可能であり、したがって機械を定義することも不可能である。このため、偉大な哲学者たちがアプリオリに、つまり、いわば精神の翼を使う限りにおいて行ってきた研究は、すべてむなしいものであった。
このようきラ・メトリは、理論的な思索には興味がなく、経験的な方法のみが正当であると考えたのだ。
人間機械論
魂のさまざまな状態は、常に肉体の状態と相関関係にある。
これを示すために、様々な好例を示す(その最も最たる例を下記で引用する)。
魂と肉体は一緒に眠りに落ちる。血液の動きが落ち着くと、平和で静かな甘い感覚がメカニズム全体に広がる。魂は、まぶたが垂れ下がるにつれて少しずつ重く なり、脳の線維が弛緩するにつれて緊張を失っていくのを感じる。これらの筋肉はもはや頭の重さを支えることができず、魂はもはや思考の重荷に耐えることが できない。
そしてその相関は単なる物心二元論の話ではない。実際に冒頭で「デカルトをはじめとするデカルト派も、マールブランシュの信奉者たちも、同じ過ちを犯している。彼らは、あたかも人間の中に2つの異なる物質があることを当然視し、あたかもそれを見たかのように数え上げた」として取り上げて否定している。彼の主張はむしろ肉体によって魂が作動することを次のように明らかにするのだ。
人体は自らゼンマイを巻く機械であり、永久運動の生きた見本である。栄養は、熱が興奮させる運動を維持する。食べ物がなければ、魂 は衰え、狂い、疲れ果てて死ぬ。魂は、火が消える瞬間に燃え上がるテーパーである。しかし、肉体に栄養を与え、生命を与えるジュースや強い酒を血管に注ぎ 込めば、魂はそれらのように強くなり、まるで誇り高き勇気で武装するかのようになる。このように、熱い飲み物は、冷たい飲み物なら静まるはずの血液を、嵐 のように躍動させる。(...)身体は時計であり、その時計師は新しい胆汁である。胆汁が血液に入るとき、自然が最初に行うことは、化学者がレトルトの夢ばかり見ているような一種の熱を 胆汁に起こさせ、発酵させることである。この熱は霊の濾過を促進し、あたかも意志によって送り込まれたかのように、機械的に筋肉と心臓を動かす。
唯物的身体論はこうして極地に達する。
人間機械のこれらのバネについて、もう少し詳しく説明しよう。生命運動、動物運動、自然運動、自動運動はすべて、このバネの働きによって行われる。 予期せぬ断崖絶壁を目にして恐怖に襲われたとき、身体が縮こまるのも、打撃の威嚇にまぶたが下がるのも、ある人が指摘するように、純粋に機械的な方法によ るものではないだろうか。冬に皮膚の気孔が閉じて寒さが血管の内部まで伝わらないようにするのも、胃が毒や一定量のアヘンやあらゆる嘔吐薬などで刺激され ると嘔吐するのも、機械的な手段によるのではないだろうか?心臓や動脈や筋肉が睡眠中にも起きているときと同じように収縮するのも、肺が運動中に絶えず役割を果たすのも、血管や直腸などの括約筋を機械的に動かすためではないだろうか?
こうした唯物論者の人生は極めて冷淡でつまらないように見える。が、ラ・メトリはそんな偏見に真っ向から対する唯物論的人生観を論ずる。
そう考える者は、賢く、公正で、自分の運命について平穏であり、したがって幸福であろう。恐怖も欲望もなく死を待ち望み、生を大切にし(多くの喜びがある この場所で、嫌悪がいかに心を堕落させるか、ほとんど理解できない)、自然から受けた恩恵を感じるのに比例して、自然に対する畏敬の念、感謝、愛情、優し さに満たされるであろう。それ以上だ!人間性に溢れ、敵であっても人間性を愛する。彼が他人をどのように扱うか見てみよう。彼は悪人を憎むことなく憐れむ。しかし、心と体の構造の欠点を赦すことで、その両方の美と美徳を賞賛する。自然が寵愛した者は、継母のような扱いを受けた者よりも尊敬に値すると考えるだろう。このように、これまで見てきたように、すべての獲得の源である自然の賜物は、他のあらゆる思想家が不当に拒絶する敬意を、唯物論者の口と心から得るのである。要するに、唯物論者は、虚栄心の抗議にもかかわらず、自分は機械か動物にすぎないと確信し、自分の同類を悪者扱いすることはないのである。
結論
人間は機械であり、全宇宙には異なる変化を遂げた単一の物質しか存在しないと結論づけよう。いわば松明を持った私の感覚が、自ら道を照らすことによって理性に従うよう私を誘導してくれなければ、私はこれほど信用できないと思う道しるべを軽んじていたことだろう。経験はこのように、理性に代わって私に語りかけてきた。しかし、私は、いかなる学者も異論を唱えないような多くの観察の結果を除いては、最も精力的で即座に推論されるような推論さえも自分に認めていないことに 気づかれたに違いない。さらに、私は、観察から導き出した結論の判断者は学者だけであると認識している。このように強く堅固な樫に対して、神学や形而上学や学問の弱い葦が何の役に立つというのだろう。私は、(偏見や迷信の影が地上に残る限り)絶え間なく出会い、動き続ける2つの物質が相容れないと仮定して主張される、空虚でつまらない観念や、哀れで陳腐な議論について言及する必要があるだろうか。私がよほど欺かれていない限り、このようなのが私のシステム であり、むしろ真実である。簡潔で単純だ。論争するのは勝手だが。